第二話「遠い遠い昔のお話」

 ほんの少し、長い話になるだろう。

 今から十五年前―赤崎…ここでは静と呼ぶことにしよう。静かがまだ幼い、三歳の頃のことだ。彼の母親である奏は、後に静の妹として生を受ける遥を身ごもった。

 遥の命が母体に宿ったのは、七月のことである。出産予定日は九ヵ月後の四月。春だった。奏は、自分の身に宿った二人目の尊い命の誕生に感謝し、喜んだ。

 この頃既に、静の父親は病により他界してしまっている為、彼女は女手一つで幼い息子を育ててきたということになる。生活保護や、両親である環と衛の支えもあって、それなりに不自由なくやってこれていたが、これが二人となると色々と変わってくるものもあった。

 経済的な面での問題は無きに等しかったが、生まれたばかりの赤ん坊の世話を、それだけでなく静の面倒まで見なくてはならない。行動の幅が大きく狭められてしまうし、父と母からは無理ではないかと何度も言われていた。

 だが、それでも。彼女はそれを押し切って、遥を産むことを決断する。

 それが後に、静や遥、そして彼女自身の運命や、周りのこれからの人生を百八十度変えることになるのだが、それはやはり、今の彼女にはわかりえない話であった。

 この頃、遥を産むにあたって奏は苗字を旧姓に戻している。それが「藤黄」だ。

 遥を身ごもって、八ヶ月ほどが経った。三月の初めの頃である。

 その時は唐突に、何の前触れもなく訪れた。

 彼女は定期検査の為、いつものように病院へと向かった。病院まではバスで通っていた。タクシーは料金が高いからだ。

 そして、それ故に起きてしまった悲劇だった。

 奏の乗ったバスが、トラックと衝突事故を起こした。重傷者三名、奏はその内の一人だった。

 決断。

 そして、決断を迫られる。

 彼女の生涯において、最も辛く悲しい選択を。


 ―“どちらかしか救えない。母体である奏か、それとも彼女の中に宿る小さな命か”―


 医師が下したのは、そういう決断だった。

 このままでは、母体が受けた事故のダメージにより、赤子が流産してしまうこと。それを防ぐためには、帝王切開で赤子を摘出するしかないこと。だが、事故により重傷を負った彼女の体は、激しく体力を消耗する出産には、耐えられないこと。

 二人を救うことは、限りなく不可能に近いことを。

 奏を助けるならば子を諦め、子を救うなら奏自身の命を懸ける覚悟を決めろと―医師が言ったのは、そういうことだった。

 勿論彼女の両親は、娘の命を優先しようとした。そしてそれがおそらく、最善であったのだろう。

 生きていれば、再び子供を授かる機会があるかもしれない。奏が選ぶべきは、誰がどう見ても自分自身の命を優先することだった。

 彼女には、まだ三歳の息子がいる。その幼さで父親だけでなく、母親まで失うなど―果たして堪えられるか。それは、あまりに酷過ぎる。静のことも考えた上で、それでもやはり彼女が選ぶべき選択肢は、一つしかなかったのだ。

 その一つを選ぶべきだと、誰もがそう言ったというのに。


 ―“大切な人を失う辛さは、私もよくわかってる。でも、たとえどんな理由があったとしても…誰かの身勝手で誰かの命を奪うなんて、私には出来ないよ。きっと、あの人だってそう言う”―


 彼女の回復を待つことは不可能で、だからつまり、選択に有することができる時間も、少なからず限られていて。

 その中で、必死に歯を食いしばって彼女が出した答えは、「子供を助ける」方だった。


 ―“この子を、助けてください。私は、どうなってもいいから”―


 そうして彼女は笑ったのだ。とても苦しそうな顔で、笑顔を作った。


 ―“静と、この子のこと…お願い”―


 それが、奏の両親、つまりは環と衛が彼女から聞いた、最後の“お願い”であり、生きている彼女を見た最後のことであった。医師もなんとか奏の命を繋ぎとめようとしてくれたが、結局彼女は亡き人となり、代わりに小さな命が誕生した。遥はこうして、この世に生を受けたのである。




