第4話 戦慄


 こんな時間に一体誰……?


 鼓動が高鳴る。不穏を告げるようなそんな心音。

 部屋の明かりが付いているから起きていると判断しても、普通こんな時間にインターホンを鳴らしたりはしない。友達や父親ならまず連絡するだろうと容易に推測できるこのみは、従って出る必要はないと結論づけた。


 なのに忍び足でドアへと向かったのは、単純に気になったからだった。どんな非常識な人間が立っているのかと。こういうときに部屋で確認できるテレビドアホンがあればと、このみは本気で設置を考えた。


 ドアにたどり着いたこのみは覗き穴から外を見る。誰もいなかった。ただ、奥の柵に何かが立て掛けてあった。傘が一本。デザインが気に食わなくてベランダに放棄したものだった。

 

 もしかして傘が下に落ちて、届けにきてくれた? 一階の人? インターホンを鳴らしたのは傘を届けるため? 拾ってくれた人がいないのは、時間が時間だから不審がられないためなのかな。


 傘を回収するだけ。それが警戒心を緩めたと自分でも分かっていた。


 チェーンを外して鍵を開ける。そして右側の通路を一瞥して誰もいないことを確認すると、このみは傘に手を伸ばした。


 ――っ!?


 刹那、その手が誰かによって掴まれた。その尋常ではない握力に苦痛の声を上げるこのみ。同時にドアの影からぬっと何者かが現れる。次の瞬間、その何者かはそのままこのみを部屋の中へと押し入れると、リビングに放り投げた。


「きゃっ、痛――ッ」


 落下の衝撃で腰に激痛が走る。しかしその痛みに呻いている場合ではなかった。暴力に等しい握力で腕を掴み、あまつさえ不法侵入までしてきたその何者かをすぐにでも確認したかったのだ。


 このみは、キッチンフロアの前を遮るかのように仁王立ちしている何者かの顔を見る。


 知らない男、ではない。すぐにある人物と重なった。

 

 それは、


「お前のせいだ。くそっ、お前のせいなんだよっ! お前がポイント投げしてズルをしやがるから俺の『ちっぱいエルフといちゃLOVE異世界生活』は一次選考を通過できなかったんだよっ! お前のせいだ。ぜんぶ、ぜぇんぶっ、お前のせいなんだよ! ふざけんじゃねぇよっ! 何が『Sweet・Girlスウィート・ガール』だよ、なめてんじゃねぇよっ!!」


 憤怒の表情の隣人の男が口角泡を飛ばして叫ぶ。血走った目がこちらに向けられている。しかし焦点が定まっていないのか、どこか虚空を見ているかのようだ。


 一体何が起きているのだろうか。このみの部屋に、となりの部屋の住人が怒鳴り込んでくるこの状況は現実なのだろうか。このみは隣人の男から目を離さずに手の甲の皮膚を思いっきりつねる。声を上げそうになるほど痛かった。内出血になっているかもしれない。でもどうでもいいい。


 これは現実――。受け入れるしかない眼前の光景を前にこのみはようやく声が出た。


「わたしの、せいじゃない」


 何を言っているんだ? 言うべきことはそんなことではない。もっとほかに口にしなければならないことがあるはずだ。


「っざっけんなっ、お前のせいなんだよっ! お、お前がさぁ、止めろっていったのにポイント投げ続けるから、俺の『ちっぱいエルフといちゃLOVE異世界生活』が一次選考で落ちたんじゃねぇかよ、ふざけんじゃねぇよ!! お前、本当によぉ! なんで忠告したのに止めねぇんだよっ! っざっけんじゃねぇよッ!!」

 

 見た目これといった印象のなかった存在感の希薄な隣人。だからこそその狂気じみた言動と所作は怖気を震う。


 しかし、この隣人の男は自分が何をしているのか分かっているのだろうか。暴行と不法侵入という犯罪を犯したことを理解しているのだろうか。興奮で気づいていないのならまだなんとかなるかもしれない。しかしそんなことは百も承知でこのような行動に出ているのだとしたら。

 

 己の人生を顧みることを放棄して、法が管理する社会から逸脱したけだものになっているのだとしたら。


 飛躍的とも言えるその考えは、しかし目の前の隣人の男には当てはまるような気がした。うまく言えない。ただそんな気がした。長時間にわたる暴力や強姦の末、殺されるイメージが脳裏をよぎる。刹那、このみの全身をかつてない恐怖が迫り上がる。同時に隣人の男が喚きながらにじりよってきた。


 いやだ、死にたくない――!!


