第32話 執事さんの、お嫁さん
お祭りから帰宅した私たちを待っていたのは、なんと一番上のお兄さんであるジョルジュさんだった。
あれ? 確か国王夫妻と共に、国民に新年の挨拶をするために、広場に居たんじゃ……。
「本契約の署名を、見届ける必要があってね」
なんですと。
そんなに大事なのか執事の本契約!
後ろではアリーさんとジェラールさんが正装で控えている。
ジョルジュさんの合図で、ジェラールさんが革の表紙の書類ケースを持って一歩前に出ると、恭しく頁を開いた。
…………文面はフランス語なんで、一切分かりません。フランス語だと分かったのだって、あてずっぽうだ。英語と違って、アルファベットの上にチョンッとしたアレが乗ってたから、そうだと分かった程度。
それにしても、なんでフランス語なの! 相続に関する書類は、日本語だったのに!
「こちらにお嬢様が。こちらにセルジュ様がお書きになってください。それとお名前の横に捺印を――」
「は、ハンコ? 持ってきてないですけど……」
「こちらにございます。こんなこともあろうかと、お持ちいたしております」
アリーさんが印鑑ケースをすっと差し出した。
あ……それは確かに私のです。中学の卒業式の記念品でもらった物で、間違いありません。くそう。こんな場面で必要になるなら、ちゃんとしたハンコ作っとくんだった!
その間に、既にセルジュさんはサインも捺印も済ませてしまっていた。早っ!
「それにしても……これはふたりとも、サインするんですね。前は私だけがサインしたら良かったのに……」
「婚姻届だからね」
……ん?
その言葉に思わず、名前を書いてる途中でペンが止まる。
「今……何て言いました? ジョルジュさん……?」
「婚姻届だからね」
ジョルジュさんの言葉を遮るように、セルジュさんが先を促した。
「さ、お嬢さま。続きを書いてください」
「ちょ、ちょっと待ってください! 結婚? 執事の本契約じゃあ……?」
「でも、君達は既に婚約の贈り物も済ませたようだし……」
不思議なことを言いますね。一体いつですかそれは!
「この国では、男性は女性に永遠の愛を誓い、相手のイニシャルのブローチを贈るのです。特に、王族は自分の守護石の宝石をあしらった物を贈るのだ。自分の伴侶にも、守護石の加護があるようにとの願いを込めて。そして相手が自分の心臓の上にそれをつけることで、その想いを受け入れるという返事になる」
なんですと! これ私の誕生石って意味じゃなかったのか! それに……左胸にするのがこの国のルールって、私そう聞きましたけど……! だから、なんの疑問も持たずにつけたんですけど! なにが郷に入っては郷に従えだよ!
「対して女性は、男性の手綱を締めるという意味で、男性の首元を飾る物を贈るのだ。セルジュには既に贈ったのだろう?」
手綱? 首元? そんなの贈ってない……あ!!
ス ヌ ー ド !
私は思わずアリーさんを見た。するとアリーさんがすばやく目を逸らす。
そういうことか。そういうことか! だから指編みを勧めて、だから他の王族にはスヌードは駄目なのかー!! 道理で! 道理で! 道理でジェラールさんのも本人たっての希望で、ひざ掛けに変更になったのか! あの大量のスヌードとマフラー、どうしてくれる!
「あなたは、私に金のコインをくださった。そして私の願いを叶えるために、ご自分では銀のコインを持つと――先ほども話した通り、私の願いはただ一つ、あなたと共に生きたいということです。勿論、それは主従関係としてではありません。人生の伴侶として。この世でただひとり、心から愛する存在として、共にありたいのです」
セルジュさんの真剣な眼差しに、胸がきゅーーーんとした。
あ。やばい。泣きそう。そして流されそう。
すると、セルジュさんが私に近づき、手を取って……名前の続きを書いた。
エ?
「アリー、朱肉!」
「はいっ!」
ポン!