 当然、静と遥のことは藤黄家が引き取る予定だった。奏から託されたのもそうだが、娘の忘れ形見を無碍にできるはずがなかったのだ。

 だが、奏の死を聞きつけて葬儀に出席した、彼女の妹―赤崎あかさきゆいが、姉の代わりに子供を育てたいと申し出たのだ。

 結は結婚もしていて夫との仲も良好だったが、一つだけ悩みがあり、それは子宝に恵まれないことだった。結婚をしてもう三年が経とうとしていたが、未だに子はなく、流産を繰り返すばかりだった。

 そこで結は提案してきたのである。静と遥を引き取ろうと。

 さすがに老体で、幼い子供を二人も育てるのは厳しいだろうと判断した藤黄家は、悩んだ末に―静の方を、赤崎夫婦に任せることにしたのだ。

 結の方も、どちらかといえば息子が欲しいと言っていたし、以前から静のことを可愛がっていたからだ。姉妹なので、必然的に何かしら似ている部分もあるだろうし、静の方も、かえって赤崎家の方が馴染めるかもしれないと判断し、藤黄家の方で生まれたばかりの遥を引き取ることにしたのだ。

 さすがに、子育ての経験値が皆無である結に赤子を任せることは気が引けたし、それに経済的にも、赤崎家にいきなり子供二人は無理があった。そして環と衛には、時間にも経済面にも余裕があったからだ。

 そうすることで、静と遥は離れ離れになってしまうわけだったが、それはまあ、ある程度落ち着いた頃にもう一度話し合えばいいだろうと両家で折り合いがつき。

 こうして三月九日、奏が命を懸けてこの世に生み落とした赤子が産まれ、その一週間後に静は赤崎家に引き取られた。そして後に「遥」と名づけられる赤子は、藤黄家に引き取られたのである。(三月十六日)

 彼ら兄妹は引き裂かれ―次に会うのは、静と遥がそれぞれ高校と中学に進学して、ほどなく経った頃となる。




 赤崎家に引き取られた静の一週間(三月二十三日まで)は、それはそれは見るに堪えないものであった。用意されたご飯にはろくに手をつけず、ひたすら暴れまわって食器やおもちゃなどを壊し、義理の親になった結とその夫、赤崎あかさき和人かずとに対して敵意をむき出しにする一方で、ことあるごとに「ママはどこ!」「ママのところに帰して!」と叫ぶばかりである。

 これにはさすがに参ったという様子で、静を引き取って二週間が経った頃(三月三十日)、事情を話すべく藤黄家へ戻った赤崎夫婦だったが、静の態度は祖父母である環と衛に対しても変わらなかった。むしろひどくなったくらいだ。

 つまるところ静は、母親が亡くなったという現実を、受け入れられずにいたのだろう。

 そして。

 いや、だから、と言うべきか。

 静は逃げた。

 その日―結が静のことを話す為に藤黄家へ訪れた、三月三十日に。

 静は恍惚と、彼女らの前から姿を消した。

 勿論全員が慌てふためいた。

 あの、子供の小さな体で遠くへなど行けるはずがない。両家は必死にあちこちを駆け回り、警察にも届出を出したものの、静の姿が見えないまま二日が経った―その日。

 警察署から、道端に倒れていた子供を保護し、病院へと連れて行ったという人物の話を聞きつけ、隣り町の病院へと両家は急ぎ向かった。そうして、ようやく静のことを発見することができたのだ。

 どうやら栄養失調と過労で倒れたようで、その当時静はまだ三歳の子供であったのだから、当たり前といえば当たり前である。

 そして、ひっきりなしに「ママ」と静がうわ言のように繰り返していたことも、両家は聞いた。

 静はその日の内に目を覚ましたが、第一声のその言葉に、赤崎家と藤黄家は目を見開いた。


 ―“ここはどこ?ぼくはだれ?”―


 静は、生まれてからたった今までの、三年間の記憶を失っていたのである。

 専門医の話によると、静は「心因性健忘症」という病にかかり、もっといえば「全生活史健忘」という、“発症以前の出生以来すべての自分に関する記憶が思い出せない”状態であるらしかった。主に記憶喪失と同一視され、心的外傷やストレスにさらされたことでおこる健忘である。おそらく、奏が亡くなったことが原因なのだろう。

