南霽雲

kanegon

南霽雲

 額の汗が落ち、鼻と髭を伝う。盛夏の長安郊外は著しく暑い。

「思った以上に過酷な役目だ」

 南八は呟く。

 一昨日雨が降った瓜畑は溽暑が更に厳しい。弓箭の腕前と腕っ節の強さを売り込み、広い瓜畑の雇われ見張りをしている。粗末な見張り小屋で夏の陽をしのぎつつ、たまに畑を巡回し異常が無いか確認している。

「折角雇ったんじゃ、しっかり番をせぇよ!」

 嗄れ声に振り返ると、雇い主の婆さんが七歳くらいの孫娘を連れて、見張り小屋の側に立っていた。

「お婆ちゃん、あたしあの模様のある瓜食べたい」

「ダメじゃ。御史中丞の楊様に献上する大切な瓜じゃ」

「じゃ川で水浴びしたい」

「川は増水してるから危険じゃ」

 嫌な思い出があるので、南八は暑くても川で水浴びをする気は起きない。

 二人が帰るのを見送っていたら、鴉が瓜をつつき始めた。南八は弓に矢を番え、射る。曙光よりも速く、矢は鴉を仕留めた。

 矢を抜いて回収し、死骸は畑の外に捨てる。早速、鴉の群れがかつての仲間を啄みに来た。




 夜になった。黒い空に薄白く雲漢が横たわる。

 南八は小屋の中で座り、蛙や虫の鳴き声を聞きながら、松明の下で弦を外し弓の手入れをしている。

 狐を防ぐために夜間も目は離せない。たまに巡回も必要だ。

 早速、暗闇に紛れた人影を発見する。

「こらーっ! 瓜泥棒は許さなぞ!」

 南八は松明を持って駆け寄る。

 貴妃の簪のように細い、金色の三日月の下で。

 盗人は南八の大声に驚き、顔を上げた。だが逃げなかった。

「その声はもしや、南八か?」

 接近して松明の光で盗人の顔を見て、南八は驚いた。声にも聞き覚えがあった。

「康五ではないか。生きていたのか」

 貧しい境遇にあった南八はかつて、雇われて船頭をしていた。康五はその時の船頭仲間だった。康一族における兄弟の順番が五番目なので康五と呼ばれていた。南八は八番目だ。

 ある年、大雨で黄河が増水した。舟を安全な場所に片付けようと二人で操作している最中に転覆した。暴れ河で二人は離れ離れになり、それっきりだった。

「康五、お主、盗みをやっているのか?」

「妻や子を養わなければならないからな」

「だからといって! 盗みなど、義に反すること甚だしい!」

「相変わらずお堅いな。お前確かもうすぐ四〇だけど、独身だろ? まあお前と闘っても勝てないし。退散するよ」

「妻や子を思うなら、今後は真っ当なことで稼げ」

「真っ当と言うが、南八、そっちはどうなんだ? この畑の婆さん、評判悪いぞ。用心棒代幾らか知らないが、ちゃんと払ってもらえるのか?」

 言葉に詰まる南八。

「達者でな南八。お互い助かった命だ。大切に生きようぜ」

 康五は去った。南八は追わない。




 小屋に戻り、座り込んで考える。

「確かにあの婆さん、心根が良いとは思えない。でも一度引き受けた役目を放り出すなど、義に反する」

 腕組みしたまま、しばし仮眠する。次に目を開いた時、窓の外で闇が動いた。

 小さい影だ。狐ではない。

 別の盗人が来たのか。

「あれは……婆さんの孫娘だな」

 夜中につまみ食いをしに来たのだろう。

 一個程度なら、「油断して狐に食われた」と言えばいいから、見過ごしてやろうか。南八は深く腰掛け直した。

 が、小さな人影は大きな袋の中に幾つも瓜を詰め込み始めた。

 慌てて南八は飛び出した。大量に盗まれては困る。松明を持つのも忘れて駆けつける。

「何をやってるんだ」

 童女は逃げなかった。

「お婆ちゃんが、見張りにお代を払わない、って言ってるの聞いちゃった。かわいそうだから、これをあげる」

 やはりあの老婆は踏み倒しを画策していたのだ。

「お代を貰えないのは困る。でも何故、大量に瓜をくれるのだ?」

「市場で売れば、見張りをしたお駄賃の代わりになるでしょ?」

 南八は笑い、袋の中を覗き込む。細い月明かりの下では、瓜は真っ黒な繭型だ。

 大量にもぎ取ってしまった以上、老婆に報告は必要だ。しかし事実を言うと、心優しい童女が怒られてしまう。ならば南八が盗みの罪を被れば、童女にお咎めは行かないのではないか。

「分かった。瓜は貰っていく。ありがとう」

 袋を担いだ南八は、弓矢を持って畑から立ち去った。他に荷物など無い。

「どうせ売れない瓜だけど」

 ある程度育った瓜には文字を刻んでいるのだ。最初の瓜には楊、次は御、史、中、丞、また楊に戻る。

 童女が遠目に模様と見ていたのは、盗難防止用の文字だ。市場で転売したら簡単に発覚する。

「こんな大量じゃ、食べ切れねえ」

 苦笑いし、一個かぶりつく。よく熟れていて甘かった。



 後年。安史の乱が勃発し唐を震撼させた。

 南八は政府軍に身を投じた。義に厚い人柄と騎射の実力を買われ、名将張巡の麾下で武将となる。唐朝を護るため奮戦し、義に殉じた。

 南八は、弓の名手南霽雲としてその名を新旧両唐書の忠義伝に残し、長く後世に伝えられることとなった。

 熱く駆け抜けた男が、今も正史の中に生きる。

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