使える時、八本。 ~変える時は、木とす~ その答えすら変えて
十二月三十一日。
誰もがカウントダウンを待ちわびるこの夜に、神社の境内にいるのは至極一般的なシチュエーションだ。
夏祭りと年末年始くらいしか足を運ばないとは言え、地元の神様が
そして、しきたりだの礼節だのを少々気にしてしまう。
だが、鳥居は神様の通り道だから
せめて心を静め、誰かを責めるなど無く、心健やかに過ごすべきだ。
「……なんだってお前はそう……」
「やっちまったか。この大事な日に」
「今までもずっと?」
「今年からルールが変わったと美優に言われてな。おかしいとは思ったのだが、これを着ないと一緒に歩く相手に失礼だとまで言われて……、つい」
「あのお騒がせ女め。……しょうがない、これでも羽織っとけ」
「それではお前が寒かろう?」
「口調をもっと柔らかくしてくれたらホットな気分になるから平気」
「う……、うん。じゃあ、貸して?」
魔族は、暑さ寒さに強いらしい。
そうは言ってもこの寒空だ。
俺は気合を入れてからベンチコートを脱いで、なるべく十河に触れないように羽織らせてあげた。
いつもの感電が怖かったわけじゃない。
ほんとは寒くて震えているなんて気付かれたら、かっこ悪いじゃないか。
そして正面に回ってファスナーを上げようとした時、いつもは真珠のように輝いた白さを誇る十河の足が、赤くなっていることに気付いた。
俺の為にこんな格好で来てくれたんだ。
せめてこれを言ってあげねば。
「浴衣姿、似合ってるよ。可愛い」
「あ、ありがと。……そう言ってもらえると、報われる」
「いつもミニスカートだから、新鮮」
これ以上は寒かろう。俺が手早くファスナーを一番上まで引き上げると、十河の顔が鼻まで隠れてしまった。
「……えへへ」
笑う糸目だけしか見えないのに、彼女の表情が手に取るようにわかる。
さあ、後は頑張れ俺の内燃機関。
「このコート、いいな。これならパンツも絶対ガードだ」
「俺がそんなものを期待しているとでも?」
「いつも期待してるくせに」
「まさか、俺の気持ちに応えようと毎日パンツをみせてくれてててててて! 電気! 強にすんな! 弱な。弱、維持」
「ふん! でも、今日だけは決して見られることは無いのだ」
「俺はお前のドジっ子を信じているがな」
「だから見ようがないと。だって和装だぞ? ……おい七色、俯いてどうした! しっかりするのだ!」
ああ、十河はまだ、興奮すると堅苦しい言葉に戻っちゃうのか。
そして俺は興奮すると、こうなっちゃうのか。
「大丈夫。ちょっと吐血」
「と……っ!? 大丈夫なわけあるか! すぐに病院…………なんだ脅かすな。鼻からの吐血だったか」
「お前がエロいこと言うからだ」
「血液がピンク色をしているお前の自業自得だ。いま想像したものは全部消せ」
「転生するまで無理。てか、できれば消したくない」
「では、神か上級天使か悪魔王になるんだな」
俺が十河に着せたコートのポケットからティッシュを取り出すと、それを取り上げられて鼻の下を拭かれた。
ああ、恋人っぽい。なんか、凄くしあわいだだだだだだっ!
「ねえ、姫様。ご褒美と罰は別々でお願いします。飴を口に含んで鞭で叩かれたら、口から飛び出しちゃうでしょ?」
罰しか残らん。
「うるさいだまれ。拭きにくい」
「……あと、口調が戻ってる」
「うるさいだまれ」
多分、もう拭き終わっているだろうに、十河は俺の唇あたりにティッシュを当てたまま動こうとしなかった。
でもこれが罰である以上、逃げたらいけない。それが男の宿命。
俺のことを見つめる十河の瞳が真剣で、怖くて逃げられないわけじゃないぞ。
……ん? 宿命、か。
十河は転生しても、記憶と罰を引き継いでしまう宿命だったな。
つまりこのビリビリ体質が治ることは無い。
一生。すなわち、永遠に。
どうにかこれを消す術は無いのだろうか。
俺は、未だに口を押えたままの十河を見つめながら、人間の手ではできもしない手段をあれこれと考え続けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
神社から少し山道を踏み分けると、ちょっとした展望が楽しめるテーブルが備えてあった。
地元の皆には有名なスポットなのに、貸し切りなんてラッキー。
あとはこのテーブルを燃やして焚火でもしていてくれたなら助かったのだが。
……いいかげん、風邪ひきそう。
十河は俺の隣に腰かけて、真っ暗な田園風景の中にぽつぽつと灯る人のぬくもりを見て目を細めていた。
「さっき買ったおみくじ、開いてみたら?」
「何を言っている。これは年が明けたら見るの……よ」
「今日は十分頑張ったから、気楽に堅苦しく話せ」
「ややこしいな。だが、そうさせてもらおうかな」
そう言いながらも、彼女は緊張に顔をこわばらせたままでいた。
何か気軽な話題でも振ればいつもの調子に戻るかな?
