第3話 猜疑


 オリバー・ラングのコメントが頭の中を渦巻いていて、昨日は全く眠気がこなかった。おかげで夜はずっとお気に入りの曲をかけ続けて、闇によって助長される不安を和らげなければならない羽目になった。そしてその曲は今も流れている。


 このみはCDラジカセの停止ボタンに手を伸ばす。躊躇はしたものの、陽光の差し込む爽やかな朝ということもあり、ようやく音楽を止めることができた。


 ベッドに寝転んだままのこのみは、枕元のスマートフォンを手に取る。しばしの逡巡。ややあってこのみは勢いのままにオリバー・ラングのページへといき、ラクエンノートの項目をクリックする。胸を打つ鼓動が痛い。もしまた自分を糾弾するようなコメントがあったら破裂するかもしれない。


 お願い――っ!


 閉じていた目を開けたこのみは、ほっと胸を撫で下ろした。新しいコメントはなかった。


「なんなの、こいつ……本当にむかつく」


 安堵感の反動で悪態が出るこのみは、昨日のコメントを睨め付けながらオリバー・ラングが何者かについて思案を巡らす。夜の間は音楽によって思考は遮られていたが、今は違う。無音、そして朝という安心感から冷静に頭を働かせることができた。


 オリバー・ラングは自分のことを知っている。肝はここだろう。


 個人情報を小説の中やラクエンノートはおろか、新規ユーザー登録でも一切記述していないというのに自分のことを知っている。それが恐ろしくて夜も寝れなかったわけだが、それは自分の知らない相手という前提があったからだ。まるでジャングルの中に放り込まれ、猛獣の息遣いだけがどこからか聞こえてくるような、そんな恐怖。


 だが、このみは前提を間違えていたと言わざるを得ない。いや、敢えて遠ざけていたのかもしれない。このみの知っている人間に、そんなことをする人間がいるはずがないという思い込みゆえに。


 しかし思い込みを排してしまえば、疑わしき人物はあっけないほどに鮮明となって脳裏に浮かぶ。最初から素直にその答えに行き着いていればよかったのだ。そうすれば、必要以上の恐怖に身を竦ませることなどしなくてよかったのだから。


 犯人は大家かもしれない——。それが答え。


 つまり、大家による盗聴疑惑は例の女性の狂言ではなく事実であり、それは今も続いているのではないかという推測。このみは一度大家を見たことがあるが、白髪の目立つくたびれた五、六十代のおじさんというイメージしかない。あれが盗聴しているのかと思うと全身総毛立つというものだが、それはともかく、果たして『モジノラクエン』までやっているのだろうか。


 仮に『モジノラクエン』に登録しているとしても、盗聴した上であのような糾弾までするのだろうか。


「するかもしれないじゃんっ」


 このみは自分に言い聞かせて、ベッドから飛び降りる。盗聴器を探すためだった。



 ◇



 結局、盗聴器らしき物は見当たらなかった。

 コンセント、電話のモジュラージャック、室内灯、換気扇、エアコン、机の下、果ては自分で買った置時計やぬいぐるみの中まで、ネットから得た怪しいとされる場所は全て探したのに、だ。


 三時間も掛けて徹底的に探してなかったとなれば、本当にないのだろう。徒労に終わった捜索だが得る物がなかったわけではない。オリバー・ラングが大家ではないとなれば、別の可能性が浮上するだけのことなのだから。


 このみは時計を見る。八時五十四分。


 ――よし。


 判断は早かった。今日は学校に行く気分ではなかったが、せっかく始めた犯人捜しをここで止める気はない。今日中にも片を付けてやるべきことに集中しなければならないのだ。でなければ読者選考を突破できないかもしれない。そうなれば当然受賞の可能性も完全に消えることとなり、それこそ徒労というものだ。