 効果的な治療法は「催眠療法」で、うまくいけば早期に記憶を蘇らせることが出来るとのことだったが、医師に事のあらましを話すと、なんとも微妙な顔をされた。そこまで深く事情が込み入っているとは、思っていなかったのだろう。


 ―“お子さんのことを考えれば、このままの状態を放置しておくのはよくありません。ですが、仮に記憶が戻ったとしても、同じことを繰り返してしまうおそれがあります。健忘は本人の意思の問題なので、お子さんが変わらなければ何度でも発症するでしょう”―


 ここまで幼い年齢で健忘症にかかることは珍しく、まず前例がほとんどないとのことで、このままにしておけば記憶が戻らない可能性もあると医師は言った。

 確かに、静のことを考えるなら、一刻も早く記憶を取り戻させるべきなのだろう。

 だが、それは本当に静の為になるのだろうか?

 父親を亡くし、母親を亡くし、その現実を受け入れられず、義理の親も祖父母も受け入れられず。世界の全てを拒絶しきってしまっている静にとって、記憶を蘇らせることは、本当に正しいことなのだろうか。

 静は、奏の子供であった三年間を忘れた方が、楽になるのではないだろうか。

 どのみち、このままではいけないのだとわかってはいた。言って理解できるような歳ではなかったにしろ、あのままの状態が長く続いていれば、どちらにせよ静は倒れていたに違いない。

 静の為にも、そしてこれから静と共に生きていくことを決めた赤崎家にとっても、記憶は戻らないままにしておいた方が良い。最終的には、そういう風に判断はした。

 だが、後ろめたさはやはりある。自分達はこれから、生まれてから昨日までの静の過去をなかったことにして、すり替える―たとえ三年ばかりの思い出だったとしても、実親である奏の子供であった過去を、彼女らは静から奪わなくてはならない。その後ろ暗さを、一生自分達は背負っていかなければならないのだ。

 環は言った。荷が重いなら手離しなさいと。二人とも自分達が面倒を見るから、と。

 だがこの時、赤崎結は迷いなく首を横に振ったのだ。


 ―“私達が、この子の家族になるの。私が、この子の母親になる。私は私なりに、静と向き合って生きていきたい”―


 塗り替える思い出の分も、精一杯愛してあげたい。それが彼女と―彼女の夫が出した決断だった。

 こうして静はその日、“赤崎静”になったのだ。

 奇しくもその日は、四月一日であった。




 遥という妹がいることは、静には隠そうと両家の判断でそう決めた。いつ、何がきっかけで戻ってしまうかもわからない記憶だ。どれだけきっかけが些細なことであったとしても、記憶が戻ってしまう可能性は十分にある。もしも遥が妹だと知れば、静は全て思い出してしまうかもしれない。

 だから、静と遥だけは絶対に会わせないようにと決めたのだ。その為、奏のように藤黄家に身を置くことは出来ないわけで―赤崎家ご一行は、住居を一転して、出来るだけ藤黄家の近くに引っ越すことにした。いつ、何があってもすぐにお互い連絡が取り合えるように。

 そして新居に引っ越してすぐ―それはもう、驚くほどに偶然的な、思わぬ人物との再会を結は果たした。

 そう、あの日。道端に倒れていた静を病院へと運んでくれた人物と、ばったり再会したのである。

 その人物の名前は、緑間みどりま小唄こうた。驚くことに、引越し先のご近所さんだったのである。それはもう、本当にびっくりしたものだ。

 彼女には、その当時七歳だった娘と、三歳の息子がいた。そして、家族ぐるみで緑間家と交流があった水沢家も交え、赤崎家も含めた三家は仲良しになった。静と祭と青子―この三人が出会ったのも、ちょうどこの時期である。

 そうして月日は流れていった。驚くほどにあっさりと。

 そして、傍から見ても贔屓目に見ても、仲睦まじい夫婦であった赤崎夫婦と、その息子赤崎静に不幸が訪れるのは、それから七年の年月が経過した頃のことになる。




 静が十歳の誕生日を迎える、ちょうど一ヶ月前の話になる。

 六月のことだった。

 静の義父、赤崎和人が仕事先の同僚と不倫をしていたことが、結に知られたのである。たまたま偶然、その浮気現場を目撃したのは緑間小唄であった。

 その日から徐々に、中睦まじいと言われていた赤崎夫婦の関係は崩壊していった。

 和人は朝帰りを繰り返すようになり、結は毎晩酒におぼれ、二人が顔をつき合せれば口論が始まる。その度に静は所在なく、緑間家もしくは水沢家に預けられていた。

 二人の仲は険悪になっていく一方で、六月二十日。十余年にも及ぶ夫婦関係に終止符を打ち、結と和人は離婚した。当然、静のことは結が引き取ることとなり、これからは一人で静の面倒を見ていかなくてはならなくなった。