「……悪魔がおみくじって、なんかミスマッチ」
「おかしいか?」
「そもそも、ここに神様いるのか?」
「わからん」
「は?」
いつもオール・オア・ナッシングで答える十河から意外な返事をされたので、まぬけな声を出してしまった。
だが彼女は気にする様子も無く、クールな横顔を寂しい街あかりに向けたまま語り始める。
「精霊の一種のような形で存在し、力を持っているかもしれん。つまり、我々が良く知っている神とは違う概念でここに存在している可能性はある」
「お……、おお。そうなんだ」
なんてアカデミック。でも、だったらちょっと待てよ。
神様いない確率の方が断然上だよね?
「それじゃ、こうやってお参りするのも無駄な事かもしれないよね」
「無駄? なんて罰当たりなんだお前は」
十河はぴしゃりと言い放つと、俺の目を静かに見据えて言葉を続ける。
「この土地が平穏であるのは、この地の先祖たちが努力してくれたおかげだ。そして彼らが苦しい時、辛い時、泥水をすすってでも生きながらえてくれたのは、この地に
そうか。
いつか楽になる、幸せになると信じて頑張るための
つまりここに祀られた神は、本当の意味でこの地を守ってきたんだ。
「今の平和を楽しむ我らが、偉大な先人の信じて来たものに
「ありがとう、いい話を聞けた。まさか悪魔の王様からこんな話を聞くことになるとは思わなかったけど」
「人間からの受け売りだ。彼らの想いがあたしの想いになり、そして七色の想いとなっていく。出典など意味のないことだと思わんか?」
「まったくだ」
俺が笑顔を浮かべて十河を見ると、彼女も柔らかく微笑んでくれた。
でも、いつもは目をまっすぐに見つめてくる黒い瞳が、俺の口元を見ているような気がする。
鼻血がまだ付いてるのかな?
ちょっと唇を舐めてみたけど、血の味はしなかった。
代わりに、十河が慌てて目を逸らしたんだけど。
「なんか付いてる?」
「な、何のことだ?」
「だって、鼻の下の辺りを見てたから」
「う、うるさい」
十河はコートの襟に顔をうずめながら、やたらと優しいビンタを放った。
でもその手は、俺の頬に当たったまま離れようとしない。
そして彼女はもう一方の手で、コートを引き下げた。
今日の彼女は、どこかおかしい。
よそよそしくて、何かを言いたげで。
……
寒さから震えているとするのなら、その寒さは外気のせいか、心の温度なのか。
そして潤んだ瞳が俺を見つめたかと思うと、それをギュッと閉じて……、
顎を、上げた。
俺の目は、桃色に輝く唇に釘付けになった。
その唇が、視界いっぱいに広がって他の事を考えられなくなる。
カラカラに干上がった喉が在りもしない唾を飲み込むと、俺は後頭部を鈍器で殴られて、十河の胸に顔をうずめだだだだだだだだだだ!
「いって! 飛び膝蹴りって
「やあ、今宵は良い月だね、七色君」
この声の主、確認するまでもない。
十河と並び立つ魔界の王、
しかしなんたるタイミング。いいところを邪魔しておいてこの騒ぎ。
……十河、恥ずかしがったりしてないかな。
俺は椅子に座ったまま、なんとなく彼女を守るように背中に隠して二人と向き合ったのだが、
「……やっぱバカなんだな、お前ら」
二人してガクガク震えてるけど、浴衣じゃ当然だよ?
しかも八雲さんのミニ浴衣は何? 紫のパンツが丸見えなんだけど。
「せっかくこんな場所なんだし、神様にお祈りでもしなさいよ。ベンチコートを二個下さいって」
「お祈りぃ? いやまいったね! 美優がお祈りとか勘弁シロナカスクジラ! 誰だよ中須! うけるっ! お前か七色? そうか、長瀬が中須だったのか! 美優バカじゃねえの!? バカだから何言ってるのかまるで分かんねえ! へっくしょっ!」
「そもそも、神なんかここにはいね……っくしょ!」
神様はいないのか。なんかちょっと残念。
「いや。いるぞ」
俺の心を読んだのか、九谷さんが、木々の茂る方へ顔を向けながら呟いた。
「え? いるの?」
「いるの?」
「いるの?」
「タヌキが」
頭が痛い。この二人といると、脳がもたれる。
「十河、俺らが席を外そうか。カウントダウンまではまだあるけど、境内に戻っていないか?」
「いや、彼らはあたしが呼んだのだ」
意外な返事と共に、十河がベンチから立ち上がる。
「お前たち、準備はできたのか?」
「じゃなきゃ美優たちこねーっての!」
「沙甜は……もうしばらくかかりそうだな。先に行くぞ」
「どこかに行くの?」
「……ああ」
十河は目を伏せたまま、ベンチに腰を下ろした。
なんだろう、随分暗い雰囲気だけど。
「じゃ、戻ってきたら連絡してくれ」
「もちろんだ。真っ先にお前に会いに行く」
「ん? 何日も出かけるような言い方だな」
「まあ……、一年はかからんさ」
「いちっ!? ど、どこ行くの?」
立ち上がった俺の横を、二人の王が過ぎていく。
だが十河の言葉から受けた驚きなど、まだ序章でしかなかったのだ。
俺は視界の端に捉えたものを見て、あまりの衝撃に腰を抜かしてしまった。
「目……、二人の目が……」
彼らは展望台の手すりに近づくと、そこを当たり前のようにジャンプして飛び降りていった。
下は切り立った崖だ。普通の人間ならひとたまりもない。
……そう、普通の人間なら。
俺は慌てて十河に振り向いた。
助けて欲しい。説明して欲しい。
そんな思いで彼女を見つめた。
…………その時の彼女の顔を、俺は一生忘れない。
「行き先は、天上界」
いつものクールな顔に、微笑が張り付く。
風に揺れる黒髪を、手で掻き上げる。
……そんな彼女の、瞳が赤い。
悪魔がその力を行使する時に開く真の瞳。
その名は、魔眼。
「天上界……、な、なにをしに?」
「戦争だ」
切れ長の目に赤い瞳。
これが、『悪魔王サタン』の、真の姿だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「驚かせたか。普通は、何かの拍子に封印された記憶がよみがえると魔眼が開くのだがな、あたしたちはもともと記憶があるから、いつでもこれを開くことが出来る。魔眼を開いた王は、無敵なのだぞ?」
驚く? そんな言葉で事足りるような感情を抱いているとでも思っているのか?
