四幕目
鈴虫が鳴いている。
この時間ともなると暑さは大分やわらいではいるが、梅乃は別の意味で汗をかいていた。
「お梅ちゃん、大丈夫?」
「はいぃぃんぐ!」
問いかけに叫び声を上げた梅乃を、お菊は慌てて口を塞いだ。
「静かに。捕まりたくないでしょ?」
こくこくと梅乃が頷くのを確認して、お菊は手を離した。
二人は呉服屋に程近い通りの影から、問題の呉服屋を偵察していた。
店の前には男が二人立っている。例の物盗り騒ぎを警戒して、見張りが立てられたのだろう。
言霊使いとしての仕事で、人に遭遇することは珍しい。ましてや今日は徳蔵も
「どうします? あれじゃあ近づけませんよ?」
梅乃はお菊の耳もとに囁いた。
通りを覗いていたお菊は振り返る。
闇の中にあっても、お菊の美しさは損なわれない。同じ女として梅乃は溜息を零さずにはいられない。
今日もお菊は徳蔵にべたべたとくっついていた。
(徳蔵さん、なんで嫌がらないの!?)
と思いはするが、口にできない。そんなことを言って、徳蔵から面倒くさそうな顔をされたら立ち直れない。それにお菊からは『言霊使いとしてもまだ未熟なのに何を言ってるの』と言われそうだ。
「こういうときこそ言霊の出番だよ」
お菊の声に、梅乃は我に返った。
見るとお菊は短冊にさらさらと文字を綴っていく。
『惑い迷いし
息を吹きかけるようにお菊は言葉を紡いだ。
短冊から滑り落ちた白いもやが、呉服屋の前に立つ男たちへと纏わりつく。
するとどうだろう。男たちは膝をついて倒れ込んでしまった。
「よし、行くよ」
「何をしたんです?」
「ちょーっと眠ってもらっただけだよ。終わったらちゃんと起こすって」
男たちの脇をすり抜けていくお菊のあとに続き、梅乃の胸にはまた焦りが浮かんでいた。
お菊の力は強すぎる。彼女の力をもってすれば、できないことはないんじゃないだろうか。
「言霊の気配がするね。お梅ちゃん、分かる?」
お菊が提灯を掲げた。
呉服屋の中は綺麗に整理されており、まだ着物の動いた様子はない。
梅乃は目を閉じ神経を研ぎ澄まさせた。
「そこの棚、ですか?」
梅乃が指差した瞬間だった。棚の影から黒いものが飛び出した。
「お梅ちゃん下がって!」
ぐいっと袖を引かれ、梅乃はたたらを踏む。なんとか踏みとどまると、お菊に提灯を押し付けられた。
『表し現せ言の霊 ここは出入りを許されぬ』
お菊は懐から取り出した短冊を掲げ、言葉を紡いだ。
影は短冊の前で止まる。だが完全に止められたようではなく、ぐぐっとこちらに向かおうとしている。
「お梅ちゃん! 札用意してきたでしょ!? 早くこいつを縛って!」
言葉を失い突っ立っていた梅乃だったが、はっと我に返った。慌てて懐から札を出す。
お菊でも手こずっている相手だ。うまくできるか一抹の不安が胸に過ぎる。
『あ、表し現せ言の霊……。彼のもの縛りて捉まえよ』
梅乃の声は震えている。札がぼんやりと光るが、弱々しい。
光は影の言霊へと飛んでいったが、縛るどころかするりとほどけて消えてしまった。
「お梅ちゃん何やってるの!」
お菊は叫ぶと梅乃を突き飛ばした。小さく呻いて倒れ込む。
はっと顔を上げると、空気が変わるのを感じた。提灯の灯りに照らされたお菊は、新たな短冊を手にしている。それだけで言霊の動きが鈍くなったように見える。
『薄浅葱 黄浅緑に芥子色 求める如何は夏の夢』
お菊がそう唱えると、短冊から光が漏れ出す。光は言霊に纏わりついて、やがて光ごとお菊の持つ短冊へと吸い込まれていった。
お菊はひとつ息を吐くと、くるりと振り返る。
「お梅ちゃん。修行の成果、全く出せてないね」
梅乃は言葉に詰まる。返す言葉もなかった。
お菊は両手が塞がっていた。あの言霊を封じられるのは梅乃だけだったのだ。
なのに梅乃は何もすることができなかった。
何のための修行だったのか。
言霊使いとしての力があるから
梅乃は自分が情けなくなる。嫉妬などしている場合ではなかった。
俯く梅乃に、もう一度溜め息が聞こえた。
「とりあえずは帰ろっか。総兵衛くんが待ってる」
差し出された手を無視することもできず、梅乃はお菊に引かれ立ち上がった。
*
柳井堂へと戻った二人は、言霊を封じた短冊を総兵衛に見てもらっていた。
難しい表情で短冊を見ていた総兵衛だったが、やがて目を伏せ小さな溜め息を吐いた。
