サンゴ
松本周
第1話
僕には名前が無い。決められた名前があるのだが、それは僕の生まれた瞬間から何日も何年も離れていて、未だにそれに馴染むことが出来ないのだ。僕の代わりに彼には名前がある。僕は彼の名前をもらった。
僕は誰だ?
僕は人間で、僕はピアノだ。十五年前、僕の家にやって来たピアノには、「誠一」という名前がついていた。十五年前というと、それは僕の生まれる三年前で、僕が生まれたとき、誰かが僕の名前を考えようとした。だけど誰も何も思いつかなかった。誰かが考える振りだけをした。そして、ピアノの蓋の裏側に油性ペンで十五年以上昔に落書きされた「誠一」という二文字が、そのまま僕の名前になった。だから僕は誰かに僕の名前を聞かれたら、「誠一」と答えることになっている。僕はその名前が誰のことなのか知らない。そのピアノは中古品だった。十五年前、僕の家にやってきたときにはもう、誰かがピアノに「誠一」という名前を刻んでいて、誰がその名前を記したのかも、誰がそのピアノを売ったのかも、誰がそのピアノを買ったのかも、分からなかった。誰かが「誠一」という二文字を気に入って、それを僕の名前にしたということ以外僕には誰も何も教えてはくれなかった。僕には分からない。一体誰がピアノを連れてきたのだろう? 僕の家では誰一人ピアノを弾けなかった。父さんも、母さんも、僕も、弾けなかった。僕の家には音楽が一つも無い。
しばらく振りのシバラクさんが、僕の目の前で話しだす。物凄く口が臭い。その臭いのうちのほとんどは、煙草と酒の臭いだが、汗やごみや何やかや僕の知らないものが混ざって二分間以上話を聴き続けることができない。海の傍に住んでいると、潮の匂いが気にならないのと同じように、僕は煙草の匂いにも慣れ、酒の匂いにも慣れ、シバラクという名前にも慣れた。でも臭いものは臭い。そして何を言っているのか全く分からない。物凄い早口なのだ。
目覚まし時計が鳴る。じりりりり。
いや、もっと正確な音がどこかにある。
かんかんかんかん。
これも違う。
どかんどかんどかんどかん。
これが一番近い。壊れているのだ。
何が?
僕の耳がだ。僕は寝ている。シバラクさんが僕に話しかけたのはもう昨日のことだ。昨日の夜だ。僕はいつの間にか眠ってしまって、そのまま何時間か経って朝がやって来たのだ。どかんどかんと叫ぶ目覚まし時計を掌で叩くと、悲鳴のような音が止む。僕は目を覚ます。いや、その前に体を起こす。もうカーテンは開け放たれている。太陽の光はとっくに僕の部屋に差し込んでいる。母さんが何時間か前にカーテンを開けたのだ。光がぐさぐさ目に刺さって、僕は目を覚ます。今僕は目を覚ました。部屋の中には誰もいない。声もどこからも聞こえない。もうこの家には僕以外、誰もいない。
誰かが僕を呼んでいる。僕は声のする方に駆け下りていく。扉を開けて外に出る。太陽の光を全身に浴びる。辺りを見回すと、誰もいない。細い通りを端から端までじっと見つめても、誰も歩いていない。しばらく待っていると、後ろ足を引きずった野良犬が道を横切って路地に入っていく。そしてまた動くものは何一つ無くなる。僕はじっと立ち尽くしていた。
行かなくてはならない。
家の中に戻り、顔を洗って服を着替える。食パンを丸めながら喉に押し込んで、コップ一杯の牛乳を飲み干す。歯を磨いて、スニーカーを履いて、僕はもう家の外に出た。まだ、外には誰もいない。永久に誰もいないだろう。僕は道の真ん中を歩き出す。足は意識しなくても勝手に動いていく。僕はどこへ行く? 僕は行った事のある方向へ歩いていく。昨日の夜に約束した方向だ。しかしそれは最初のうちだけで、しばらくすれば、別の約束の方へ歩き出すだろう。しばらくすれば、行った事の無い方向に行くだろう。
