一本又峠

たんばたじかび

一本又峠

 



          1


「これからお前の歓迎会開くから」

 パソコンに向かう充明の肩を浜西が勢いよく叩いた。

「えっ、これからっすか? 僕まだ仕事あるんすよ。っていうか、なんで? もう三か月経ってますよ。いいっすよ。今さら」

「バーカ。課長に奢らせるんだよ。俺はな、お前の歓迎会を開くために三か月粘りに粘ったんだよ。どうだ、この先輩の愛情」

「課長にたかって愛情もくそもないですよ。先輩がただ酒飲みたいだけっしょ」

「がはは。そうかもな。

 ってわけで、仕事が終わったらすぐ来なさい。はいこれ」

 浜西が社用車のキーを差し出した。ストラップにしては大きすぎる編みぐるみのクマがぶらぶらと揺れている。

「仕事終わってからって――あのう、僕の歓迎会なんすよね。みんな先に行くんすか? しかも車で来いって? じゃ僕酒飲めないじゃないっすか。それともだれか帰りに運転してくれるんすか?」

 「いや。飲めないてっくんとふうちゃんが自分たちの車でそれぞれ俺らを送迎してくれる。で、君はあのおんぼろ軽のバンちゃんで来て、自力で帰る。車は明日返してくれたらいいよ。課長に話しつけてるから。ってことで、じゃっ」

 浜西は開いた口が塞がらない充明を置いてさっさと行ってしまった。

「何が先輩の愛情だぁぁ――」

 叫んでいると浜西が戻ってきた。

「あっ、そうそう、これ、居酒屋の地図。お前まだここにきて日が浅いから道も店もわからないだろ? 

 安くておいしいお店って隣町にしかないんだよね。一番近道チョイスして描いといたから」

 折りたたんだ紙を机に置くと、じゃっと手を上げて今度こそ本当に行ってしまった。

「もーっっ」

 頭をぐしゃぐしゃと掻いて、キーボードを乱暴に打ち始めた。



 小林充明が勤務する総合アパレルメーカーの支社は山間部の小さな町、鬼志谷町にあった。

 本社は県庁所在地のビルの立ち並ぶ街にある。充明は難関を突破しそこに籍を置いていたが、上司の失敗を押し付けられ、夏休み明けに支社に飛ばされた。怒りに任せ辞表を叩きつけてやろうかと思ったが、仕事をしなければ生活できない。苦労して入った会社だった。まだやめさせられなかっただけましだと思うことにした。

 軋んだ心はなかなか元に戻せずしばらく人間不信に陥っていたが、鬼志谷町にきて心の平穏を少しずつ取り戻した。

 この町の人はみな親切だった。初対面でも気さくに声をかけてくれて、困った時はお互いさまとすぐに助けてくれる。

 支社の社員たちも多少口さがないところはあるが、アットホームな雰囲気で出世争いや派閥などもない。

 無駄なストレスがないだけでこんなにも仕事が楽しいとは、本社で過ごした日々は何だったのか。

 ここにきてよかった。

 心からそう思っていた。


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 バンちゃんと名付けている社用車に乗りキーを回す。クマが膝にあたって揺れた。

「もう邪魔だな」

 素朴な顔をした編みぐるみは手芸が得意な岩城楓子、みんなからふうちゃんと呼ばれている事務員の手作りだった。五台ある社用車のキーにすべてつけられ、ほかにはタコ、イヌ、ネコ、カッパがあってどれも大きい。

 以前キーを失くした者がいたので、紛失防止のため大きく作ったらしいのだが、車を利用する者は口に出さないが邪魔だと思っているに違いない。

 好意でしてくれたのだから、文句は言えない。

 充明は苦笑いしてバンちゃんを発進させた。

 浜西にもらった紙を片手で広げる。A5のコピー用紙にフリーハンドで大雑把な地図が描かれていた。

 会社前の二車線の道を左に折れ、二つ目の信号までの赤ラインを確認すると助手席に地図を置き、スピードを上げた。

 一つ目の赤信号で止まると再びチェックした。

 次の信号を右か――

 赤ラインは簡素な山の絵に続いていた。てっぺんに一本又峠と記されている。山に描かれたくねくねの山道に赤が走っていた。

 信号が変わり、次の信号まで進む。対向車どころか先行車も後続車もない。

 時計の表示を見ると午後七時を過ぎたところだった。

 まだこんな時間なのに空いてる――さすが田舎道だな。

 赤信号にかかることなく、ウインカーを出して順調に右に曲がった。

 ヘッドライトに浮かぶ紅葉の隙間から案内標識が見える。

『一本又峠

  本路町 ↑』

 その下に一車線の道がまっすぐ伸びていた。


          3


 峠の道は対向できるぎりぎりの広さしかなく、街灯も少なくてとても暗かった。

 点在する民家の明かりも山に上がるにつれ見えなくなった。

 いったん路肩に止め、室内灯で地図を確認する。

 山の左横に本路町と書かれ、赤ラインはそこに向かって伸びていた。山を抜けると直線の道になり、信号を二つ越え、三つ目の信号で左折、そこから『500mぐらい』走り、店の名前の赤い二重丸にたどり着く。