さっさとハンコを押された書類は、すぐにジェラールさんの手によって閉じられる。ジェラールさんはそのまますばやい動きで、またジョルジュさんの後ろに下がった。
「えええええ!? こういうのって本人がサインしなきゃ意味ないでしょ! ね? ジョルジュさん!」
「お嬢様はペンから手をお離しにはなっていないではありませんか。私はただ、手を添えただけでございます」
「――あー、なにかあったかね? 私はジェラールの背中で、よく見えなかったな」
嘘でしょ! ジョルジュさんの方が背が高いんだから、ジェラールさんで見えなかったとか、そんなのあり得ないでしょ!
「兄上、私たちはすぐにでも新居の準備に入ろうと思います。あの土地は妻も気に入ったようで……」
「そうかそうか。それは良かった。お前のことだ。既に建築士との話も進んでいるのだろう?」
「ええ。設計図もできております。あ、後でお見せしますね」
そう言って、ニッコリ笑うセルジュさん。ていうか妻って……妻って!! 照れる!
じゃなくて。土地って一体……? 設計図までできてるって、一体!?
「あの湖が一望できる高台、気に入ってくださったのでしょう? あそこは私も良いと思っていたのですよ。屋敷の大体のデザイン希望も既に、あなたからお聞きしておりましたし、すぐに取り掛かったのです」
「えっ? えっ?」
私の希望のデザインってなに! そんな会話、いくら記憶を遡っても、した覚えないんですけど!
あたふたする私をよそに、ジョルジュさんは書類を受け取ると、踵を返した。
この国では王侯貴族の結婚には、王族の許可が必要なのだという。そのために、わざわざ公務の合間に来てくれたらしい。そのジョルジュさんが、「そういえば」と、ドアの前で振り返った。
「クーデターの件だが……セルジュは、計画に利用された被害者、という調査結果が出た。今日は、セルジュの疑いが晴れた、記念すべき日でもある。みはるさん、改めて、兄としてお礼を言いたい。セルジュを救ってくれて、ありがとう」
「えっ……。いや、私はなにも……」
「大学時代のお前の行動について、疑わしいことはなかったと、そう証言したシモンにも感謝するんだな」
「セルジュさん……! 良かったね!」
嬉しくて、セルジュさんの手をぎゅっと握る。
これで、セルジュさんは本名を名乗れるんだ! 堂々と、この国を歩けるんだ。――隠れてなかったけどさ。
「あなたのおかげです。あなたに出会えて、私がどれほど救われたことか……」
「そんな……。シモンさんにも、お礼を言わなきゃですよ」
「勿論です。シモンにも感謝していますよ。私に代わって、Sも社長もしてくれるのですから」
「え? ――社長って、セルジュさんじゃなかったの?」
「私が……? まさか。私が社長をしたら、貴女と一緒にいる時間が減るではありませんか。シモンもちょうど暇なようでしたので、二つ返事で受けてくれましたよ」
にっこりほほ笑むその顔が、なんだか黒い気がするんですけど……!?
まさか。
まさか、この人って……それを見越して、Sの時、カラコンで紫の瞳にしてたんだろうか……。まさか……。まさか、ね?
「では、部屋に参りましょうか」
「え、あの……ねえ、セルジュさん?」
いつの間にか、アリーさんもジェラールさんも姿を消していた。
後はふたりでってこと? え? え? この流れでふたりきりは、いくらなんでも緊張するんですけど!
私の緊張が伝わったのか、部屋に入ると、セルジュさんは「お嫌でしたか?」と口にした。
その声は、また少し震えている。
強引に進めておきながら、今のセルジュさんは、少し不安そうな目をしている。
私は初めて会った時の、孤独なセルジュさんを思い出した。
今のセルジュさんは、あの時とは全然違う。
色んな人に聞いて分かった。本当のセルジュさんを知っているのは、私だけなんだって。笑顔も、ずるいところも、ちょっとズレてるところも、全てを捨てて私の世界に飛び込んでくれたところも。そういうの、皆は知らない。けど、これがセルジュさんだ。本当の、今のセルジュさんだ。
でも、ひとつだけ聞きたいことがあった。
……どうして、私なんだろう。
確かに私は、おばあちゃんからセルジュさんを、専属執事として相続した。けれど、そもそもおばあちゃんとの出会いだって偶然だったのだ。
あの日、あの時、デパートのあの場所にいなければ、出会わなかった。私とセルジュさんは、そんな細い細い縁で繋がったものなのだ。
セルジュさんは、なんでもできる。でも、私はそうじゃない。ひとりの女性として、とセルジュさんは言っていたけれど、本当に私でいいんだろうか。
「セルジュさんは、本当に私で、いいの?」
少し硬い声で聞く私に、セルジュさんは蕩けそうな笑顔を見せた。
「あなたが、いいんです」
「でも……あの、いつから?」
「あなたが、私の世界を広げた、あの日からです」
広げた? 私が? 私には、そんな力なんてありませんけど!?