 結は専業主婦だったので仕事には就いていなく、まずは仕事を探さなくてはならない。夫が置いていった慰謝料だけでは、いずれ生活が出来なくなってしまうだろう。静を育てるのであれば尚更だ。

 だが、そこで彼女は思ったのである。思って、しまった。

 ―“育てる必要なんてあるの?だってこの子は、私の子供じゃないのよ”―と。

 一度自覚してしまったら、もう止まらなかった。


 ―“私達がいるから、だから。早まっちゃダメよ、結”―


 そんな風に何度も、緑間小唄や青子の母親である水沢みずさわ流歌るかは、結に対してそう言っていたのだが―それがどういう風に彼女を追い詰めていったかは、言わずともしれるだろう。

 そして六月三十日。

 赤崎結はたった一言、“ごめん、もう無理”と書き置きを残し、静を置いて家から出て行った。

そして七月五日、行方をくらませた母親を求め―それはさながら七年前の三月三十日のように、静もまた、姿を消した。

 そして、七年前の四月一日と同じように静は病院へと搬送され、それを聞きつけた緑間家と水沢家、それと藤黄家が病院へと駆けつけた。七年前を繰り返しているような気持ちだった。

 だが、そこには目を疑うような後景が広がっていたのである。七年前とは、違った後景が。

 点滴を打たれ、青白い顔で眠る静の首を絞める人物の姿があった。

 そう、赤崎結だ。

 静の家族になると、静の母親になると、そして自分なりに静と向き合って生きたいと、精一杯愛してあげたいと言っていたはずの彼女が、その時とは全く違った感情を抱きながら息子の首を絞めていた。首を。絞めていた。

 それは間一髪のところで小唄たちに止められ、殺人未遂となったが―彼女の気持ちは、変わらなかった。とても冷たい目をして、静のことを見下ろしていた。



 ―“ごめん、もう無理。だって私、この子がいなければって思っちゃったもの。夫がね、言っていたわ。ずっと我慢してきたけれど、俺にとって全くの赤の他人である静のことを、受け入れ続けることが難しくなって、無理になったって。当たり前よね、似ているところ、一つもないし。

 私もね、思った。たとえば私がまた別の誰かを好きになったとして、そうしたらその人は、静のことを受け入れてくれるんだろうかって。子供がいても関係ないって言ってくれるのかなって。

 それにもしかしたら、静の方が受け入れてくれない可能性もあるよね。いつかみたいに、また暴れるかもしれない。その人を、父親だと認めてくれないかもしれない。そう思ったらすごく、すごく邪魔だなあって思った。

 だから気づかれないように、家を出たのに。これ、わかりやすくいえば捨てたってことになるのに。多分わかってないんだよね。だから私のこと、追ってきたんだよね、きっと。びっくりしたなあ。素直に嬉しかったよ、ああ、私愛されてるんだなあって思った。思ったんだよ。だから、もう一度向き合おうって、向き直ってみようかなって思って、病院に連れてきちゃったけれど。

 そうしたらこの子、うわ言みたいに「ママ」って言ったのよ。

 それが、決定打だった。だって私、静に「ママ」って呼ばれたこと、一度もなかったんだもの。ああ、やっぱり、忘れていても、心のずっとずっと奥の方で、静は奏姉さんのこと覚えているんだなあって。私、やっぱり姉さんの代わりでしかなかったんだなあって、さ。

 お母さん、お父さん。私には荷が重たかったみたい。やっぱりあの時、素直に身を引いていればよかったね。精一杯愛したいとか言わないで。そもそも初めから、大嫌いな姉さんの子供を愛そうとか、多分無理だったんだよね。それでもね、愛そうとした私の気持ちは、本当だったんだよ。