 山のカーブきついだろうな。いけるかな。

 充明は不安になった。運転は得意なほうではないし、暗い山道を走ったこともない。

「まっ、注意しながら行けばいいか。道筋はわかりやすいし。

 こんな峠なんかすぐ超えるだろ。

 よしっ」

 ぱんっと太ももを叩いて気合を入れバンちゃんを発進させた。

 暗い道を慎重に走らせながら一本又峠にはなにやら謂れがあったなと、てっくんこと鉄井から聞いた話を思い出した。この町に伝わる都市伝説らしい。

 鉄井はその手の話が大好物で、ここに来たばかりの頃に何かネタはないかしつこく訊かれた。そういうものに興味がないことを告げると残念そうな顔をしたが、「じゃ、聞いて」と、得意げに地元の都市伝説を話しだした。それが一本又峠の怪だった。


 町が鬼志谷村と呼ばれていたはるか昔、流れ者が村に入り込んだ。

 よそ者を受け入れない村人たちが男を追い払い、村を出て行くまで監視していたのだが一本又峠で姿を見失ったという。峠を越えた様子もなく、村に戻ってもいない。峠には化け物が出るという噂があったので、みな男は喰われたのだと思った。

 だがその後、村の某が峠で男を見かけた。何となく不気味に感じ、距離が離れていることをいいことに黙ってその場を離れた。帰ってそのことを伝えると、村一の豪傑が自分たちの目をごまかして山に住み着いていると怒りだし、鉈をもって峠に向かった。

 だが、いつまでたっても帰ってこない。心配して探しに行った身内の者が峠の入り口でよだれを垂らしぼんやりしているのを発見した。何があったか問うと峠で見つけた男を呼び付けたらしい。

「あいつはえらい速さで走り寄ってきて、ほっかむりした顔を上げたんじゃ。その顔が、その顔がああああ――」

 そのまま発狂したという。


「――っていう都市伝なんだけど。

 だから、峠に誰かいても声をかけちゃいけない、気付かれないようにそっと逃げろって、今でも伝えられてるんだよ。

 この町では誰か精神病んだりすると、『峠で男の顔を見た』って言われる。狐憑きとかと同じなんだろうね」

 と、鉄井は締めくくった。

 ふん。どこにでもあるよな。そんな話。

 だんだんきつくなるカーブにうんざりしながら鼻を鳴らす。

 ヘッドライトに浮かぶ赤や黄色の紅葉が少なくなり、蔦の絡まる荒れた雑木林が徐々に広がってきた。


          4


 カーブはさっきから上りばかりでいっこうに下りにならない。

 とうとう街灯が一基もなくなり、真っ暗な山道はバンちゃんのヘッドライトだけが頼りになった。

「おいおいおい。先輩の地図間違ってないよな」

 地図には一本道しか描かれていなかった。実際にも脇道など見ていないし、本道からそれたという覚えもない。

 これで正しいのだ。

 そう思うことにしてしばらく走ったが、峠を抜けるどころかどんどん上がっていき、雑木林はますます深くなってくる。

 適度に配置されていた小さな案内標識も今は全く見かけなくなっていた。

 やっぱり自分の気づかないところで脇道に迷い込んだに違いない。

 充明は車を止めた。

「いったいどこでどうなったんだよ。もーっ」

 こんなところで嘆いても仕方がなく戻るしかないが、余裕でUターンできる広い場所もない。

 この先にあるとも限らず、ここでやろうと決心した。

 自信はないが慎重にやればきっとできる。

 充明はゆっくり車を操作し始めた。

 だが、真っ暗なうえにガードレールのない道での切り返しはやはり怖かった。何度も行ったり来たりを繰り返す。焦るばかりで方向転換できず、結局、側溝に脱輪させてしまった。