 このみは咄嗟に、床にあった観葉植物を手に取る。そして隣人の男の顔に投げつけた。


「ぎゃっ!」


 額に当たり、痛みからか隣人の男が体を屈める。その隙を付いてこのみは玄関へと走る。靴を履いている暇はない。このみは半開きだったドアを乱暴に押しやると、アパートの廊下を走り抜け階下への階段を下りた。


「きゃっ、何よ、もうっ」


 降りたところで恰幅のよい女性の肩とぶつかる。住人だろうか、薄っすらとだが見覚えのあるおばさんだった。このみは謝罪の言葉も忘れてそのおばさんに懇願した。


「た、助けて下さいっ。と、となりの部屋の男が不法侵入していきて、そ、それであたし、もしかしたら殺されるかもしれないって――」


 階段を下りてくる隣人の男が見えた。その悪意で濁った瞳はこのみしか見ていない。まるで恰幅のよい女性など眼中にないようだ。ふと隣人の男の手を見ると包丁を握っていた。このみがたまの料理のときに使う包丁だった。


 強張る足に鞭を打ってこのみは背後に走り出す。そこにはおばさんを巻き込んではいけないという気持ちがあった。でもすぐに悔んだ。おばさんという第三者が介入すれば解決の糸口が見つかったかもしれないと。


 いや、そんなことないっ。あいつ包丁持ってた。頭イカれてるもんっ。一緒にいたらおばさんだって何されるか分からない――ッ!


 後悔の念を押し退けてこのみは直走った。



 ◇



 すでにどこを走っているのか分からなかった。なんだが足の裏が痛い。そういえば靴を履いていないことを思い出した。このみは立ち止まる。そして周囲を見渡して隣人の男がいないことを確認すると、近くにあった公園のトイレへと入った。


 個室に入るとそっとドアを閉める。本当だったら交番やコンビニに駆け込んで保護してもらったほうが良かったのだが、不運にも走った方角にはなかった。ここで少し足を休めてからコンビニに行こうと、このみは決めた。


 このみは便座に座ると足の裏を見る。ところどころ血が滲んでいた。帰ったらすぐに洗って消毒したほうがいいかもしれない。そして一息吐くと、このみは隣人の男について考える。


 三週間前に引っ越してきた隣人の男――ペンネーム、オリバー・ラング

 あの空気のように存在の薄かった隣人の男は、どうやらこのみと同じく『モジノラクエン』の恋愛小説コンテストに応募していたらしい。そして隣人の男の作品は、このみの作品が不正なポイント投げによって一次選考突破確定となったせいで、落選の憂き目に合うという。

 

 そんなことで殺意を漲らせるのも理解できないが、このみが『Sweet・Girl』という小説を書いていて、且つ不正なポイント投げをしていたことを知っていたのも理解できなかった。


 あっ、そうだ、あの日だ!


 このみの誕生日を渋谷と麗奈と一緒に祝ってたあの日、かなり大きな声を出して狂騒めいたパーティーになっていたことを思い出す。あのときに全部聞かれたのだ。アパートの薄い壁など防音効果などほぼないに等しい。あれだけバカ騒ぎすれば声だって筒抜けだろう。


 迂闊だった。まさかとなりの部屋にライバルがいるとは思わなかった。しかも、頭のネジが数本外れた常軌を逸した狂人という属性付きの――。


 このみは、包丁を持った隣人の男に切り刻まれるところを想像して身を震わす。一刻も早く保護してもらわなければならない。このみは立ち上がると静かにドアを開ける。そして顔だけ出して周囲を確認したのち、十秒ほどじっとしたまま耳を澄ます。近くに人の気配はない。遠くで鳴り響くパトカーのサイレンだけが鼓膜を刺激した。


 このみは歩きだす。


 近くのコンビニってどこだろ? 


 思案するこのみは、しかし足の痛みからか、トイレを出たところで前かがみになった。その瞬間、“何か”が頭上を通り過ぎた。横を見ると隣人の男がいた。“何か”が包丁だと気づいたこのみは痛みも忘れて駆け出していた。


 なんで? なんでなんでなんでなんでなんでっ!? なんでいたのッ? ずっと出てくるの待っていたのっ!? 個室にいるの知ってたのっ!? ずっとあそこで待ってた? 何で――ッ!!?