不思議そうにしていると、セルジュさんが私の頬を両手で包んだ。
「言ったではありませんか。世界は広いのだと。国王だけが職業ではないのだと」
い、言ったけど、まさかのアレですか! 自分ではかなり、やっちゃった感あったんですけど!
「あなたの言葉通りでした。世界は広かった。世界は、明るかった。私は、自分の世界が、自分の考えがとても狭かったことを痛感しました。あなたはそれを、私に気づかせてくれた」
「私、そんな大したことしてないけど……」
「いいえ。あなたが連れ出してくださった世界で、私は自分が思っていた以上に、なにも知らないことに気づきました。何度も失敗しましたし、自分の世界がいかに特殊だったのかを知りました。でも、あなたはいつも全てを受け止めてくれたのです。それが、どんなに私にとって大きなことだったか、どんなに私を救ってくれたか、あなたは分からないでしょう」
確かに、セルジュさんは色々滅茶苦茶だった。
自転車は壊すし、家具は部屋の大きさに見合ってない物買おうとするし……。用意するホテルはスイートだし、新幹線にお弁当デリバリーなんて、聞いたことない。
呆れも驚きもしたけど、でも、私も楽しかったし……。
それを言うと、セルジュさんは顔をクシャリとさせて笑った。
「そんなあなただから、私はあなたと世界を共有したいのです。もう、私の世界に、あなたは不可欠なのですよ。――愛しているんです、心から……」
セルジュさんが泣いているのだと気が付いたのは、最後の言葉が震えた時だった。
あ、と思った時には、もう私の頬にぱたぱたと涙が落ちてきて、私は愛しさと切なさに、胸が締め付けられそうになった。
セルジュさんは、こんなにも私を想ってくれていたんだ……!
「あなたは、私のことをなにも知らないと言いましたね。私の涙を知るのは、あなただけです。私が心から笑顔になれるのは、あなたに対してだけです。私が愛しているのは、あなただけです。そして、今一番欲しいのは、あなたです。――あなたの愛を、私にくださいませんか?」
恥ずかしさと、嬉しさで、こっちまで泣きそうになる。でも、今はちゃんと、応えなくちゃ。私も、セルジュさんにちゃんと自分の言葉で返事をしなくちゃ。
「私も、愛してるよ。これからもよろしくね、……旦那さま」
言い終わる前に、ぎゅうっと強い力で抱きしめられる。
それに負けないくらい、私もめいっぱいセルジュさんを抱きしめた。
こうして私は、執事さんのお嫁さんになった。
そして、ただお姫様のような暮らしをするのは性に合わないと訴えた私に、セルジュさんはしっかりと仕事を用意してくれていた。
それは、大好きな針金細工。
まゆさんのお店は無くなったけれど、日本でルヴィエ王国の宝石を扱う宝石店で、ノベルティになるのだと言う。
これも、いつの間にかセルジュさんがお店に交渉してくれていたらしい。さすがに私の手作りでは制作が追い付かないので、私はデザインと見本作りをすることになった。
なにからなにまで、セルジュさんはお見通しだ。
ただ、後から見せられた高台のお屋敷完成予想図が、Mの形だったのには涙を流して笑ってしまった。
セルジュさん、東京のマンションがS字になっていることを指摘したの、覚えていたんだ。
そう言うと、セルジュさんはいつもの蕩けるような笑顔で、囁いた。
「当然でしょう? あなたの言葉は、すべて覚えております」
私の執事さんは、いつも完璧だ。
そして、私にだけ激甘な、旦那さまだ。
《完》
セレブな執事と庶民な主 雪夏 ミエル @Miel
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
スイーツトリップ/雪夏 ミエル
★4 エッセイ・ノンフィクション 連載中 12話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます