瓶の王國

さちはら一紗

第1話

「腹切、と言いましたか」


 二十世紀の日本においてそろそろ非現実味を増してきた言葉を私はぼんやりと繰り返した。


 庭の木の葉も落ちきり、模糊とした色彩の冬が増してくる時分。祖父の死を知らせる電報が届いたのはそんな頃だ。

 風邪を拗らせた母を見舞うため、町で下宿をしていた私は大学を休み久々に故郷へと帰っていたのであった。

 私は末の息子であるからして、母はそれなりに歳を経ている。上の兄姉の子らを思えば、もう祖母といえる。

 だが病状を心配された当の本人は、私が訪ねた頃には風邪など初めから知らなかったとでもいうように、嬉々として馳走を用意する始末であった。喜ばしい拍子抜けである。


 話を始まりに戻そう。母はふとなんでもないように、ついこの間亡くなったばかりの祖父の死因を口にしたのだ。

 私の訝しげな鸚鵡返しに母は一度神妙に頷き、して慌てたように否定の首を振った。


「正しくは、腹を切ろうとした、のでしょうね。途中で怖気付きなすったのか介錯人などおられないことに気付きなすったのか。腹に薄く、真新しい切り傷があったようですが、結局お祖父様は首を吊ってお亡くなりになったそうですよ」


 祖父はあらかじめ自分の墓の用意をし、葬儀は要らないとの旨を書き遺し、全てを一人娘の母ではない誰かに頼んでいたらしい。その割に、まるで衝動的に腹を切ろうと思い立ったようでもあってなんとも要領を得ない。

 という母の言葉でさえ明瞭さに欠いており、親子の縁の薄さを思わせる。全て人伝なのだ。


「でも、やはり奇妙じゃあありませんか」


 私はしばらく聞き手に徹していたが、疑問がふつふつと浮かび上がってきた。

 切腹が時代錯誤気味とはいえ、未だ自死といえばいの一番に思い浮かぶ手段だろう。思いつくまでは珍しくないはずだ。

 しかし、大事な見逃しがある。祖父は異人であるのだ。この国に腰を落ち着けたものの武士道とは無縁の筈で、加えてその信仰は自死を肯んぜないものではなかっただろうか。

 母は少しばかり彫りの深い顔に皺を深めて、ほとほとと困り顔をしてみせた。


「おかしいということすら、下手をすればおかしくないのでしょうよ。そういう方であったと記憶しています。

 もっとも、子供の頃はお祖父様はお仕事に忙しくて家にいたことなんて滅多になく。ただでさえ口数が少ない上に、帰ってくるたびにこちらの言葉を忘れかけるようでもございましたからね。ここに嫁いでからは数えられるほどにしか顔も合わせていませんし」


 浅い溜息未満の呼吸をする。


「一体誰が、その御心を解せたというのでしょう」


 ぼんやりと靄の掛かった祖父の顔を思い起こす。

 白く、筋張り、落ち窪んで、寒々しい、石のような風貌。

 いっそ合理的なほどに精巧な不合理、そんな言葉を思いついたがおそらくはただの妄言だろう。敏い女性である筈の母が、当の娘が分からぬことが私にわかるべくもない。


「私などはてっきり、いつまでもいつまでもひっそりと生き続けるのでは、と思っていたのですが。ねえ……」


 世を厭い人を疎んで一人暮らしていた祖父の遺産はそのほとんどを寄付として手放すようしたためていたが、残りの幾らかは母の元へと相続される。その中には母が育ったのとは別に祖母の死後、祖父が構えた家があるという。


「僻地ですから身内には欲しがる人もいないでしょう。けれど遺品の整理はしなければなりませんからね。その家に行くには、おまえの下宿先が一番近い場所なのですよ」


 そして下見を頼まれた私は二つ返事でそれを引き受けた。

 この歳まで好きなように学問をさせてもらっている手前、その程度の雑事を引き受けるのは当然であると考えていたのもあるが、例え頼まれなくても自分から申し出ていたのだろう。