「っざっけんじゃねぇよ、待て、このやろぉっ! お前のせいで俺の『ちっぱいエルフといちゃLOVE異世界生活』が落選したのに、何逃げてんだよっ! っざっけんじゃねぇぞっ! おらぁっ!!」


 背後で隣人の男が叫んでいる。おそらく包丁を振り回しているに違いない。追い付かれたら、先ほどのイメージが現実となってこのみに襲い掛かるのは確実だろう。包丁で何度も何度も体を斬られる。それはどれほどの痛みなのだろうか。血だってたくさん出て、もしかしたら内蔵だって飛び出るかもしれない。


 やだっ! 絶対そんなのいやだっ!! なんでこんなことになったの!? 私のせいっ? 不正って言ってもポイント投げしただけじゃんっ。そんなことで死ぬなんておかしいよっ! 助けて、麗奈っ、渋谷っ――お父さんッ!!


 右側が急に眩しくなる。車のヘッドライト――。そう認識したとき、すでにこのみは道路を駆け抜けていた。そして次の瞬間、ドンっという鈍い音を背後で聞く。振り向くこのみ。その視界が捉えたのは、大型トラックに跳ねられて吹き飛ばされている隣人の男だった。


 トラックは何事もなかったかのようにそのまま走り去っていく。明らかな轢き逃げだが、そんなことはどうでもいい。気になるのは隣人の男の生死だ。畑の中に微かに見える隣人の男はピクリともしない。時速七十キロメートルは出していたトラックが減速もせずに突っ込んだのだ。確認せずとも死んだのは間違いないだろう。


 ――そう、隣人の男は死んだのだ。


「は、はは、バーカ。ざまあみろっ、この変態くそ野郎っ! お前なんか死んで当然だっ、お前なんか、お前なんか…………うう」


 このみは路上に座り込む。そして安堵感から一頻ひとしきりむせび泣いた。


 

 ◇



 アパートの階段を上り部屋に向かうと、ドアが開けっぱなしになっていた。不用心にもほどがあるが、一目散に逃げ出してきたのだからしょうがない。


 このみは廊下を歩きながら考える。隣人の男は死んだ。そのことを通報するか否か。通報するとなれば当然、自分に降りかかった悪夢についても説明することとなり、いては『モジノラクエン』での不正行為についても話す羽目になるかもしれない。


 止めよう。明日あたり警察が来るかもだけど、死んだことを全く知らなかった感じで対応すればいいや。


 ところで今、何時なのだろうか。スマートフォンを時計代わりにしているこのみは、そこで初めてスマートフォンを部屋に置き忘れてきたことを思い出した。


 部屋の中か――。


 覗くのを躊躇うこのみ。もし死んだはずの隣人の男が包丁を構えていたらと思うと、とても怖かった。でもそれは絶対にありえないこと。あんな轢かれ方をして生きている人間など絶対にいるはずがないのだから。


 このみはそっと部屋を覗く。隣人の男はいなかった。


「だよね。あいつ死んだんだし」


 安堵したこのみは玄関に入ると、ドアを閉める。でも閉まらなかった。途中で何かが挟まったようなそんな感覚。なんだろうとこのみは後ろを見遣る。


 






 


 

「ひぃッ」


 悲鳴とも呼吸ともつかない言葉が喉元を通り過ぎる。力の抜けたこのみは玄関で尻餅を付く。ゆっくりとドアが閉まり、鍵とチェーンが掛かる音がする。鼻先に包丁を持った隣人の男が立っていた。隣人の男は無言でこのみを見下ろしている。このみは下腹部に温かいものを感じた。それはやがて臀部を濡らして床へと広がる。


 失禁? うそ、高校生にもなってありえない。

 麗奈に知られたら、超最悪。

 絶対軽蔑されるし、言いふらされそう。

 あ、着替えとかもどうしよう。

 パンツはいいけどパジャマとかこれしかないし。

 そういえばシャワー浴びたのに体中汚れてる。

 髪もぼさぼさだし、顔もひどいことになってるんだろうな。


 でも、もういいや。何もかも。


 


 だって――私もう死ぬんだし。



 包丁が心臓に突き刺さる。不思議と痛みは感じない。ただ鼓動が止まったことははっきりと分かった。

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