「うそだろっ」

 ばんっとハンドルを叩いてがくりと項垂れる。

 ちょっとぐらい遠回りでもいいから、峠越え以外の道教えて欲しかったよ――

 浜西の顔を思い浮かべ恨みに思った。

「もう帰りたい」

 連絡を取ろうにもスマホは圏外で使用できない。

「今時使えない場所なんてあんの? ここどんだけ山奥なんだよ。おかしいだろぉ」

 鼻をすすりながらダッシュボードを探り、小さな懐中電灯を取り出す。

 車から降りても電波の状況は変わらなかった。とりあえず光を当てて車を調べる。

「あーあ」

 左前輪が側溝にがっちりはまっていて一人ではどうにもできそうもない。

 車が通らないか数分待ってみたが、一台も来ることはなかった。

「寒っ」

 冷気がスーツにしみこんでくる。

 とんでもない道に迷い込んでしまったな。ずっとここにいたら凍死? 

「はは、まさか」

 ぞくりとした。

 通勤に使用しているオレンジ色のマウンテンパーカーを車から出して着る。ポケットに財布とスマホを入れ、バッグは置いたままキーをかけた。

 歩いて戻るつもりだった。

 車を放置して通行の邪魔にならないか心配したが、すぐにそれはないと気づく。懐中電灯に照らし出された道は枯葉で埋もれていた。頻繁に車が通らないということだ。

 誰か通りかかるまで待機しているべきかという迷いもあったが、これで吹っ切れた。

「おお寒っ――」

 フードを被り、充明は来た道を下り始めた。


          5


 ポケットからはみ出したクマが歩調に合わせぶらぶらと揺れる。

 やっぱ邪魔だな――

 だが、ただの編みぐるみでも今は共に歩く心の支えだった。

 もと来た道を引き返しているはずだった。間違えないように注意して歩いていたのだ、多少の上り下りはあっても基本下っていないとおかしい。なのに、いつの間にか道は上りばかりになっていた。

 何度かスマホを確認したがまだ電波は届かず、助けも呼べない。

 充明は自分が登山上級者のコースに迷い込んでしまったハイカーのように思えた。

「ここってそんなに高い山じゃないよな。何でこんなことになるんだろう」

 そう独り言ちたあと、急に都市伝説が頭に浮かんだ。

 うわ、こんなところでやな話思い出した。もし男を見かけたらどうしよう。って、そんなバカなことないか。いやわからん。あり得るかもしれない。

 だめだ、だめだ、こんなこと思っちゃだめだ。忘れた。もーう忘れた。

 そうそう課長や先輩、遅いんで心配してるかな。今頃飲んだり食ったりして僕のことなんか忘れてるんじゃないか? 

 暗い山中は感覚が狂うのか長時間歩いているようでまだ八時にもなっていなかったが、迷った道からいつ出られるのかもわからない。

「僕の歓迎会でしょぉ。助けに来てよぉ」

 突然、光の環が闇に吸い込まれた。

「な、なんだ?」

 懐中電灯をぐるりと回す。闇のまわりがレンガで囲まれていた。

「トンネル――」

 扁額には右側から『一本又峠隧道』と書かれていた。

「峠まで来た? ってことは、地図の道に戻ったってことなのか? じゃ、ここから隣町まで歩けばいいのか――って、どんだけかかるんだよ。

 うう、仕方ないっ。がんばろ」

 頬を叩き深呼吸すると暗い穴に踏み込んだ。


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 暗く湿ったトンネルは薄気味悪かったが、それほど長くはなく、上りから下りに変わると出口が見えた。半円の向こうがきらきらと光っている。