 何故だか、さしたる記憶も残っていない筈の『祖父』が私の頭の中でどっしりと腰を据えて立ち上がろうとしなかった。



 ◇



「そいつは何とも興味深い話だ」


 大学のある下町に戻ってきた私は早速、後悔を新調する羽目になった。

 私がその件について口を滑らしたのは同輩である数少ない友人の一人──おそらく周りからは最も親しいと目されているだろう男だ。

 髪を短く当代風に整えいつも糊の利いたシャツを身に着けている、役者のように整った顔ではないにしろお釣りが来るほどに人好きのする文句無しの好青年。はたしてこの男は私の友人なぞをやっていていいのだろうかと頻繁に思う。

 彼は軽快さと誠実さという一見矛盾しそうな性質を難なく両立させている。あらを探そうとすればするほど足を取られる、胸が焼け付きそうなほどに清浄な沼だ。


「遺品整理とやらおれも是非連れて行っておくれよ。力仕事は勿論、これでも美術骨董には明るいんだ。きっと役に立つぜ」


 紛れもなくそれは好意からだ。断るべくもない。残念ながら。


「……構わないよ。それで、何が狙いだい」


 せめてもの抵抗に彼の動機の下地にあるであろう野次馬じみた好奇心を揶揄しようと、声に棘を含ませながら僅かに笑む。


「ばれたか。そうだな、ちょいと稀覯書に巡り会う予感がしたもんだからおこぼれに預かりたいといったところだ」


 取り繕う様子なく、彼は白状する。

 かえって私がおのれの狭量さに首を絞められることとなった。



 ◇



 褪せた藁色の冬の田んぼをいくつか追い越して、地図を片手に閑散とした風景の中を通って行く。

 陸蒸気が通るような都会であれば、周りの騒音に耳を塞がれにいくことだってできたのだろうに。話し上手の連れは私を一秒たりとも飽きさせはせず、時間を有意義なものに変えてしまう。単純に学業の出来の善し悪しではない。その笑い方笑わせ方ひとつをとっても、結局私は彼ほど優秀な学生を知らないのだ。

 虚しいことだった。


 空は白んだ青色だが、雲はひとつもなく。雪が降るにはほど遠い天気ではあるものの、かえって寒々しさは勢いを増している。

 例の家は異物のようにぼつねんと景色の中に取り残されていた。

 けして館とはいえやしないが、疑洋風の様式で建てられた家は白々と、大きさの割にしっかりとした存在感を放っている。


「画廊として使えばさぞや雰囲気が出るだろうね」


 友人は一目見て満足げに頷いた。


「しかし祖父君はなんの仕事をされていたんだい」

「さあね。母もよく知らなかったそうだけれど、おそらく学者じゃあなかろうか」


 明言はされていなかったが、それほどに不仲であったのだろう。

 少なくとも、貿易商としてあちらこちらを飛び回っていたと考えるよりはよっぽどそれらしい。


 預かった鍵の束の中から目当てを探し出し、鍵穴に深く差し込む。がちゃりと重たい音が響いた。

 友人は戯れに鉛色のノッカーを叩き、無人の邸に訪問を知らせている。私は何も言わず、扉を引こうとしてその重みから押し扉であることに気付き前へと身体を倒した。


 明かりを点けた途端、しみ一つ無い壁が浮かび上がるように目に入ってくる。何故だかとても息苦しい。


「お先にどうぞ」


 友人を先行させる。私の様子に引っかかりを覚えたようだが、なんでもないとかぶりを振ればそれまでだった。

 靴を脱ぐことなく固い床を踏みしめて、一階の部屋から順に見て回る。

 大きくはないが決して狭い家ではない。

 しばらく無人にしていたため、どこもかしこも薄っすらと埃が降りているが、それはまるで祖父が亡くなる直前までは塵一つなかったとでも言うようだ。薄暗い部屋の角の棚周りでさえ、未だ蜘蛛の巣を見ていない。

 病的なほどの几帳面か。そう考え至って、思い直す。家政婦が、とてもまめなたちだったのだろう。


 広間、例えばそれなりに値の張りそうな絵画が飾られており。客間、調度品ひとつひとつに細やかさが見受けられる。だが、果たしてこれらの部屋は使われたことが幾度あったのだろうか。

