第三話「赤崎静が欲しかったもの」

「な…は?な、なんだよ…そりゃあ」

 緑間のそれはもう、目玉が零れ落ちてしまうのではないかと思ってしまうほどの見開き方であった。だがまあ、驚いてしまうのも無理はない。そんな話は聞いていないのだから。

「母さんは、全部知ってて…俺に隠してたっていうのか」

 にわかに信じられない話であった。

「…知らない方が良いこともあるんよ。彼女は大分関わりすぎてしまったけれど…結だけでなく、奏とも旧知だったと聞いた時は、びっくりしたねえ」

 環が、困ったように微笑んで俯いた。見れば彼女だけでなく衛も、遥でさえ表情に暗い影を落としている。

(なんでそんな、それが事実なんです、みたいな顔をしやがる)

 緑間は、ぎりりっと歯を食いしばった。

「そんなもん…っ信じられるわけが」

「本当のことだよ、祭」

 いつものように淡々とした口調で。

 いつものように緑間の言葉を遮ったのは。

 他の誰でもなく、赤崎静だ。

「本当だよって、お前」

「僕はもう死んでいるからね。実を言うと、その…えーと、心因性けん?なんとかっていう病気は、もう治っているんだ。いや、治っていると言っていいか、わからないけれど…僕はもう、全部思い出した。黙っていてごめん。いまいち確信が持てなかったし…なにぶん随分と昔の話だからね、母さんのことも、断片的にしか覚えていなくて」

(ああ、だから)

 だからこいつは、あんなことを。


 “ここさ、ずっと昔…僕がまだ全然小さかった頃に、一回だけ母さんに連れてきてもらったことがあるんだ”


「お前は…それでいいのかよ」

「ああ、いいんだ。ちゃんと全部…知ることが出来たから」

 少しの間一人にしてほしい、と赤崎が言った。わかった、と言って環達が墓地を後にする。先に車に戻っているとのことだった。

 緑間は迷った挙句、結局残ることにした。

 今までなら、本来迷うなどという選択肢はそもそも存在していない(お互い離れることが出来ないから)のだが、先ほど赤崎から流れ込んできた意識の中に、それが誤りであるという情報も混ざっていた。

 おそらく赤崎本人はそれを、意識的に緑間に伝えようとしたわけではないだろうが…つまるところ夏休みに入ってから、赤崎はもう緑間から離れて行動が出来ていたし、緑間の方も気づいていなかっただけで、赤崎から離れることが出来た、ということらしい。

 それを聞いた時、そういえばと、夏休みに入ってすぐ、自分が赤崎の意識がない時だけ離れて行動出来ていたことを緑間は思い出していた。

 まあつまり、それが嘘でないことをわかりきっている緑間には、今ここで赤崎を一人にすることは実に容易なことであった。物分りの良い幼なじみを演じて、一人になりたいと言う彼を一人にすることは、決して難しいことではなかったし、どちらかといえば簡単なことだったのだ。

 だが、それでも。

 緑間は敢えて、それ・・に気がついていない振りをすることにしたのである。何も知らない、聞いていない振りをして、この場に―赤崎の傍に留まることを決めたのだ。

 おそらく赤崎はそれを望んではいなかったし、それが自分の我儘であることを緑間は従順承知していたが、それでも。

 今の赤崎を一人にしたくないと、緑間は思った。

 それは、ある種の使命感のようなものを伴っていたけれど。

(多分本当の理由は、怖いからだ)

 今の静を一人にして、そうしたら。

 なんの餞別もやれないまま、もう二度と会えないところまでいってしまうような気がして。

 だからやっぱり。

 これは俺の我儘だ。




「祭、」

「なんだよ。悪いけど、俺とお前は離れられないんだって、わかってんだろ」

「…うん、わかってる」

 赤崎は、何かを誤魔化しているかのような顔で、ぶっきらぼうにそう言った幼なじみを横目でちらりと見やった。そして、馬鹿だなあと赤崎は微かに笑う。

(そんな理由をこじつけなくたって、ちゃんとわかっているのに)

 君はここに残ってくれるだろうと、僕はちゃんとわかっていたのに。


 “そしてできれば、その時はちゃんと、僕の傍にいてほしい”


 むしろ残ってほしいと、僕はそう伝えたじゃないか。

 優しいのに不器用だとか、それはもう、本当に損な性格だね。

 君の優しさは、僕が死んでも死ななくても、多分一生変わらないものなんだろうね。

 僕はそれが、ほんの少しだけ悲しいよ。

 君は優しすぎるから。

 僕はそれが、ほんの少しだけ気がかりだよ。

「怒ってる?黙っていたこと」

「怒ってねえよ、別に。ただまあ…そういう大事なことは、言ってほしかったっつうのも、確かに本心ではある」

(言って、そうしたら、君は)

 一体どんな顔をしていたんだろうね。

 今の僕と、同じ顔をしていたかもしれないね。

 それは嫌だなあ。

「…あのさ、祭」

 赤崎は、触れられないとわかっていて、そっと目前の墓標を撫でた。

「前に言ったと思うけどさ、僕、恨んではいないんだよ。全部思い出した今でも、僕より遥の命を優先した母さんのことも、僕を大嫌いだと捨てた母さんのことも。でも、やっぱりわからないんだ」

 ああ、確か。前に言った時、祭は眠っていたんだっけ。前にも言ったと思うけどさ、とか、知るわけないか。

 幼なじみは何も言わない。慰めることもしなかったし、下手に相槌を打つことも、肩に手を置くこともしなかった。ただ黙って、僕が続ける言葉を待っている。

(本当はもう、悟られているかもしれないけれど)

