非正規的生活の1 嘘とかしゆか似の娘 2-1

『Gone Girl』と言う小説がある。女性の恐ろしさを女性作家が書いた恐ろしい小説だが、その結末の部分が秀逸だ。僕なりに訳してみる。


「…私たちは世界で最高の、輝ける核家族になる、その前夜を迎えているのだ。

 私たちは家族を維持しなければならない。ニックはそのことをまだ飲み込めてはいないようだ。今朝ニックは私の髪を指で梳かしながら、何かほかにできることはないかと聞いてきた。私は「あら、ニック、どうしてそんなに素敵なこと言ってくれるの?」と言った。

 てっきり私は彼が「当然のことだろ、君を愛しているんだ」と言うかと思った。

 しかし彼はこう言ったのだ。「申し訳ないなと思って。」

「どうして?」

「毎朝君は目を覚まし、自分になろうとしなければならないから、だよ」

 私は本当に、心からニックにそんなことを言ってほしくなかった。頭から離れない。考えるのをやめられない」


 あらゆる人間が自分の性や本能に縛られることは自明だが、これほど一般的な女性の業を言い表す名文もないものだ、と僕は一読して感じた。

 振り返ってみると、あの時のYはまさしく自らの性に縛られており、また僕もその見えない力に突き動かされていたと思う。僕らは等しくケダモノだった。そう、今も同じである通り。


 Yを家まで送った二回目の日からしばらくして、そして僕の設定した時限爆弾が爆発する前に、Yと同じ時間に帰る日があった。その日のYはいつになく白い顔が白くなっていたので、何やら体調が悪いのかと思っていた。案の定Yは僕に憂いを含んだ目線を向けてきたので、僕も声をかけずにいられなくなる。

「お疲れ。なんか調子悪い?」

「はい…」

 エレベーターの中で、他に人もいなかったから、空気は二人だけが共有している。

「何かあったの」

 何気ない問いかけのつもりではあったが、Yの口を開かせるのには充分だったようである。Yはうなずいて、「ちょっとお話しません?」と言ってきた。

 来たか、と思って僕は「いいよ」と答える。できるだけ感情は抑えたが、若干「待っていました」と言う気持ちが漏れたのではないかと心配する。どこかで飯でも食う?と言う僕に「ちょっと食事って感じじゃないんで、どっかで座って話しません?」とYは言った。いわゆる「ご飯が喉を通らない」状態かと僕は理解した。

 僕らは地下鉄のベンチに腰をかけた。この街の地下鉄のベンチは少々平たくて冷たい。できれば僕はどこか暖かい場所がいいと思ったが、相手がここがいいと言ったのだからここに座る。

「で、どうしたの」

 空気は醸成した。後は呼び水を使うだけだ。そこからのYの話はなかなかに奮っていた。


 彼氏の実家にいったんです。で、いつも私たち、まったりするんです。彼氏の実家はお仕事のビルも兼ねているけど、部屋は上の階を使っているから親御さんも来ないし。それで、私生理だったからシャワーだけ先に借りて、ご飯とか作って。それで、彼氏がシャワー浴びにいって。で、そのとき、私、本当はそんなことするつもりじゃなかったんだけれど、見ちゃったんですよね。携帯。そしたら他の女性とメールしてて。えっ、て。それで、調べてみたらSNSとかで結構他の人とつながってるらしくて。ちょっとショックで。どうしよう、って。ちょっと辛くて、悶々として。

 聞いてみるのとか、できないですよ。だって怖いじゃないですか。私はマンネリでも彼氏といるの嫌じゃないし。事実浮気?していたらどうなるのか、考えて凄い辛いもん。

 私今まで彼氏が途切れたことないんですよね。彼氏がいないと不安になるの。高校生くらいから結構そうなって。昔は割とオタクだったんですけど、高校入って男子と付き合うようになってからいろいろ変わってきた。何か男子に好かれちゃうみたいで。学校の中で部活の同級生に告白されて、断ったら乱暴されそうになって、問題になったりした。

 大学に入ってからもそうで、同じ学校の子と付き合って、その人と次の彼氏がダブっていたりすることもあって。そうしないと不安なんです―。


 すなわちYは自分の罪状と犯罪傾向を告解する一人の迷える子羊になっていたのであった。Y・ザ・コンフェッサーである。僕は理解した。これは自分のことを話して相手が引くかどうかを推し量る面接試験なのである。僕は今、恐るべき本能ゲームの渦中に足を踏み入れようとしていた。そしてそのことに全く怖気づいてはおらず、むしろ興奮を覚えていたのである。『タクシー・ドライバー』の主人公、あのヴェトナムから帰還して社会に居場所がなく、結局は自らの敵を作り上げて正義の名のもとに自分の暴力を行使するしかできない不幸な青年は、たぶんこのような心持ちだったのではないか。