光が眩しいので、僕は目を細めて歩いている。黒い地面が輝いていて、色んなものの輪郭がくっきりしている。しかしじっと見つめているとすぐに目が痛くなる。僕は目を閉じる。この町の中なら目を閉じたままどこへでも歩いていける。目を閉じていると風が僕の鼻をくすぐって、通り過ぎていくのが分かる。その方向へ歩いていくのだ。そしてその風の匂いはいつも嗅ぐたびに違っていて、今は海の匂いがする。遠い遠い匂いだ。僕は今、海から何キロも何十キロも離れたところを歩いている。風は何百キロも離れた海からやって来た。僕を海から陸へと連れて行く。今僕は崖の上に向かって歩いていく。町のなだらかな坂道をゆっくり歩いて登っていくと、汗が体に少しずつにじむ。僕は少し早く歩き、少しゆっくり歩く。そして走り出す。僕の足は重くなり、硬直し、柔らかくなり、急に軽くなる。そこで目を開くと、僕は坂の頂上にいるのだった。風が僕の服の隙間から入ってきて、僕の汗はすぐに乾いていく。光のど真ん中に僕は立っていて、辺りが緑色に染まって何も見えない。僕は何も見えないまま歩き続けている。少しずつ目が光に慣れると、もう風の匂いが消えている。もう僕は何も感じない。何を感じているのか分からない。何かが聞こえる。それは錯覚だ。僕が僕を呼んでいるだけだ。僕はそっちに向かって歩いていく。僕が歩いているのは既に百回も千回も歩いた道だ。でもこれが一万回目だとしても、僕にとっては初めての道と同じだ。この道を、一人で歩くのは、初めてなのだから。
僕は手をかざして空を見上げる。僕は崖を見上げる。崖の上には家が立っている。その家は百五十年前から同じ場所にあると言う。そして今、一人の男が住んでいる。何度台風に押しつぶされようが、何度雷が落ちようが、何度泥棒に入られようが、かたくなな鋼の意志で、持ち主がその家を守り続けているのだ。そして長い月日が経つうちに、今はもう、誰もその家を訪れなくなった。柱も壁も、塗料は剥がれ落ち、虫が喰い、家中に全身が痒くなるような臭いがたち込めていて、誰も数分とその家の中にいられないのだ。ただ一人世界で僕だけだ。ただ一人世界で僕だけが、彼の客なのだった。
そして僕もきっと、明日からはここには来ない。
僕は崖の上までらせん状に続く道を歩いていく。空に近付いていく道なのに、光がさっきまでよりも暗くなったような気がする。黒ずんだ薄汚い家が、光を吸い込んで周囲に影を反射しているからだ。皆が言う、この道をぐるぐると登っていくと、ぐるぐると気分が落ち込んでいくと。でも僕は違う、僕は、この道が好きだ。何故なら、この道を歩くときはいつも何か楽しいことの始まりだったからだ。僕はこの螺旋坂をこれまで何度も繰り返し登り、これまで何度も楽しいことを繰り返してきたから、僕の体は左に傾きながら回転するたびに、自動的にその時々の気持ちを思い出し、息が上がるまで、息が途切れても、走って駆け上るのだ。だから僕は今初めて、この道を楽しい目的の為に登らないのに、体だけはいつものようにしゃきしゃき喜んで動くのだった。そうだ、だから今も僕は少し笑っていて、心に向かって自分を問いただしてみても、この瞬間の、道を上って崖の上に辿り着く体の喜びだけが、僕の全部になって、後に何が起こるか、これから何をするか、僕は考えていなかったのだ。
目の前に家があって、それは犬小屋に扉を付けて、そのまま大きくしたような適当でいい加減で薄汚れた代物だ。屋根は剥がれ落ち、ドアはいつも半開き、風が吹けば崖から滑り落ちていきそうな気がする。だが決して崩れ落ちることは無い。この家はこれから百五十年間もずっとここにあるのだ。僕が死んでも、この家の持ち主が死んでも。