 一変、書斎はまるで実用性の塊で、いもしない誰かに対する気遣いなど見ても取れない。整頓された裏の乱雑さは、誰かに向けるものではない。ほっ、と息をつける部屋だった。

 そして何もない空っぽの部屋が数室。まるで建てられた時のそのままの状態で放り置かれていた。


 新たに見つけた書架に目を輝かせた友人を置いて、私は一人、二階へと向かっていた。

 淀んだ空気に参ってしまっていたのだ。

 どれほど生活感のない家だとしても、ここに人間が生きていたという痕跡は十分に残されていた。

 無許可で空き家を物色しているようで、あまり気分の良いものではなかった。

 全くあの友人は太い神経をしている。だが、例え一晩私の目なしでここにいたとしても、匙の一本も盗みやしないだろう。そういう男なのだ。

 階段側の手摺にもたれ、わざとらしく音を立てながら息を吐く。ああ、またやってしまったと思うものの吐いた息は戻せない。

 一階分上の視界から、固く締まったままの玄関の扉を睨みつける。


 ふと私は目的を思い出した。下見であるのだから、報告が必要なのだった。しかし一体何を伝えろというのだろう。

 記憶は早くもぼんやりと滲み始めていた。

 そもそも私はどうして自ずから、この場所に行こうと思ったのだったか。

 益体もないことを考え始めようとしている自分に気がついて、手摺から離れる。

 大きな窓を探そう。窓から覗く景色がいかにそぐわないものであろうと、高くなれば少しは気分が良くもなろう。


 何気なく角部屋のほうまで歩いて行って、扉を開く。

 分厚いカーテンの締め切った部屋は昼間だというのに暗い。まさか、雨戸まで締めてあるのではないだろうか。

 所狭しと並べられた棚のせいで、他の部屋とそう変わらない広さのはずなのに妙な圧迫感があった。

 灯りを付ける気にもならなかった。太陽の光が欲しかった。

 ドアを開け放って、廊下から入る光を頼りに窓のもとへ。

 やはり締めてあった重い雨戸をのろのろと動かしきり、一息をついた。

 しかし、はて。この部屋はなんだったのだろうか、と。私は目当てであったはずの光や景色、空気までも放って、後ろを振り返る。

 光を満足に手に入れたその部屋には。

 全ての棚、余すことなく。


 ガラス瓶が、おびただしく並べられていた。


 暗い青や重たい茶の薬品瓶。すらりとしたワインやどこか威厳のあるウィスキーの酒瓶。厨房に並んでいた方がよっぽど似合うだろう大きな蓋の瓶の数々に時たま混じる調味料らしき瓶。ラベルが剥がされたもの、剥がれかけたもの、そのままのもの。丸いのも四角いのも大きいのも小さいのも。色に見境もなく用途もばらばらに、整頓などちっともされていはしない。

 それらが久々の光を浴びてゆらゆらと瞬くようだった。

 いずれも、生前何かをその身に込めていたものたちだ。

 彼らの死後が棚の中に並べられている。

 彼らが、この部屋の主人だった。

 陽を浴びているにも関わらず、その不吉な透明を通した光は月明かりに変換されてしまうようだった。


 肩がぎしりと鈍い動きをした。衣擦れの音さえこの静謐にはうるさい。

 今までの部屋はすべて、模範的だった。広間らしい広間に書斎らしい書斎。空き部屋も、空き部屋であることに忠実だった。故にこの空間は紛れも無い異様。規範から外れた収集と執着。