 それを見て出口に向かって走った。

 トンネルを抜けると宝石をちりばめたような光輝く町が左の眼下に広がっていた。

「よっしゃぁぁぁ」

 光を目印に坂道を下る。

 だが、町の光は木々に隠れてだんだんと見えなくなっていった。

 それでもこの道を下り続ければ地図に記された信号があるに違いない。

 そう信じ、雑木林に挟まれた道をひたすら下った。



 ところが再び山中に迷い込んでいた。

 アスファルトの車道を歩いていたはずなのに、今は樹海のような深い雑木林を彷徨っている。もう町の方向がどっちなのかさっぱりわからなかった。

「なんなんだよぉ――なんなんだよぉ――」

 折れた枝や根っこに足を取られ転びながらも懸命に歩いた。

 電池が切れ、懐中電灯の光が消えた。暗闇の中を一歩も進めずしゃがみ込む。スマホのライトを使いたいがバッテリーを消耗させたくなかった。

 あまりの寒さにフードの紐を締められるだけ締め、服の上から腕や腿を激しく擦った。両手に息を溜めて冷たくてもげそうな鼻も温める。

 暗闇に目が慣れてくると思いのほか周囲が見えることに気が付いた。ぼんやりとだが歩けないことはない。

 立ち上がった充明はゆっくりと歩を進めた。

「あっ」

 走行音が聞こえ、顔を上げる。

 少し先の木々の向こうからちらちらと光が近寄って来た。

 車だっ。あのあたりが車道なんだ。

 枝を散らし、枯れた倒木につまずきながらヘッドライトを目指して走った。

 間に合ってくれっ。

 車道に飛び出すと大きく両手を振った。

 目の前で車が停止する。

 急いで運転席側に近づくと、不審者に思われないよう笑みを浮かべて会釈し、

「すみません。道に迷った者ですが――」

 窓が開くのも待たずに息を弾ませて覗き込んだ。

 車内からドライバーがこちらを見つめている。その顔が浜西に似ていた。

「あれっ先輩? 探しに来てくれたんですかぁ」

 充明の目に涙が浮かんだ。

 やっぱり浜西さんはいい人だ。

 だが雰囲気が少し違う気がする。なんとなく老けているような――兄弟か親戚なのか?

 確かめるため窓に張り付いた。

 するとドライバーの顔がみるみる歪み、裂けるほど大きな口を開けて悲鳴を上げた。

「あ、やば。先輩じゃなかった――

 すみません。怪しいものじゃないです。道に迷ったんです。乗せてって下さい」

 懸命に訴え、ガラスを叩く。

 しかし車はいきなり発車すると、止める間もなく猛スピードで道を下っていった。

 充明は再び暗闇に取り残された。

「なんでだよぉ」

 肩を落としてふらふらと車のあとを追いかける。

 子供のように声を上げて泣きながら、そのまましばらく歩き続けた。

 気が付くとまたもや暗い雑木林に迷い込んでいた。


          7


 浜西が精神を患って入院してからひと月が経った。

 鉄井は不謹慎だと思いつつも心が弾むのを抑えられなかった。発病が峠を通ったあとだとわかったからだ。

「絶対、一本又峠の怪だよな」

 ふうちゃんと噂話をしていると、横を通った課長に頭を小突かれた。

「馬鹿なこと言うな」

「でも課長。きっと峠は関係してますよ。小林さんもあそこでいなくなったし」

「あのな、鉄井。小林は左遷させられた悩みから失踪したんだ。あいつがミスしたわけじゃなかったのに。

 本社で問題になってたろ。自分の失敗を部下に擦り付けたやつのこと。小林ももうちょっと我慢していれば本社に戻れたかもしれんのに――

 しかし、いなくなって何年経つんだ。五年か、六年か――」

「七年ですよ、課長。わたしのクマちゃん持ったまま」

 ふうちゃんがデスクに茶の入った湯呑を置く。

「そうか。もうそんなに経つか――」

 課長が深いため息をつき、茶をすすった。

 鉄井はいまだに失踪説を疑っていた。

 小林さんはバンちゃんを峠道の側溝に脱輪させてキーを持って姿を消した。アパートの荷物はそのままだったし、財布と携帯だけ持ってバッグを車内に置いていた。

 失踪にしてはおかしいと課長に何度も言ってみたが聞いてくれない。鉄井の説が都市伝説に由来しているので相手にされなかった。

 もう生きていない。はっきりと口に出さないが課長はそう思っている。

 だが、鉄井は自分の説を信じていた。

 ネットで飛び交う『一本又峠の男』の目撃情報。

 クマの人形をぶら下げたオレンジ色の男が雑木林の間に立っているという。

 小林さんは同じ色のパーカーを持っていた。人形はふうちゃんのだろう。

 きっと浜西さんは一本又峠の男になった小林さんの顔を見てしまったんだ。


          *


「いったいここはどこなんだ? 早く行かなきゃ、先輩たちきっと待ってる」

 充明は膝まで埋まる下草を踏み分け、ますます深くなる雑木林を歩き続けていた。

 立ち止まってスマホを確認する。相変わらず電波は入ってこない。

 時間の表示はさっきの車に逃げられてからまだ数分しか経っていなかった。

「あれからずいぶん歩いたけど――山の中はやっぱり不思議なもんだな」

 微かに走行音が聞こえ、顔を上げた。

 近づいてくるヘッドライトが木々の間から見え隠れしている。

「おーい。おーい」

 充明は大声を上げながら車に向かって走り出した。


                          了




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