この家の持ち主はもう死んでいる。
僕は家のドアの前で軽く足踏みする。それが知らせだ。ドアをノックするとドアが崩れ落ちてしまうのだ。つま先で二回、かかとで二回、ピッチャーがマウンドを慣らすように地面をつつく。気配が近付く。僕の気配は消える。僕はやって来るシバラクさんの声を聞く。風の音だけが聞こえる。他には何も聞こえない。家の中で、風の動きが少しだけ変化するのが分かる。僕は半開きのドアに向かって言う。僕だよ。僕は誠一だ。約束したから来たよ。僕以外には誰もいないよ。
半開きだったドアが内側から開け放たれた。シバラクさんがそこに立っていた。僕を見ずに、僕の百メートル後ろを見ていた。物凄い体臭が押し寄せてきた。僕は顎をぐっと引いて、腹に力を入れる。シバラクさんが、痙攣しながら喋りだした。早口でもごもごと呟いた後、こう言った。
「サンゴはどこだ?」
サンゴはいないよ。サンゴは死んだかもしれない。
僕はそう嘘をついた。サンゴは死んだかも、ではなく、死んだのだ。一週間前、サンゴの葬式があって、サンゴは死んだ。だがそれは僕にとって本当ではなかったのだ。僕はその葬式に出てもいないし、その葬式にはサンゴの死体が無かったし、二週間前にサンゴと最後に別れたとき、僕達は五時間後に会う約束をしていたのだ。十時間後、サンゴの靴が用水路を流れ落ちてきて、十五時間後、雑木林の中で、サンゴの左手が見つかった。その手首にはサンゴがいつも付けていた、水色のスイス製の腕時計が引っかかっていた。誰もがサンゴは死んだと思った。僕にとってもそうだった。サンゴは死んだのだと思った。だが僕には分からなかった。何故サンゴは死んだのか。なぜ左手だけが見つかったのか。何故左手が切られたのか。誰がいつ、何故。そしてサンゴは、サンゴの体は今どこにいるのか。僕はそういったことが何もかも分からなかったし、それらの疑問に答えられる人も一人もいなかった。つまり皆が言うには「状況」でサンゴは死んだのだった。僕も頭の中という状況ではサンゴは死んだと思う、だけど心の中では一箇所も納得していない。だから僕にとってサンゴは死んだかも、ではなく、絶対に死んでいなかった。でもそれは、自分だけが分かっていればいいことだった。本当のことは僕にとってもシバラクさんにとっても誰にとっても、全ての事実、つまりサンゴの体が生きていようと死んでいようと見つかった時、はっきりする。だから僕は言う。
僕はサンゴの体を捜してるんだ。
シバラクさんが死ぬほど臭い息を吐きながら言った、「サンゴは死んだのか?」
サンゴは僕が殺すまで死んでないよ。
「それでお前はどうするんだ」
探しに行くんだよ。
「どうやって探すんだ、どこを探すんだ」
サンゴは幾つも名前を持っていた。そしてその名前を全部知っていたのは僕だけだ。どんな細い道を探しても、どんな大勢の中を見比べても、名前を知らなきゃ人は探せない。顔は変わっても名前は記憶に残るから、僕だけがあいつを見つけ出せる。僕はそう言ったが、こうしたことは全部昨日のうちにシバラクさんに話していたことだった。僕は自分の記憶を辿り、意志を確認することになるのだった。すると僕は思い出す、昨日の夜のことを。
昨日の夜、シバラクさんが僕の家にやってきて、サンゴからの預かりものがあると言ったんだ。父さんも母さんも町の人は皆、シバラクさんが何を言っているのか分からないから、僕だけにそっと教えてくれたんだ。明日の朝、つまり今日、崖の上の家に来いって。それを覚えてないの? それともそれは全部僕の夢の中のことだった?