 祖父が死んだのはこの部屋だと、だからそう確信した。確信した後で、私は絨毯に残る血痕に気がついた。

 しかし私は汗ひとつかいていない。脈拍も、おそらくは正常。私はいたって冷静であった。私は落ち着きながら、現実の輪郭を見失っていた。


 自ずから棚の合間に迷い込み、ひとつ大きな瓶を手に取った。

 ガラス栓をそっと抜く。真青の瓶底をじっと眺めては、嗅いでみたり、なんてした。

 すえたような薬品臭さが繰り返された水洗いの奥、わずかに留まっていた。

 空の瓶に詰め込まれていたのは虚空に近く、非なるものだった。


 熱に浮かされるように、頭が回り始める。

 まるでそれらが、今まで探していたそのものであるような錯覚に襲われる。

 この酷く不合理な部屋が、何かに整合してしまうような気がしてならなかった。

 がらくたの形をした理屈が私の目に映り始めていた。


 唐突に私は閃く。

 祖父は、恐れをなして死んだのだ。

 見つかる当てもない大事な何かを探し続けて、窒息してしまうのを、自分ではない何かに殺されるのを恐れたのだ。

 さながら瓶に詰められた小人のように。

 死人に口がないのをいいことに、私は無粋な捏造を押し進める。酔わされていたのだろう。

 誰にも理解されず、誰をも理解せず。果てはこんな青二才の慰めの種となっている。

 私は無性に悲しくなった。無価値と評されるだろうこの部屋のなにもかもが悲しかった。

 真実はさだかではないが、きっと祖父は最期、どうして死にたくなったのかもおのれでは分かっていなかったのだろう。そうでなければ、もう少し理屈にあった死に方をしたのではないか。今際に迷いを得てしまうほどに、おのれの理屈を見失っていたのではないか。


 所詮はとりとめもないことだと知りながら、私は思考をなすがままに任せていた。

 間違いでもいい。何か意味を見いださなければ、私が救われなくなってしまいそうだった。


 よろめくように後退し、机に手を置き体勢を支えた。

 がちゃがちゃと机の上の瓶が音を立てる。

 ふと、そのひとつが私の目にとまった。

 立方体に近い、小さな瓶。その鉄の蓋は他と違い、錆の浮いた薄汚いものだった。

 だがとりたてて目を引いたのはそこではない。中が空っぽではなかったのだ。恐らくはそれだけが。

 赤く透明な玉が瓶底の端に転がされていた。

 私はそっと持ち上げてみる。

 ガラス玉かと思ったそれは、どうやら飴玉であるようだった。

 食紅の色は濃紺を疎らに浮かべている。溶けかかったままなのか、うまく転がされてはくれなかった。

 これといって面白みもなく、私はそれを元の場所に戻した。

 大方、捨てる頃合いを見失ってなんとなく放って置かれたのだろう。

 こうしていつまでも一人、気の滅入る部屋でじっとしているのは間違いもなく精神によろしくない。


 理屈を失った部屋だ。

 不合理を詰め込んだ部屋だ。

 空っぽになった男の墓だ。


 肩はずっしりと重たいまま出口のほうに踏み出して、はた、と私は気が付いた。

 何か見えない規則に縛られているようなこの家に『なんとなく』が存在していたとするのならば。

 整えることこそが理由の要らぬものではないのだろうか。


 錆びた蓋を見る。

 食べさしだっただろう飴の瓶を眺める。

 その『なんとなく』の先にあるのは必然的な『何故』であろう。


 気道がいたようだった。


 なんでもいいのだ。

 何か、それなりに筋の通った、わかりやすい論理があればいい。

 例えば妻に貰ったものを捨てられずにいただとか、もう作られていない飴の色を気に入ってしまっただとか。

 陳腐であればあるほどいい。

 そうであったなら、私の考えが全て間違いになるかもしれないのだから。


 あの砂糖の塊に、まったくどれだけの理由に辿り着く道が残されていたというのだ。

 考えるほどに増える。増えるほどの余地がある。

 何もかもを失っていたわけではなかったとでも言うのか。


 結局のところ、私は祖父の孤独を知り得ない。彼の孤独を保証するものがない。

 私は勝手に己と重ね、鬱屈としただけなのだ。私の捏造した祖父の死因は、きっと私の死因なのだろう。

 愉快だった。

 飴玉ひとつ捨てられない人間が真正の孤独にあることはない。

 私だけがそう吟味し、私だけが結論付ける。




「なんだこんなところにいたのか」


 友人が、私を見つけた。

 明瞭で的確で揺るぎなく。

 彼の言葉は現実だった。


「おい、きみ。どうかしたか」


 心配そうに覗き込む彼に、私は薄く笑ってみせる。

 理屈に合わない満足感が私の胸を占めていた。


「なんでもないさ」


 ここにあるのはがらくただ。

 誰にも必要のない何もかもだ。

 私は機嫌良く部屋を出る。

 ああまったく、馬鹿げている。

 飴玉ひとつ分の価値を思う。


 ──きっと彼には、わかるまい。


 音もなく、そうわらった。

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瓶の王國 さちはら一紗 @sachihara

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