六幕目

 柳さんに連れて来られたのは、一軒の呉服屋の前だった。江戸一番の大店で、人気の店だ。


「また呉服屋……? お菊さんの言霊でしょうか」

「いや、菊は柳井やないさんにこっ酷く叱られたらしいから、それはもうないと思う」


 徳蔵にきっぱりと言われ、梅乃は柳さんを見やった。柳さんは呉服屋の前に座り、毛づくろいをしている。この店で間違いはなさそうだ。


「確かにこの店の中から言霊の気配を感じます」


 徳蔵は懐から短冊を取り出した。


『惑い迷いしことたま 解錠 我らを阻むまじ』


 徳蔵が短冊を戸にあてそう唱えると、戸はすらりと開いた。

 店の中には言霊の気配がするが、どうやら身を潜めているようだ。すぐに襲い掛かってくる様子はない。


「徳蔵さんって、記述担当のわりには口述も使えますよね。以前、助けてもらったこともありますし」

「少しならな。今日は梅乃に任せたぞ」


 沈黙が落ちる。意味を量りかねて、梅乃は徳蔵を見上げた。


「は?」

「……菊が修行の成果はばっちりだと」

「はぁぁ!?」


 思わず大声を上げてしまい、梅乃は慌てて口を噤む。辺りの様子を伺うが、人の来る気配はなさそうだ。

 梅乃はほっと息を吐いて、困ったように眉根を寄せた。


「お菊さんはなにを考えてるんですか……」

「その様子だと、まだ修行が必要ということか」

「はい……」


 お菊はなにを考えているのだろうか。梅乃にはあんなにびしばし指導していたのに、こんな試すような真似をするとは。


「恋敵、ってことなのかな……」


 徳蔵の前で失敗するところを見せて、幻滅させようという狙いなのか。

 和解した手前、そんなことは考えたくないが、女の情念が絡むとどうだか分からない。第一、よろしくしたのは仕事仲間としてだけなのだ。

 思い起こしてみれば、お菊とは仕事以外で出かけたことなどない。弥吉やきちや徳蔵とは一緒に行動するところを見かける。


 そういうことなのだろうかと思い至って、梅乃は呟いていた。


「なにがだ?」


 だが暗い店の中、近くにいる徳蔵の耳には、その呟きがしっかり聞こえてしまっていた。

 なんとか誤魔化そうとする梅乃だが、徳蔵はまっすぐに見つめてくる。仕方ない、観念するしかなさそうだ。


「……お菊さんって、徳蔵さんのこと好きなんでしょう?」

「は? 菊? まぁ嫌われてはないと思うが……」

「そうじゃなくて!」


 なんと徳蔵の鈍いことか。

 必死に言い繕う梅乃を、徳蔵ははっとしたように見た。


「いや、待て。まさか色恋沙汰として好きかと聞いてるのか?」

「そう、ですけど……」


 はっきり言われると頷きがたい。もし徳蔵もそうだと言われたら、もう柳井堂に行く気になれそうもない。

 俯きそうになる梅乃に、徳蔵は焦ったかのように言った。


「まさかお前、知らなかったのか……。菊は」


 そこで言葉が途切れた。空気がざわりと蠢いたのだ。

 二人してはっと振り返る。徳蔵が提灯を掲げると、店の晩で動く影の姿があった。


「梅乃! 外へ! ここじゃ分が悪すぎる!」


 言霊は巨大な狐だった。店の中で戦うのは少し難しいだろう。

 梅乃は外へ出ようとするが、はたと立ち止まった。


「徳蔵さんはどうするんです!?」

「やつを弱体化させる。早くしろ!」


 徳蔵の手には短冊が握られていた。

 少しならば口述も使えると言っていた。だが弥吉ほどではないのだろう。

 不安が残るが梅乃では足手まといになる。言われたとおりに梅乃は表へと出た。


 表で待っていた柳さんが、毛を逆立たせて威嚇している。ここからでは徳蔵の声はかすかにしか聞こえない。梅乃はぎゅっと両手を握り、入り口を見つめた。


 しばらくして、徳蔵が転がるように飛び出してきた。


「徳蔵さん!!」


 頬や腕に切り傷がある。満身創痍、息が上がっており、梅乃は徳蔵の元へと駆け寄った。


「言霊は!?」

「動きを緩めることはできたが、爪が鋭い」


 店の中からのそりと影が出てきた。相変わらずの熊のような大きさの狐。徳蔵の手にする提灯の明かりに、鋭い爪が照らされる。

 その爪がぎらりと光った。


「徳蔵さん!」


 鋭い爪が徳蔵をかすめる。大きな爪だ。それだけで徳蔵は吹き飛ばされてしまった。

 梅乃は駆け寄るが、徳蔵は小さく呻くだけだった。


(私がやらなきゃ)