「現実だ現実だそれは現実だ」
シバラクさんはそう言いながら、肩を震わせて、僕を見た。だが僕はシバラクさんの顔をまともに見返すことが出来なかった。シバラクさんの目には光が無く、口は裂けるほど横に広がっている。だが僕はそれを正面から見た事は一度もない。横顔をそっと見たり、斜めから覗いたりしてきただけで、その断片的な各部を組み合わせて頭の中で出来上がった全体像は、人間とは思えないほど恐ろしいのだ。だから僕はシバラクさんの目を見つめない。きっと、そんなことは誰にもできない。昔僕は聞いたことがある、若いころシバラクさんにも恋人がいて、恋人はシバラクさんの目を覗いているうちに心臓が止まって死んでしまったらしい。当然それは誰かの作り話だと思う。だがシバラクさんの恋人が死んだのは本当だ。それ以来シバラクさんは人と普通に喋ることが出来なくなり、体を洗うことも部屋を掃除することも出来なくなってしまったのだ。
シバラクさんは口の中でもごもごと舌を動かした後、早口で呟いた。「お前お前に渡すものがあるかもしれない」
そうだよ、昨日シバラクさんは僕にそう言ったんだ。僕はそう言いながら驚いた、こんな風にすぐにシバラクさんの記憶が戻って、すぐに言葉になるのは珍しかったからだ。僕はシバラクさんから会話の力が失われてしまわないうちに、次の言葉をうながした。それは一体何?
「お前一人で行くのか、何日もかけて、他にすることはないのか」
待ち受けていた通りの別の返答が来て、僕は答える。夏休みなんだよ、と。そして、来週から、と心の中で付け足した。同時に、僕には分からないのだった、子供に向かって訊く事が他に無いのだろうか? 僕は六年間学校に通っても、頭の中だけが学校にいて、心の中はいつもそれ以外の場所にあった。それはどこか? 僕には分からない。僕の心は僕がそれを真剣に問いただす時だけ戻ってきて、普段はいつもどこかにしまわれている。僕は知らない、心が眠っている場所を。それさえ知れば、僕は学校にいようと一人で友達を探していようと、何をしていようと、いつも一心同体になって、膝の上に小さな子犬を乗せるように自分自身を友達にすることが出来るのだろうか。それとも、僕だけなのだろうか、自分の名前にも場所にも慣れ親しむことができないのは?
だから昨日シバラクさんと約束したんだよ。男が旅に出るときに絶対に必要なものがある、それを明日渡してやるから家に来いって。
「そうかそうかそうかそうかそうか」
シバラクさんは何度も激しく頷いて、そうかそうかそうかと言いながら家の中に引っ込んでいき、ウィスキーのビンを右手に持って、左手に水色のナップザックを引きずって戻ってきた。
「ここにお前の全てがある」そう言ってシバラクさんはげっぷした。僕は息を止めて、シバラクさんからナップザックを受け取った。僕はずっしりと重いそれを両手で掲げるように持ち上げて、酒や何かで汚れていないかどうか確かめたが、一点の染みもなかった。この家の黒い影に包まれた空間で、そのナップザックは光り輝いているように僕には見えた。だから僕はすぐにそれを背負って、シバラクさんにありがとうを言いながら背を向けようとした。もう、正面から至近距離で向き合っているのは限界だった。
シバラクさんが、離れて行く僕に向かって聞く。「お前どこに行くんだ」
分からない、と僕は言った。そして、分かってる、と言い足した。
僕は考えている、分かっているなら探す必要なんか無いじゃないかと。そして僕は思い出している、サンゴは電車に乗ってこの町にやって来たと。
僕は昔から不思議だった。何故大人は電車に乗ると必ず眠ってしまうのか。僕とサンゴが一緒に電車に乗ったとき、車両の中で目を覚ましているのはいつも僕達二人だけだった。僕達には眠る理由も起きている理由もどちらも無かったが、どちらかを選ぶというなら必ず起きている方を選んだ。僕達は何をしていたというわけでもない。外の景色を見たり、何かを話したりするというのは何かをしているうちに入らない。僕は今も何もしていなかった。ナップザックを抱え、じっと窓の外の景色を眺めていただけだ。僕は電車に乗っている。僕は今電車に乗っている。そして今も、ただ一人僕だけが目を覚ましていて、まばらな乗客は誰もが眠りに落ちていた。きっと運転手も眠っている。そして駅に着くと電車は自動的に止まり、自動的に走り出すのだろう。
