七幕目

 ひやりと涼しい夏の朝。

 梅乃と竹彦は、湯気の上がる飯を食べていた。

 竹彦がはたと箸を止める。


「そういえばな、師匠の新作、見たか?これがまたいいんだ」


 声を弾ませて話す竹彦。だが最愛の妹の顔を見て、ぎくりと口をつぐんだ。

 梅乃はむっとした顔で兄を見ている。


「その話、もう少し早く聞きたかったです」


 竹彦は梅乃がむくれている理由が分からず、首を捻った。


   *


 昨日のことである。


「お菊さん! いったいどこへ行くというんですか」

「いいからいいからー。きっと楽しめると思うよ」


 梅乃はお菊に手を引かれ、江戸の街並みを歩いていた。

 朝、柳井やない堂に来たら、話をしていた総兵衛とお菊にまじまじと見つめられ、「よし、行こう」と連れ出されたのだ。


「お仕事と、総兵衛くんから頑張ったご褒美だよ」


 そう言われても梅乃はぴんとこない。


 前日の夜にお菊の正体を知らされて、繋がれた手に困惑する。女の格好をしてはいるが、手はたしかに男のものだ。なぜ気づかなかったのだろう。


 今日のお菊は一分の隙もなく髪も化粧も整えている。こんなので気づけというほうが無理な話だ。正体を知った今も、梅乃は美しさでは敵わないと思ってしまう。


「梅ちゃんの力ね、きっと危険に陥らないと発動しないものなんだ」


 日射しの強い通りには、人影が少ない。お菊は日傘をくるりと回し、話し始めた。


「うまく使えるようになればそれに越したことはないけど、今はそれでいいって総兵衛くんも言ってる。怪我しないように気をつけてだってさ」


 ずっと修行をしてきて、うまく力が使えないことを気に病んでいた。総兵衛もお菊もそれを気遣ってくれたのだろう。


「でも私、もっと皆さんの力になりたいです」

「もうなってるって。分かんないかなぁ?」


 そうなのだろうか。

 お菊の言葉を疑うわけではないが、もっとと思ってしまう。


 昨晩、柳井堂に戻って手当てをした徳蔵は、傷がとても痛そうだった。梅乃がもっとうまく力を使いこなせていれば、徳蔵はあんなに怪我をしなかったのではないだろうか。


「徳くんのはあいつの力不足だよ。……まぁ気持ちは分からなくもないけど。梅ちゃんは梅ちゃんなりにやってけばいいよ」


 同じ恋する乙女だ。気持ちを汲んでくれたことに、梅乃は感謝の笑みを浮かべてしまう。


「さぁ着いた! もう始まってるかなー?」


 お菊に連れてこられたのは、河原崎座だった。

 今日の公演はないはずだ。お届け物かと思ったが、お菊はなにも持っていない。


「お菊さん、いったいなにが……」

「おう! 来たな。お菊さんにお梅ちゃん。ゆっくりしていきな」


 現れたのは、河竹氏。お菊は河竹氏ににこやかに挨拶をして、勝手知ったる様子で中に入っていく。

 梅乃は小走りであとを追った。


「お菊さん!いったいどういうことです?」

「今日の公演はないんだけどね、練習を見せてくれるってことだったんだよ。いま一番人気の演目だよ」


 お菊はそう言って客席の中ほどに座った。梅乃も隣に座る。


「白浪五人男衆の一幕、弁天娘女男白浪べんてんむすめめおのしらなみだよ」


 舞台では美しい娘を扮した役者が、呉服屋をだまくらかそうとしているところだった。

 娘は五人組の盗賊の一人。仲間と共謀し、呉服屋から金をゆすり取ろうとしているのだ。


「あれ、あたしが元になってるんだ」

「は!?」


 お菊は舞台から目を離さずに言った。

 芝居は進み、正体を見破られた娘が「弁天小僧菊之助たぁ俺がことだ!」と見得を切るところだった。娘は女装した美少年だったのだ。


「河竹さまは、昔からうちの店にを贔屓にしてくれててね。なにかの拍子にあたしの気持ちを話しちまったんだよ。そしたらあたしを元に芝居にしたいって言ってくれてさ」


 お菊の視線は舞台に向いたままだ。

 気づいているのだろうか。その表情が切なく歪んでいることに。


「総兵衛くんは、人を好きにはならない。失う怖さを知ってるから、最初から内側に入れようとはしないんだ」


 総兵衛から聞いた話を思い出した。