「あの……柳井さん……?」
「お菊さん。程々にしろと言ったのをお忘れですか?」
「だぁってー。あたし、このために江戸に戻ってきたんだもん」
にししと笑うお菊に、呆れ顔の総兵衛。梅乃は話が見えない。
そんな梅乃を見て、総兵衛は何かに気付いたようだった。
「お菊さん。まさかあなた、梅乃さんに話してない……?」
「そういえば忘れてた。ごめんねー」
「あなたって人は!」
珍しく声を荒げる総兵衛に、梅乃は驚き目を瞬かせた。まったくお菊は柳井堂の面々の新たな一面を見せてくれる。
総兵衛が梅乃に向き直った。
「梅乃さん、実はですね……。この言霊はお菊さんが生み出したものだったんです」
「は……?」
「新しい夏用の着物がほしくてさー。あたしいつもほしい着物があると、言霊生み出しちゃうんだよね。可愛い着物が着たいって気持ち、お梅ちゃんなら分かるでしょ?」
いけしゃあしゃあとのたまうお菊に、また総兵衛の説教が落ちる。
梅乃はぽかんとしながら言われたことの意味を考えていた。
「つまり……。自分自身の尻拭いをするために、今日は言霊封じに行ったってことですか……?」
「ご名答! さすがお梅ちゃん。頭の回転がいいね」
「少しは反省してださい、お菊さん。あなたが言霊を出さなきゃこうして封じに行く必要はないんですよ?」
軽い調子で「ごめん、ごめん」と言うお菊。説教は続くがまさに柳に風だ。
思わず梅乃は吹き出してしまった。
「梅乃さん……?」
「お梅ちゃん?」
困惑する二人に、梅乃は目尻を拭いつつ答える。
「だって、お菊さん。すごい言霊使いなのに、そんな言霊出しちゃうなんて……。ちょっと安心しちゃいました」
「安心?」
「はい。私、お菊さんのようになれなくて、ずっと落ち込んでたんです。力はあると言われても、全然言霊封じに使えないし……。でも、お菊さんにもそんな一面があるんだなって分かったら、なんだか安心しちゃって」
完璧に見えたお菊。見た目も柳井堂の仕事振りも言霊使いとしての能力も、何ひとつ適わないと思った。
「あっ、でも私に至らない部分があってもいいって意味じゃないですよ!? もちろん努力はしていくつもりです! 今日は全然役に立てなかったし……」
言いながら梅乃は沈んだ表情になっていく。
お菊に駄目な部分があるからといって、自分も不出来のままでいいわけがない。なんだか言い訳がましくなってしまったことを、梅乃は恥じた。
盛大な溜め息が聞こえた。顔を上げると、お菊が頬を掻いている。
「梅乃ちゃんはがんばってるよ。……ちょっと大人げなかった。これはただの八つ当たりだから」
「八つ当たり……?」
問い返されて、お菊はばつが悪そうだ。
「……あたしがいた場所に納まってる子がいて、ちょっと悔しかったんだよ。柳井堂に新しい子が来たのは文で知ってたんだけど、いざ戻ってきたらさ、なんの違和感もなくこの場所に納まってるからさ。……あたしだって柳井堂の一員なのに」
口を尖らせて言うお菊が、梅乃は信じられなかった。
お菊こそ柳井堂に欠かせない存在だ。新参者は梅乃の方。
まさかそんなことを思われていようとは。
「お菊さんも、梅乃さんも、柳井堂の大事な従業員ですよ」
ずっと黙っていた総兵衛が口を開く。女二人に見つめられて、総兵衛はにこりと笑った。
「そして大事な言霊使い。それを抜きにしても、私にとって、二人とも大事な存在です」
認められていないわけではなかった。分かっていないわけではなかった。
だが改めてそう言われて、梅乃の胸に熱いものが浮かぶ。
「あぁもう! そんなこと言われたら認めないわけにはいかないじゃん! 梅乃ちゃん! 柳井堂の従業員として、言霊使いとして、これからよろしくね!」
ぶっきらぼうにそう言って、お菊は手を突き出してきた。
梅乃はきょとんとその手を見つめる。これは仲良くしようということなのだろうか。
気に掛けてもらっていると思っていたから、改めてそんな態度を取られると少し変な気がする。
だけど嬉しいと思ってしまうのは、お菊のことがもう大分好きになってしまっているからだろう。
「はい! よろしくお願いします!」
梅乃は笑顔でその手を取った。
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