霧の街のニュートン探偵事務所

ジップ

ブリキ男の憂鬱

1、川辺にて

 ここは、霧の街

 あらゆる物が深い霧の中に隠れている

 醜い物も、美しい物も全ては霧の中

 そして人は見失う

 未来も、過去も……




 囁くような水音で彼女は目を覚ました。

 どうやら川辺で倒れていたようだった。

 見覚えのないその場所は白い霧に覆われていた。

 まわりの様子は見えないが、ゆっくりと流れる川の水音が心地よく聞こえていた。

 辺りを見渡すと街灯の光が白い霧の中ぼんやりと輝いているのが見えた。

 こんなところにいても仕方がない。彼女は街灯の光を目指して歩きだした。


 街灯のある場所はどうやら公園らしい。

 石畳の道の端には所々、ベンチがあるのが見えた。道の外はきれいに刈られた芝になっていた。

 どこかの街らしいが一体どこなのか、彼女には思い出すことができなかった。

 白い霧の中、あてもなく歩いているとふいに誰かの視線を感じた。

 振り向くといた道の隅置かれたベンチに座った誰かが彼女を見てる。

「どうしたんだい?」

 座っていた誰かが突然、声をかけてきた。その声は低く穏やかだった。

「道にでも迷ったのかね? お嬢さん」

 黒いシルクハットと黒いスーツ。足が悪いのか長杖に両手をかけていた。どういうわけか大きめのシルクハットに隠れているせいか顔はよく見えない。

「ええ、そうみたいです……向こうの川辺で気を失っていたみたいで……」

 彼女は戸惑いながら答えた。

「私、何故こんなところにいるのかも覚えがないんです」

「ふーん、大変だね」

 シルクハットの男から興味なさげな言葉が返ってくる。

「あの、すみません、ちょっとお聞きしたいんですけど、ここは、どこですか?」

「ここかい?」

 相手は顔を上げて彼女を見た。それでも男の顔はよく見えなかった。

「そうだな……ここを“霧の都”と呼ぶ者もいれば、“女王陛下の国”と言う者もいる。まあ、呼び方は、いろいろだね」

 男の言った呼び名にどちらにも覚えはなかった。

「そうですか……ありがとう」

 彼女は礼を言うと仕方なく、その場から離れようとした。

 その時だ。

「なあ、お嬢さん」

 歩き出そうとした彼女を男が呼び止めた。

「察するにあんた、困っているようだね」

「ええ、実は私……」

「わかるよ」

「え?」

「あんた、記憶がないんだろ?」

 男は彼女に記憶がないことをどういうわけか知っていた。

「あの、なんで私に記憶が無いってことを……」

「この道に立ち尽くしている奴は、大概そうだからね」

「私みたいに記憶を失った人が他にもいるんですか?」

「たまにだけどね」

「あたし、これからどうしたらいいのか……」

 彼女は思わず弱音を吐いてしまう。

「そうだね……ああ、そうだ」

 男は思い出したように言った。

「これが役に立つかもしれないな。君、ちょっとこっちへおいで」

 手招きされた彼女が男の前まで行くと目の前に名刺が差し出された。

「探偵事務所……アイザック・ニュートン探偵事務所?」

 名刺にはそう書かれていた。

 彼女は、差し出された名刺を受け取った。

「そこへ行ってみるといい。ニュートンという男がきっと、あんたを助けてくれるよ」

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