 なんで私が、二人を引き取りたいって言ったかわかる?あのね、それは、奏姉さんの子供だったからじゃなくて、つかささんの子供だったから。知らなかったかもしれないけれど、私は和人さんと結婚する前、司さんと付き合っていたの。あの人のことが本当に好きだったの。私が、あの人と一緒になるはずだったの。

 でも、姉さんが、私から司さんを奪っていって。私に許可なく勝手に結婚して、勝手に子供を作って、勝手に死んで。私本当に悔しくて。

 静。私のコンプレックスである奏姉さんと、私が大好きだった司さんの忘れ形見。だからこそ私は、君を引き取ったわけだけれど、結局私は、君をどうするつもりだったんだろうね。

 姉さんの面影を見つけては、腸が煮えくり返るような激情を感じて、司さんの面影を見つけては、抱き潰したいほどの愛しさを感じて。私は一体、君をどうしたかったんだろうね。

 ねえ、静。きっと君は、これからたくさんの人に出会い、たくさんの人に愛されて、幸せに生きるんだろうね。本当に嬉しく思う。でもね、その反面、私はきっと、静の幸せそうな顔を見たくないとも思ってる。

だって私、姉さんのそういうところが嫌いだったから。

 私、姉さんの偽善者ぶりが一番嫌いだった。私から全部、全部!司さんさえも奪っていったくせに!まるで私の気持ちがわかるみたいな言い方で、気持ち悪い同情心なんかで「また頑張ればいいよ」なんて言っちゃってさあ!本当にふざけてる。本当の本当に、大嫌いだった!

 ねえ、静。私に、愛されているとでも思った?あはは、そんなわけないじゃない。愛したいとは思ったけれど、愛せるとは思っていなかったもの。初めから、全部、全部嘘だったのよ。全部ね。

 それでも静は、きっと私のことを愛してくれていたよね。そう思うと、やっぱり憎たらしい。姉さんも、姉さんに似ている静のことも。

 だからこれはね、多分ただの八つ当たりなのよ。一割は冗談。でも、九割は本気。本音。

 “あんたなんか、生まれてこなければよかったのに”

 こんな私と今まで仲良くしてくれてありがとう、小唄、流歌。

 自分勝手でごめんね、お母さん、お父さん。静のこと、よろしくお願いします。それと、

 ごめんね、静。良いお母さんの振りができなくて。今まで楽しかったよ。さようなら。

 誕生日、おめでとう。”―



 そうして彼女は今度こそ行方をくらませた。静のことを置いて。静と過ごした七年間も、置いて。

 その後、静に記憶が戻ることを覚悟した上で、静を引き取ることを決めた環と衛であったが、それを制したのは緑間小唄であった。なんと驚くことに、彼女は―それこそ本当に赤の他人である静のことを、引き取りたいとそう言ったのだ。

 藤黄家としては勿論、ではお願いしますなどと言えるわけもなく。一度結に預けた結果がこれで、しかも今度は正真正銘の他人だ、その申し出に対し拒否してしまうのも無理はない。

 だが、それでも彼女は退かなかった。どころか、静本人がそれを強く望んだのである。


 ―“本当にいいの。このまま祭や青子ちゃんと離れ離れになって。本当に静くんは、それでいいの”―


 嫌だ、と静は言ったのだ。離れたくない、ずっと一緒にいたいと。

 小唄にはわかっていたのだ。静が七年前、母親の消失により暴れつくしたことに対し、今回はその片鱗を見せていない理由を。それが、祭や青子のことを本当の家族のように思っているからなのだと。彼女だけは、静の過去について、結から直接聞いていたのである。

 だが、それにしたって不可解であった。何故、赤の他人である静のことを引き取りたいなどと言うのか、藤黄家にはそれがどうしてもわからなかった。彼女にはその動機がないはずだから。


 ―“だって、結も奏も・・・・私の友人ですから。一人で地に足をつけるようになるまで、傍で見守りたいんです。二人の忘れ形見である、静くんのことを”―


 この頃すでに、経済的な面においてあまり良くない状況にあった藤黄家は、二人の子供を育てることはほぼ不可能であることが目に見えていて、環と衛は、否が応でも「よろしくお願いします」という他なかった。

 そういう過去が、出来あがってしまったのだ。

 そうして現在に至る。

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