 彼の両親は、言霊に飲み込まれて亡くなったということだ。何年前のことかは知らないが、ずっと引きずっているのだろう。


「それでも、仕事仲間として傍にいられればいいと思ったけど……。こんな格好までして、馬鹿だね、あたし」


 お菊の瞳が揺れた。


 視線の先、舞台の上では終幕が近づいていた。

 呉服屋から逃げおおせた弁天小僧たちだったが、とうとう追い詰められてしまう。弁天小僧は自害してしまうのだった。


「お菊さん、私に言ったじゃないですか」


 舞台上では役者たちがなにやら言い合っている。先ほどまでの芝居の振り返りをしているのだろう。


「言霊は想いの強さ。強ければ強いほど、人を傷つけもする。でもそれって、優しい想いを込めれば優しさが伝わるってことじゃないんですか?」


 お菊は目を見開いて、梅乃を見た。梅乃はにこりと笑う。


「馬鹿じゃないです、お菊さんは。強くて優しい、恋する乙女です」


 強さや美しさを羨んだ。だけど茶目っ気があったり、落ち込んだりしたりする姿に梅乃はもう大分お菊のことが好きになってしまっている。

 好きな人には幸せでいてほしい。


「そういうところに惚れたんだろうね、徳くんは」

「いっ、今はお菊さんの話です! 徳蔵さんの話はしていません!」


 焦る梅乃に、お菊は楽しそうに笑った。

 お菊はすっと立ち上がる。


「うん、大丈夫だよ。想いが伝わらなくても、あたしは総兵衛くんの傍にいると決めたんだ。そのためには、徳くんと弥吉くんと梅ちゃんが必要。ついてきてくれるよね?」


 そう言って手を差し出してくる。

 にっと笑うその顔は、いつもどおりだ。いや、憑き物が落ちたようにも見える。迷いは消えたのだろう。


「もちろん」


 梅乃は迷わずその手を取った。




「あ、そうだ」


 河原崎座を出る直前、お菊は思い出したかのように立ち止まった。そうしてなにごとかを呟く。


「よし、じゃあお店に戻ろうか」

「なにをしたんです?」

「あぁ、言霊をちょっとね。昨日の言霊、強かっただろう? 『弁天娘女男白浪』はすごく人気でねぇ。白浪五人男衆に惚れ込んだ乙女たちの想いが、呉服屋に集まっちまったんだよ。あんまり悪いものが集まらないように、ちょっとあの場の言霊をいじっといたんだ」


 通りを行きながら話すお菊。その表情が険しくなった。


「お菊さん?」

「気づいてるかい? 梅ちゃん。町にあんまり良くないものが集まりだしてる気がする」


 梅乃は通りを見渡した。

 晩夏の町は、熱い日差しが降り注いでいる。通りの影に、さっと動くものが見えた気がした。


「……なにか、起きようとしているんでしょうか」

「分からない。でも幕府もごたついてるようだからねぇ。なにも起きないといいんだけど」


 深刻そうな声に、梅乃の胸に一抹の不安が過ぎる。お菊はこんな風に言うのは珍しい。

 お菊はぱっと表情を変えた。


「不安にさせちまったね。徳くんと想いが通じ合ったばかりなんだ。明るい顔をしてないと、いいものも寄ってこないよ?」

「そ、そういえばどんな顔で徳蔵さんに会えばいいんでしょう!?」

「あっはは! 昨日の今日か! いつもどおりでいいと思うよ。それで徳くんはご機嫌になる。きっと、それが梅ちゃんの力だ」


 お菊は日傘を翻し、通りへと歩みを進めた。

 そんなものなのだろうかと、梅乃は首を捻りながらあとを追った。

 でもたしかに、梅乃もいつもどおり接してほしいと思う。挨拶したら、「おう」と返してくれるだろうか。

 その声を思い浮かべ、梅乃の足取りは少し軽くなった。




 不安はきっと、常にある。

 先が見えぬは誰もが同じ。

 それでも未来を願うのは、好いた仲間がいるからで。

 仲間がいるから不安の影も祓えよう。

 影を祓うは柳井堂。




 弁天娘女男芝居べんてんむすめめおのしばい 終幕

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

柳井堂言霊綴り 安芸咲良 @akisakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