 梅乃は懐から矢立を取り出した。徳蔵から貰った筆に、柳井堂の墨壷を組み合わせたものだ。


 ――言霊の核は人の想い。強い想いがあってはじめて言霊として具現化するの。


 脳裏にお菊の声が聞こえた。

 今、徳蔵を守れるのは梅乃だけだ。弥吉もお菊もいない。

 左手に短冊を、右手に筆をぎゅっと握る。


『表し現せ言の霊 小鞠と遊ぶは小さきもの』


 短冊が眩く光る。光は狐の影へと飛んでいった。

 光が直撃し、梅乃はやったかとすわ喜ぶ。

 だが光が徐々に消えていき、影の狐は一回りしか小さくなってはいなかった。


「なんで……」


 守りたい気持ちは本当なのに、力が追いつかない。

 梅乃は唇を噛んだ。


 言霊がこちらに向き直る。影で目はないのに、敵意のこもった目を向けられているような気がする。唸り声が聞こえるのは幻聴か。


「梅乃……逃げろ……」


 いまだ徳蔵は起き上がることすら適わない。このままでは共倒れだ。


「嫌です! 徳蔵さんを置いてなんていけません!」


 鋭い爪が二人に迫る。梅乃は徳蔵に覆い被さった。


(これまでか……!)


 梅乃は覚悟した。


「梅ちゃん! 大丈夫!?」


 通りに響いた声にはっとした。顔を上げると提灯の灯りが目に入った。

 揺れる提灯明かりに照らされたのは――。


『惑い迷いし言の霊 触れるは赤子の柔き手々』


 凛としたの声。

 梅乃の目に映ったのは、たくし上げられた着物の裾に、股引。足元から視線を上げていくと、そこにあったのは、見慣れたお菊の美しい顔。ただし髪はいつものようにきっちり結われたものではなく、低い位置で一つに結っていた。