 眠気は不思議と感じない。怒りがそうさせているのかもしれない。このみは残り物のサンドウィッチをオレンジジュースで流し込むと、制服に着替えて学校へと向かった。



 ◇



 すぐにでも問い詰めたい気持ちはあったが、このみは昼休みまで待った。ある程度の時間を設ける必要があると思ったからだ。そして昼休み、このみは行動に移した。


 席に座ったまま後ろを見向く。そして言った。


「ねえ、坂本君。あんたがオリバー・ラングなんでしょ? 正直に答えて」


 後ろから覗き込んできたことのある坂本ならば、このみがぴのっきーというペンネームを使用していることを知っていても何ら不思議ではない。だからこそこのみは淀みなく言葉を吐き出せた。漫画を読んでいた坂本が顔を上げる。その視線をこのみは逃さず受け止める。もしも犯人ならば、唐突に核心を突かれた動揺が必ず表情に現れるはずなのだ。


「は? おりばーらんぐ? え? 何、急に……は?」


 坂本は口を半開きにしてポカンとした顔を浮かべる。その反応を見る限り、おそらく白。このみは落胆する。だが詰問の余地は残っているだろう。


 このみは、ポイント投げ云々など具体的な内容は出さずに“嫌がらせ”という言葉に集約させて、更に坂本を問い詰める。しかし坂本が馬脚を現すことはなかった。つまり、オリバー・ラングは坂本ではないということが確定されたわけだが、決定打はこれだった。


 ――俺が複アカ使うんだったら、自分の作品にB!ポイント入れてるって。誰かに嫌がらせするためだけになんか使うかよ、もったいねぇ。B!ポイントゼロの俺が言ってんだ。説得力ありすぎだろ?――


「ごめん、疑って。今度ジュースおごるから許して」


 席を立つこのみに、坂本が言う。


「こんなに高圧的な尋問受けてジュースじゃ割りに合わないよなぁ。あ、そうだっ、俺の作品にB!ポイント入れてくれよ。俺も桐山さんのに入れてやるからさ。別に読まなくていいぜ」


「それって悪質な相互じゃん。あんまりよくないと思うけど」


 どの口が言ってんだか。


 このみは教室を出ると、次の目的地へと向かった。怒りの矛先はすでに坂本から別の人物へ変わっている。



 ――恋愛小説コンテスト今すぐやめろよ――。


 

 このみはずっとオリバー・ラングのこの言葉が気になっていた。唐突に入り込んできた具体的な要求は違和感すら覚えるほどだ。だが言い換えればそこが重要ということでもある。そう考えると大家と坂本が容疑者から除外された今、それは明確な理由として残された犯人を真犯人足らしめた。


 妬み。受賞して賞金なんか取らせたくないというあまりにも幼稚な。


 ――。


 疑いたくはなかった。だからこそ後回しにしていた。でも彼女以外には考えられない。このみはとなりのクラスに入ると、渋谷と一緒にいる麗奈のところへ速足で向かった。


 

 ◇



「はぁ? 意味分かんない。何言ってんのこのみ?」


 全てを話したこのみに、麗奈は微苦笑を浮かべてそう答える。往生際が悪いとはこのことだ。消去法によって残った麗奈がオリバー・ラングに決まっているのに、知らないふりをしているのだから。横にいる渋谷があたふたとしているが、言うまでもなく共犯だろう。俺という主語を使っていることからも、渋谷が文章を書いているのかもしれない。


「しらばっくれないでよ。あんた、私が恋愛小説コンテストに参加してるのもポイント投げしてるのも知ってるじゃん。気に食わないんでしょ? 一昨日の態度もそうだった。私に賞金を取らせたくない、だからわざわざあんな手の込んだことまでして、私を責めなじったんでしょっ!」


 麗奈の笑みが消える。代わりに浮かんだのは不快感を抱いているのだろう、眉根を寄せての果たし眼だった。


「マジおかしいわ、この子。あのさー、うぬぼれないでよ。言わせてもらうけどこのみの小説、クソつまんねーから。私が嫌がらせしなくたって受賞なんかできないっつーの。ね、隆」