 それでも僕は、口に出して言ってみた。


「僕は本当に、生まれてきてよかったのか、ってさ」


 こうやって改めて母さんに会って、今までの色々を全部知って、そうしたら。僕が一番望んでいるものの答えが、わかるんだと思っていた。僕は、僕の生は、本当は望まれていなかったんじゃないかっていう、その疑問に対する答えが、ずっとほしかったんだ。全部忘れていた、僕がまだ生きていた頃でさえ。


「僕は、僕が生まれてきたことに対する理由の裏づけみたいなものが、ずっとほしかったんだよ。それを手っ取り早く証明してくれるものが、ずっとほしかった」


 ねえ、血の繋がった僕の母さん。

 藤黄奏さん。

 あなたは僕を愛していた?あなたは僕を、愛そうとしてくれていた?あなたは僕に、どれくらいの愛を注いでくれたんだろう。

 藤黄奏さん。

 僕はあなたを愛していた?僕はあなたを、愛そうとしていたのかな。僕はあなたに、どれほどの愛を返してあげられたんだろう。


「つまりさ、赤崎静は」


 ねえ、もう一人の僕の母さん。

 赤崎結さん。

 僕は多分、やっぱりあなたのことを、愛していたんだと思います。あなたはやっぱり、僕のことを愛してはくれていなかったと思うけれど。

 僕はあの頃、それが悲しいことだと気づけない子供だったけれど。



「ただ“愛”がほしかっただけなんだ。笑ってくれよ」



 言葉にしてみたら、何故だか急に色々なものが奥の方からせり上がってきて、きゅうっと目頭が熱くなった。涙腺が緩んで、涙が流れそうになる。どうしても泣きたくなくて、赤崎は必死になって唇を噛んだ。

「誰が笑うかよ、バカ」

 そこで初めて、緑間が動いた。大きくてあたたかいその手が、優しく赤崎の頭に置かれる。不覚にも、多分こういう所に女の子は弱いんだろうなあ、なんて思ってしまった。

(僕は女の子では、ないはずなんだけれど)

 ああ、もう、本当に。

 いっそ笑ってくれれば良かったのに。

 そうしたらきっと、この熱いものも、奥の方に引っ込んでいたに違いないのに。

「今は泣いたっていいじゃねえか。お前は十分愛されてるよ。環さんにも、衛さんにも、遥にも…俺の母さんにも父さんにも、青子の母さんと父さんにも、クラスの連中にも。響や琴乃、優…そして青子にも、俺にだって、お前はちゃんと愛されてる。お前の母さんと父さんだってきっとそうだ。わかってんだろ、それくらい」

 緑間の声はどこまでも優しかった。そして赤崎は、その優しさにどこまでも弱かった。

「お前は望まれてなくなんかねえよ。俺が保証してやる。そんで、お前がわからないっつうなら、今ここで俺が言ってやる。お前が生まれてきた理由なんて、初めから決まってんだよ」

 そう、まるで。

 ごくごく当たり前のことを口にするかのように、赤崎の幼なじみは言った。



「俺達に会う為だよ。そんなこともわかんねえのか、赤崎静は」



(ああ、もう。本当に、敵わない)

 僕がずっと探し求めてきたそれを、いとも簡単に君が見つけ出してくるなんて。

(僕は一体、今まで何を見てきたっていうんだ)

 答えなんて、すぐそこにあったというのに。

「俺はお前に会えて、すっげえ嬉しかったって思ってる。お前は、違うのかよ」

 赤崎は考えて、答えなんて考えるまでもなく明白だったから、迷わず首を横に振った。違わない。違うはずがない。

(…また、気づかされちゃったな)

 言われなくてもわかっていたはずだった。今自分の周りにはたくさんの人がいること、そしてこんな僕のことを大切に思ってくれる人がいたことに。

(いや、違うか)

 わかっていなかったからこそ、僕はずっとほしがっていたんだから。

 愛がほしいなんて、とんだ傲慢だ。僕はこんなにも、ほしがっていた愛で満たされているというのに。

「…母さん」

 僕は、母さんの墓標に向き合った。

 母さん。

 僕の、母さん。

「僕さ、あなたに会うことがあったら、聞こうと思っていたことがたくさんあったんだ」

 僕は、母さんと一緒に、もう一人の母さんのことも思い浮かべた。

 もう一人の母さん。

 僕のことを、嫌いだと言った母さん。

 ねえ、母さん。

 あなたは僕を愛していた?

 ねえ、もう一人の母さん。

 僕のことを愛してくれた時が、ほんの一瞬でもありましたか。

(僕は、)

「でも、そんなのはもう、どうだっていいんだ。だって僕は」

 たとえ母さんが僕のことを愛していなかったとしても。

 たとえもう一人の母さんが、最初から最後までずっと、僕のことを嫌い続けていたとしても。

(僕は、)



「僕は確かに、愛していたから」



 会えてよかった。僕を産んでくれて、ありがとう。



「祭」

「なんだよ」

 赤崎がゆっくりと顔を上げる。その顔にはもう、悲しみも涙の跡も存在していない。彼は過去と向き合い、そして受け入れたのだ。あれだけ途方もない過去を。

「帰ろうか」

 そして次は、緑間が向き合う番である。

 現状を受け止め、これから訪れるであろう今生の訣別と向き合う覚悟を、彼は決めなくてはならない。たとえそれが、どれだけ辛く悲しいことであったとしても。

 緑間祭は、過去にしなくてはならない。

「おう」


 それが、彼が死んだ幼なじみの為に出来る、今生で唯一のことであるのだから。

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さよならの続編 軌跡 @kakera_10

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