江戸町民の幸福度

駅員3

『清掃』の歴史

 色々なものがきちっと整理整頓されている、そして清掃が行き届いていることが、仕事をする上でも、自宅でくつろぐ上でも、何をする上でも基本となる。「幸福感を得るにも、まずは整理整頓、清掃から。」とは言い過ぎだろうか?


 人類が『文明』を手にした瞬間から 『ゴミ』問題が発生した。 一説によると平城京がわずか84年で幕を閉じて平安遷都したのは、都市の中で処理しきれなくなったゴミ問題が一因であるとも言われている。

 日本におけるゴミ処理の歴史は古く、平安時代には既に掃除に携わる官職が設けられていた。掃部寮(かもんのりょう)といい、宮中の掃除や調度の設営などを担当していたようだ。

 また、平安時代に書かれた延喜式(律令(法律)の施行細則のようなもの)を紐解くと、なんと36箇所に『清掃』という言葉が出てくる。

 そのなかで代表的なものは、「役所や屋敷の前の道の清掃は、自分たちでやりなさい」と言っている。また、「樋を設けて、通水しなさい。汚物を露出させてはいけない。」などの規定も設けられている。なんと罰則も設けられていて、このような決まりを守らない平民は、鞭打ち50回の刑罰が待ち受けていたとか。

 さらに驚くなかれ、平安時代の貴族の屋敷の厠(トイレ)は、水洗式だった。・・・といっても紐を引いて水を流すようなものではなく、屋敷に引き込んだ水路により、常時水を流して、汚物を流していた。 汲み取りの厠が発明されるのは、時代は下り鎌倉時代になってからのことだ。 (トイレのウンチクを語るのも面白いかもしれないが、またそれは稿を改めて。)


 さらに道や庭園、公共施設を清掃する『清掃丁』と呼ばれる人を、一日米二升で定数36人を雇うということまで、延喜式で決められている。米一升を1.5kg、一月の実働を25日とすると、米37.5kg/月となる。米の価値が現代の価値と変わらないとすると、これだけで生計をたてていたとすると、物価はかなり安かったのだろうか。


 『江戸時代は、先進のリサイクル社会だった』とい言われているが、その江戸時代においてさえ、幕府は『芥改役(あくたあらためやく)』を配置して、ゴミ処理にあたらせている。その裏側にはゴミの不法投棄が後を絶たず、町を綺麗に保つために苦労している事実があった。1655年(明暦元年)になると、幕府は不法投棄を厳しく取り締まるとともに、深川永代浦をゴミ捨て場に指定する。それ以降、江戸時代だけで延125ha(125万㎡・・・東京ドーム27個分)の広さが埋め立てられた。


 中世において、江戸の町は人口100万人を越える世界の中でも有数の大都市だった。

そして、なんとその世界最大規模の都市が、世界一清潔な都市でもあった。

 江戸時代のロンドンやパリでは汚物は道路に投げ捨てられ、それを掃き寄せて川に流していた。街を歩くといたるところ汚物だらけで、テームズ川やセーヌ川は猛烈な異臭を放つどぶ川でったという。

 かたや江戸の町を流れる大川(現在の隅田川)は、明治の初め頃までは大川に浮かぶ屋形船は、川の水を汲んでお湯を沸かしてお茶を淹れ、料理を作っていたくらい水は澄んでいた。

 また江戸の町人は、湯屋(銭湯)に入り、よく洗濯されたこぎれいな着物を身につけ、こざっぱりとした出で立ちだった。日本人は風呂好きといわれるが、風呂好きになったのは、江戸時代に銭湯が発達した結果とも言われている。

 幕末にアメリカから来日したハリス(日本総領事)は、「日本人は、よく肥えていて身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も見当たらない。」と日記に書き記している。

 こんな江戸の町人に、幸福度のアンケートをとったら、意外と高かったのではないだろうか。

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