五幕目

 さて、心配事のなくなった柳井やない堂。

 なくなったはずではあるのだが――。




「徳くーん。水菓子買ってきてくれないかーい?」

「嫌だ。自分で行け」

「えー? つれなーい」


 店の裏の作業部屋。筆を作る徳蔵の後ろに寝転がり、徳蔵の背中を指先でいじっていたのはお菊だった。


「あー梅乃ちゃーん。そろそろ交代の時間?」

「……はい。私、休憩させてもらうので、店番お願いします」

「分かったー」


 お菊は勢いをつけて起き上がると、髪をちょいちょいといじり店へと向かった。


 部屋に沈黙が落ちる。

 徳蔵はやっと煩いのがいなくなったとでも言うかのように、また筆作りに専念し始めた。

 とても話しかけられる雰囲気ではない。梅乃は昼餉を取ることにした。




 改めてよろしくした梅乃とお菊だったが、お菊の徳蔵たちに対する態度は変わらなかった。

 ちょっと気に入らなかったとお菊は言っていた。梅乃の徳蔵に対する想いに気付いて、お菊があんな態度を取っているのかと邪推したが、そうではないらしい。ただ単に、元々の距離感が近いようだ。

 不安になってしまう。


 別に梅乃は徳蔵の恋人だというわけではないのだ。二人が恋仲になったとしても、なにも言う権利はない。

 そもそも徳蔵から好きだといわれてすらいない。誰に対してもそっけない態度の徳蔵が、自分だけに優しいと勘違いしただけ。梅乃はそんな気がしてきていた。


 結局なにも話しかけることができないまま、梅乃は昼餉を食べ終えてしまった。

 ちらりと徳蔵に視線をやると、真剣な表情で毛先を整えている。なにか話すきっかけがないかと考えるが、思いつかない。

 お菊が戻ってきて、柳井堂の店番にも大分余裕ができた。もうしばらく休憩していていいようだ。


 蝉の鳴き声が聞こえる。

 開け放たれた窓からは風が吹き込んできていて、汗ばんだ肌を涼しくさせる。真剣な徳蔵のこめかみを、汗が一筋流れていった。

 梅乃の鼓動が早くなる。作業中の徳蔵は、色気があるのだ。お菊のような女性らしい色っぽさとはまた違う、禁欲的な色気を感じる。


 ずっと見てたら気付かれてしまうかもしれない。ちらちら盗み見していた梅乃だったが、小刀を置いた徳蔵にびくりとした。

 徳蔵は梅乃に向きなおった。


「やる」


 徳蔵は今しがたでき上がったばかりの筆を、梅乃へと差し出してくる。


「前、梅乃にやったやつ、河原崎座の一件で壊れただろ。遅くなったが」


 盗み見していたことがばれたのかと思った梅乃だったが、ぽつりぽつりと呟かれる言葉にぽかんとする。

 ひと月も前の話だ。

 無論、梅乃だって忘れていたわけではない。徳蔵にもらった大事な筆だ。壊れたけれど、家に大切に保管してある。


「すぐに作ってやれなかったのは悪いと思ってる……。仕事が立て込んでいて……」


 しどろもどろに話す徳蔵。こんなに弱り切った徳蔵を初めて見た。

 筆作りの仕事が立て込んでいたのは事実だ。しかしそれに対して恨み言を言った覚えもないし、思ったこともない。

 だが徳蔵はずっと気にしてくれていたのだろう。梅乃の顔に自然と笑みが浮かんでしまう。


 小振りの筆は、持ち歩くためのものだろう。きっと言霊封じのため、いつでも使えるようにと仕立ててくれた。

 ずっと共にいてもいいと言われたようで、認めてもらえたようで。


「いただいても……いいんですか?」


 反応のない梅乃に弱りきっていた徳蔵は、覗き込むように問いかける梅乃にきっと表情を引き締めた。


「勿論。お前のために作ったんだ」


 真っ直ぐな視線を向けられて、梅乃の心臓がどくんと高鳴る。自分のためだと言われて、嬉しくないはずがない。

 期待しても、いいのだろうか。


「ありがとう、ございます」


 そんなこと聞けるはずもなく、梅乃は顔を綻ばせて筆を受け取るしかなかった。


 はにかんだ梅乃に徳蔵は赤くなっていたのだが、度胸のない自分にへこんでいた梅乃は気づく由もなかった。


   *


「とはいってもなぁ……」


 早朝の柳井堂。梅乃は店先で打ち水をしていた。今日も暑くなりそうだ。

 梅乃を悩ますものは、ただひとつ。


「徳くーん! 芝居小屋の近くの茶屋、相変わらすおいしかったね! 久々に行ったけど、新作の菓子は当たりだったよー」


 黙々と筆を並べる徳蔵に、嬉々として話しかけるお菊。二人の会話が聞こえてきて、梅乃はまた胸のあたりがもやもやしてきた。

 どうやら二人は昨日、お妙の茶屋へ行ったらしい。

 別にそれをとやかく言うつもりはない。そんな権利もないだろう。


「でも、もやもやするものは、する……」


 梅乃は柄杓を手に肩を落とした。

 新作の菓子といえば、梅乃と食べに行ったものだろう。あのときのことは、今思い出しても顔が熱くなってしまう。

 だからこそ、お菊と二人で行ったということに妬いてしまう。


「だから別になにか言われたわけじゃないんだって!」


 もしかしたら、徳蔵も同じ気持ちなのでは、と思うこともある。だがなにか言われたわけではないし、加えてお菊の登場だ。

 梅乃はちらりと店の中を見やった。お菊が徳蔵にべったりくっついている。


 近い。近すぎる。


 二人の中を怪しむには充分な光景だった。


「はぁ……」


 梅乃は知らず知らずのうちに溜息が零れてしまう。


「ん?」


 足元に違和感がして目を向けた。そこにいたのは――。


「柳さん!」


 猫の柳さんが梅乃の着物の裾に顔を摺り寄せて、「なーお」と鳴いた。

 久々の仕事である。


   *


 日も暮れて、鈴虫の鳴き始めた夜半時。梅乃は徳蔵とともに、柳井堂の前にいた。


「では二人とも、頼みましたよ」


 見送るのは総兵衛。

 常ならば弥吉やきちも来るはずだった。しかしお菊が別の言霊を見つけてきてしまい、そちらに弥吉と共に行くことになってしまったのだ。

 嬉しい反面、いまだもやもやが続いている梅乃は少し複雑だ。だが柳さんが歩き出してしまったので、ついていくしかなかった。


 暗がりの道を、柳さんは迷いなく進む。徳蔵の歩幅も大きい。必死でついていく梅乃だが、時折遅れがちになる。

 徳蔵がちらりと振り返った。少し歩みを緩める。


 なんだろうと梅乃が顔を上げると、手を差し出された。


「繋いでろ。はぐれると困る」


「え!?」


 有無を言わさず手を取られた。声を上げる間もなく手を引かれる。

 鼓動が早くなるのは、走っているせいか、それとも掌から伝わる熱のせいか。


 いつもならば、遅れることはない。弥吉が歩みを合わせていてくれたことを、今さらながらに梅乃は思い至った。

 だがこうして徳蔵は気づいてくれた。それだけで梅乃は胸がいっぱいになる。


 言霊使いとしての仕事中だ。こんな気持ちになっている場合ではないとは思う。

 しかし梅乃はもう少しだけ手を繋いでいたくて、赤くなった頬を闇夜に隠していた。

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