「え?」


 梅乃はそんな間抜けな声しか出せない。どう見てもお菊なのに、これではまるで男じゃあないか。


『惑い迷いし言の霊 元ある場所へと戻りたまえ』


 弥吉の声に、言霊封じの途中だったことを思い出した。

 言霊は無事、弥吉の手によって封じられたようだ。


「菊之助さーん。やるなら最後までやってよー」

「ごめんごめん。梅ちゃんの無事を確認するのが先だと思っちゃって」


 お菊のような男は、弥吉とわいわい喋っている。

 菊之助、と弥吉は言った。もしかしてお菊ではないのだろうか。だがしかし、梅乃はたしかに名前を呼ばれた。

 混乱した梅乃は声を出すこともできない。


「菊は男だぞ」


 後ろから聞こえてきた声にはっとした。

 徳蔵は痛みに顔をしかめながら、起き上がっていた。


「すみません! 徳蔵さん……。私の力が及ばないばかりにこんな怪我を……」

「なになにー? 徳くん怪我してるのー?」

「徳蔵くんがいるから大丈夫だと思ったのにー。なにやってるのー」


 菊之助と呼ばれた男と弥吉は、徳蔵の元へと近寄り屈み込む。

 男は懐から手ぬぐいを取り出すと、徳蔵の傷を拭っていく。


「あの……あなたは……」


 梅乃の問いかけに菊之助は振り返った。


「梅ちゃんは怪我ない? ほんと、徳くんがついててこんなことになるなんて……」

「元々はお前が梅乃の修行はばっちりだなんて言うからだろ」

「うんー? ばっちりだったじゃん。期待以上。言霊の危険度合いが分かって、それをおれたちに伝えてくれたから、こうして助けに来れたんだし」


 そんなこと、自分はしただろうか。梅乃は首を傾げる。


「ってそうじゃなくて!」

「こいつがお菊。本名菊之助。女装が好きな男」

「なんだよー、人を変態みたいにー。おれは美人で似合うから女装してんの」


 徳蔵と菊之助はそのままぎゃいぎゃい言い合いを始めてしまった。

 梅乃はそれをぽかんと見つめていた。


「菊之助さんね、柳井さんのことが好きなんだ。女だったら視界に入るかもって女装してるんだって」


 弥吉がそっと耳打ちしてくる。梅乃は目を瞬かせた。


「私、てっきりお菊さんは徳蔵さんのことが好きなものだとばかり……」

「それはない!」

「梅ちゃん面白いこというねー!」


 言い合っていた二人が突然ぐるりとこちらを向いて、梅乃はびくりとした。

 菊之助はよっと立ち上がると、梅乃へと手を差し出した。


「まぁそういうわけだ。この姿のときは菊之助、あっちの姿のときはお菊って呼んでもらえると嬉しいよ」


 ちょっと困ったように笑う菊之助。

 同じだと思った。同じ、誰かに恋をする者。時折不安になって、時折やきもきして。

 梅乃は差し出された手を取った。


「はい、菊之助さん」


 手を繋いだまま笑う梅乃に、菊之助もまた、笑った。


「おら、帰るぞ」


 その手をばりっと剥がされた。見上げる先には、不機嫌そうな徳蔵の顔がある。


「……帰るぞ」


 そのまま梅乃の手を引き、徳蔵は歩き出す。


「と、徳蔵さん! 怪我は……」

「大丈夫だ。……いや、帰ったら手当てしてくれ」


 やはり無理をしているのだ。肩を貸したいところだが、この身長差では無理だろう。


「あーあー、かっこつけちゃってー」

「倒れてただけみたいですもんねー。なんか言うことあるんじゃないですかねー?」


 後ろから聞こえてくる茶化す声に、梅乃は赤くなった。徳蔵の握る力も強くなって、どうやら彼にも聞こえているようだ。


「おれたちはちょっと遠回りして帰りますかー」


 なんて声がして、後ろが静かになった。気を遣われたことに、梅乃の動揺は収まらない。

 徳蔵の手の中にある提灯の明かりが、ゆらゆらと揺れる。

 寝静まった江戸の町。まるで世界には二人きりかのようだ。


「徳蔵さん、本当にあの……。手を貸すくらいでも……」

「いい。……大丈夫だから」


 また沈黙が落ちる。

 怪我の具合が心配な反面、梅乃はこの時間がずっと続けばいいと思っていた。誰に気兼ねするでもなく、二人きりでいられることの、なんと幸せなことか。


 角を曲がったら柳井堂というところまで来てしまった。


「……菊が俺のことを好きだと思っていたと言ってたな」


 振られた話題にどきりとする。覚悟はしていたが、この話をされるのか。

 徳蔵は歩みを止める。そして手を繋いだまま、振り返った。

 その顔が赤く見えるのは、提灯のせいか。それとも――。


「俺が好きなのは梅乃だけだ。守りたいと思う。……まぁ今夜はこんなことになっちまったが」


 息が止まりそうだった。

 徳蔵はまっすぐに梅乃だけを見つめてくる。その瞳に嘘偽りはない。

 考えてみれば、徳蔵はいつでもまっすぐな想いをぶつけてくれていたのだ。兄探しにたった一人で江戸に来たと言ったときも、女癖の悪い弥吉に気をつけろと言われたときも、ただそこにあったのは梅乃を想う気持ちだけだった。


 美しい文字を認める彼は、言葉は武骨だけれど信じられる。


「私も……。徳蔵さんのことをお慕いしてます」


 くしゃりと笑ってそう言うのが精一杯だった。

 手を繋ぐ力が強くなる。


「ひゅー! お二人さーん! おめでとー!」

「あっ、菊之助さんの馬鹿! 徳蔵くんに怒られますよ!?」


 梅乃と徳蔵は二人してばっと声のするほうを向く。遠回りすると言ったはずの菊之助と弥吉が、角に隠れてこっそり覗いていた。二人の足元では、柳さんが「なーお」とひとつ鳴く。

 徳蔵がぶるぶると震え出した。


「と、徳蔵さん……?」

「おーまーえーらー!!」


 徳蔵は菊之助と弥吉を追いかけ始めた。二人はわーわー言いながら柳井堂へと逃げていく。

 ひとり取り残された梅乃は、ただぽかんとしていた。


 徳蔵は怪我をしているのに、あんなに走って大丈夫なのだろうか。菊之助と弥吉はどうやって先回りしたんだろうか。

 そんな疑問が頭の中をくるくる回る。


 柳さんが足元に近づいてきた。「なーお」と鳴くその姿は、まるで「良かったな」とでも言っているかのようで、梅乃はふふっと笑ってしまった。


「ありがとうございます」


 思えば柳さんには話を聞いてもらった。彼には多少、恩義がある。

 ちりんと鈴をひとつ鳴らし、「いいってことよ」と言うかのように、柳さんは店のほうへ去っていった。

 梅乃は空を見上げる。猫の爪のような月が、そこには浮かんでいた。

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