窓の外の陽射しはまだ明るい。明るすぎるほどだ。僕はカーテンを半分だけ下ろして、窓の外を見つめ続けた。風景はすぐ外でコンクリートの壁に遮られていて、ほとんど何も見えない。時折壁が途切れて、一瞬だけ緑の野山や、町の切れっ端が見えた。それ以外には何も見えなかった。そのせいで僕はずいぶん長い時間、一人で電車に乗って遠くに行くのが初めてだということを理解できなかった。自分が一人だということが分かったのは、喉が渇いてきたときで、僕は反射的に隣の席に振り向いた。何故なら、僕とサンゴはいつも二人で一本のジュースを分け合っていて、何かを飲みたいときには二人の好みを合わせる必要があったからだ。僕は居もしないサンゴに声をかけようとしたのだった。だが勿論サンゴはいない。僕は目を細めた。そしておそらくこの電車は自動販売機があるほど用意の良い乗り物ではない。僕の喉の奥からかすれた息が漏れた。僕はそれを声に出してしまった。お前に話したいことがあったんだ。僕はお前に話したいことがあったんだ。僕は二人きりでお前に話したいことがあったんだ。いつか僕は二人きりでお前に話したい。あと五分あればそれが話せた。
僕は今考えている、電車の中で眠ってしまうのは、疲れているからじゃないと。電車に乗ることが習慣になってしまったからなのだと。たとえ目の前が真っ白い壁が連続して続いていくだけだとしても、電車に乗ること、電車に乗って向かう場所、そして電車に乗っている自分に慣れていなければ、眠るということはありえないのじゃないかと。
そんなことを考えながら、それでも僕はやることが無くて、シバラクさんからもらったナップザックを開いて中身を一つずつ取り出し始めた。携帯電話、歯ブラシ、タオル、文庫サイズのコミック2冊、風邪薬と頭痛薬が二袋ずつ、鉛筆がぎっしり入った筆箱と真っ白な無地のノート、携帯電話のスイッチを押して電源を入れようとしたが、バッテリーが上がっていた。僕は左手で携帯電話をいじくりながら、右手をナップザックに突っ込んで、ごそごそと中身をかき回した。何の変哲も無いもの、小さな旅行に出かけるときに人が持って行きそうなものばかりだった。ハンカチや携帯用のシャンプーボトルをかき分けたナップザックの底に、小さな包みものがあった。僕はそれを掴んで取り出し、ラッピングされた和紙を破きながら中身を開いた。さらさらと糸のような物が何本も零れ落ち、僕はそれを拾い上げた。目の前に近づけて、僕はそれが人間の髪だと分かった。僅かに茶色がかっていて、さらさらとした感触で、僕はそれが誰の髪なのかすぐに思い出した。これはサンゴの髪だ。僕は掌の上に髪を載せ、じっと見つめた。そして僕は無地のノートを広げ、筆箱から鉛筆を取り出して、最初のページにこう記した。
○ サンゴの左手
○ サンゴの髪
そして僕はその後に、「サンゴの時計」と書き足した。切断されたサンゴの左手にまだ巻きついていた腕時計だ。その時計には血も傷も付いておらず、正確な時間を刻み続けていたので、僕がそれをサンゴの左手首からとり、そして今は僕の左手首に巻かれているのだ。僕はその時計と髪とを見比べながら考えている、この髪は一体いつサンゴから切り取られたのだろうかと。どうしてこのナップザックの中にサンゴの髪が入っていたのだろうかと。これは僕に渡される目的で今ここにあるのだろうかと。しかし、誰かがそれを知っているのだとしたら、その誰かはたった一人しかいず、僕はそのたった一人を探しているのだから、考えたところで何の役にも立たなかった。可能性のあるもう一人、シバラクさんはきっと何も知らないだろうし、知っていたとしても僕にそれを伝える力を持っていないだろう。誰かに何かを伝えるということが、もう二度と出来ないとしたら、その人間は半分死んでいることになって、それがシバラクさんだったからだ。だから僕はもう、シバラクさんのことを忘れなくてはならなくなっている。その代わりに僕は、自分の知っていること全てをサンゴに伝える必要がある。僕はサンゴの髪の束を指先でつまんで、ゆっくりと擦り合わせている。
サンゴ 松本周 @chumatsu11
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