「えぇっ!? いや、まあ、その……そこまでおもしろくはない、かな。はは」


 このみが睨むと渋谷は、さっと目を逸らす。


「読解力ゼロのあんた達に私の小説の何が分かるっていうの? あのさ、ここで言わせてもらうけど、今後一切、私には関わらないで。つまりあんた達とは縁を切るってことで、じゃ」


 このみは二人に背を向けるときびすを返す。友達なんて大抵こんなものだ。薄氷のように薄っぺらい関係など、ちょっとした亀裂ですぐに砕け散るのだ。


「ち、ちょっと待てって、桐山! そんな簡単に縁を切るとか、そういうのは――」


「ほっときなよ、隆っ。クスリやってイカれた女なんてこっちから願い下げだっつーの」


 元友達が背後で何か言っている。このみが抱くのはそれだけで、後ろ髪を引かれるものは何もなかった。


 オリバー・ラングがあのあばずれだと分かれば、何も怖いものはない。よし、今日からたくさん、ポイントをばらまくぞ。


 このみはやる気が漲ってきた。



 ◇



 麗奈達の一幕があった日から一週間、このみはB!ポイントをこれでもかとばら撒いた。

 B!ポイントを投げた小説は数にして百はくだらない。当然一つも読んでいないから印象に残る作品なんてない。このみが読者選考を突破するための単なる糧である。そしてその読者選考の最終日までに返ってきたB!ポイントは221。――ランキングは32位。


 発表はまだ先だが、このみは読者選考の通過が確定となった。

 

 ちなみにオリバー・ラング――麗奈のコメントはあれ以来なかった。


 

 ◇



 その日の夜は夕飯を豪勢にしてみた。と言っても、いつも具無しの即席麺に肉やら野菜やらを大量に突っ込んだだけなのだが。でも十分においしかった。最終選考に残ったときに、もう一度やってみようと決めた。


 食べ終わったこのみは毎週見ているバラエティ番組でお腹を抱えて笑うと、シャワーを浴びてパジャマに着替える。読者選考の通過確定による高揚感が身を包んでどうにも落ち着かないが、今日はもう寝たかった。やりきったことによる脱力感なのかもしれない。なんだかとても疲れたのだ。


 そういえば明日は雪かもしれないと天気予報で言っていた。雪の降らない地域から、雪のほとんど降らない地域に引っ越してきたのが三年前。もしかしたら明日初めて雪を拝めるかもしれない。


 なんだかいいこと続きで嬉しいかも。よし、もう寝よう。


 このみはスマートフォンでアラームを確認する。そして、ついでに『モジノラクエン』を開いてみる。なんとなく新着レビューが気になっただけだった。


 「え? キモッ、何これっ?」


 『モジノラクエン』を開いた瞬間、スマートフォンの画面に幾本もの赤と黒の線がうごめきだす。見たことのない気色の悪い現象。三週間ほど前にもノイズはあったが、今回のはその比ではない。明らかにスマートフォンの不調を思わせるものだった。


 「ちょっと信じらんない。機種変したばっかりなのに」


 焦るこのみは、『モジノラクエン』を閉じてメニュー画面へと戻る。ノイズは出なかった。そしてまた『モジノラクエン』を開く。すると再びノイズが発生した。暫くするとノイズは完全に消えたが、再び現れないとは言い切れない。


 もしかして何かのウイルスかな? 一度見てもらったほうがいいかも。

 

 このみは明日学校の帰りに携帯キャリアショップに行くことを決めると、照明のスイッチ紐に手を伸ばす。――そのときだった。



 ピンポーン。


 

 インターホンが鳴った。時刻は二十二時を回っている。往訪を告げるには明らかに非常識な時間だとこのみは思った。

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