「で、どうしたいんだよ」

 僕の問いかけに、Yは「わからないー。もう本当嫌。別れたくないし、でも浮気されるのは嫌だし」と言って仰け反った。薄い胸が綺麗に弓なりになっていた。この子のこういう隙とノリが、数々の男を誘惑したのだろう。

 僕らの前を仕事場の人が何人か通り過ぎていく。不満を述べ続けるYはあまり気に留めないようだ。僕としても人気のあるYとここで一緒にいるところを他の人に見られるのは嫌な気分ではなかった。そういう歪んだ自尊心が僕にはあった。

「まずさ、もうちょっと様子見るなりなんなりしたらいいよ。それから考えたら?我慢できないならどのみち問いただすしか、ないじゃん」

 うーんと唸ってYは自分の足元を見ている。もしかしたら僕に何か他のことを期待しているのかもしれない。しかし僕はそれに今のところ応じるつもりはない。切り札や隠し玉は問っておいた方が活躍させられると言うものだ。何より時限爆弾はまだその効果を表わしていない。時限爆弾の効力とはつまり、相手が僕と二人きり密室で相談をするというものだ。それまでは焦ってはならないのだ。

「わかりました。あ、もうジューイチジですよ。そろそろ帰らないと」

 案外あっという間に時間が過ぎていた。ベンチで小一時間を僕らは過ごした。

「そだな」

 僕はうなずき、Yと一緒に自宅方面の地下鉄に乗った。街の中心部から伸びるこの地下鉄には多くの通勤客が乗る。僕らは何やかや話の続きをしながらその流れに紛れ込んでいく。Yの降りる駅はその路線の終点で、僕よりも長く乗ることになる。

「あーあ、本当に嫌。声かけてるだけで終わっててほしい」

 軽く笑いながらYは身をよじって地下鉄のドアに寄りかかる。まあね、そうだったらいいんだけど。僕は生返事しながら、Yの首元の産毛の流れを眺める。動きすぎるのは良くない。たとえそれに触ることが可能であっても、触ろうとすれば動きを読まれる。狩りとはそういうものである。

 次の出勤はいつ?この日です、などと言いながら先に僕の降りる駅についたので、じゃあまたと言って僕は降りる。その時に見たYの顔は、僅かながら色を取り戻しているようだった。

「ごめんなさい、彼女さんいるのにこんな話に付き合ってもらって。それじゃ。」

 その、少し媚びて、でも精一杯寂しさを堪えようとしていた笑顔を僕は今でも鮮明に思い出すことができる。可愛らしいとは思いながら、これはもう長くないな、とも残酷に考えている僕は、存外人が悪い。


 それからの数日はなかなかに楽しかった。いつYが事実を知ってこっちに相談を持ち掛けてくるのか、そう考えることで仕事も捗った。

 僕は予想していた。恐らくYの彼氏は「肉体も含めて」浮気している。Yはそれを遠からず知る。いや、探り出さずにはいられないのである。そうしてそこまで行った時、大学の友達やその他に相談すると言う手口もあるが、ああいう手合いの女性は間違いなく男に頼る。何故なら異性による不満は異性によってでしか解消できないことを僕は自己の経験から知っている。そう覚えている。その時、僕と言う、比較的憎からず思っていて、自分の話を聞いてくれる存在が浮上してくる。後は、相手が弱っているところを迷わず狙撃するのみである。

 勿論、彼女にはその話は話さない。僕はそこまで極悪ではない。敢えて話す必要もない。それに向こうは向こうで「誰々に口説かれている」と言うようなことをこちらに匂わせることもあったので、僕はそれに少しばかり苦情を言っておくポーズを取っていた。遠距離の恋愛とはそういうものだ、と僕は心得ていた。

 

 その日は朝から降雪が厚く、僕は調べ物や資格試験の教材を買いに市の中心部に出かけていた。歩きながら携帯を観ていると、不意にメッセージを受信したのでそれを開く。Yからだった。雪がディスプレイにひっきりなしに落ちて水滴になるのを慌ててぬぐいながら僕は文面を見る。


 Tさん、次のお休みとかいつですか?彼女さんと一緒ですか?

 ちょっと話を聞いて欲しいんです。


 爆弾は炸裂した。そして被害は甚大だったようである。非正規のテロリストは、ささやかな局地的勝利を収めていた。僕は適当な日時を伝え、ひとりだ、と伝えた。じゃあこの日に会いませんか。

 否やはなかった。

 


  

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