俺は赤い目をした悪魔に、すがりながら訪ねた。
「ここは……、どうなるの?」
「何も変わらんさ。魔界共々、あたしたちの腹心、六大精霊にすべて任せてある。あいつら抜きでは戦力が下がるが、三王が率いる百万の軍勢だ。負けは無い」
「俺は? 俺と付き合うって、昨日言ってくれたよな?」
「だから行くのだ。神に会って、恋愛感情というものを聞き出してくる。あと、人間との恋愛など却下されるに決まっているからな、許可証に強引にサインを書かせて、己から流れる血で
神をも
考え方や価値観なんて生易しい物じゃない。
種族の違い、立場の違い、身分の違い。
圧倒的な壁が俺の前に築き上げられた。
俺の為に戦争? そんな馬鹿な。
もし本当にそうだと言うのなら、俺が言えば
「せ……、戦争なんて、やめて欲しい」
「そうはいかん。既に先鋒隊が天使界の門を破壊した。ここで引いたら意味がない」
俺は、思考と共に体中が冷たく固まっていくのを感じていた。
……こいつのそばに近付くことなんか、許されるはずは無かったんだ。
小さなすっぽんが近付けば、その巨大さに視界が全て奪われて、月の形をいつしか見失ってしまうのだ。
「しばらく会えなくなるというのに、そんな顔をして欲しくないのだが」
もう、俺の知っている十河はいない。
「あの……、七色?」
ここにいるのは、悪魔王、サタン。
「そ、そうだ。謎は無いのか? あと少しだけ、時間があるから……」
……返事も出来ない。
仲良くなる前と同じだ。
絶対に届かない月ならば、遠くから眺めていよう。
そう決めたあの時に、俺の心は引きずり降ろされた。
すぐ隣で、力なくファスナーを降ろす音が聞こえる。
コートを返そうと、脱いでいるのか。
「お? これは、お前のルーズリーフではないか。……一問くらい、完成品があるだろう。開くぞ」
丸めたルーズリーフの表紙を捲ると、そこにはあの時の紙が今でも挟んである。
冊子からシャーペンを外して芯を出す音と共に、その紙に気付く声が聞こえた。
「これは……、懐かしいな。文化祭の夜に見たものではないか。あの時は見当もつかなかったが、今なら解けるかもしれんな。そ、その……、これ、解いてもいいか?」
「……そうだね。今の俺の気持ち、そのままが書いてある」
「そうなのか! ……じゃあ、解いてみようかな!」
ぎこちない返事。まだ、恋人ごっこを続けてくれると言うのか。
彼女が羽ばたく
ルーズリーフの表紙の上に広げられた紙を、シャーペンが走って行く。
それが解けた時、俺はきっと、十河沙甜という女性のことを忘れるのだろう。
だから、赤い目をした悪魔よ。どうか、七色という男のことは忘れて、戦争なんか止めてはくれまいか。
暗号とヒントを、全部ひらがなに変えた。「かえるときは」を、丸で囲った。
……そう、それが正解だ。
すっぽんは、どれだけ手を伸ばしても届かない。
あなたはやはり、俺にとって月だったんだ。
「もう、分かったか。……分かったら、せめて今からでも戦争をやめてくれ」
俺の言葉は、もう届かないのか。
赤い目をした悪魔は震える手で、さらにペンを走らせていた。
もう読めているはずだ。一体、何をやっているんだ?
その不思議な行動は、どこかで見た覚えのあるものだった。
いつも隣で、真剣なまなざしを浮かべて暗号を解いていた人がいた。
いつも隣で、解けた暗号に満足そうな笑みを向ける人がいた。
そして、いつも隣で聞いていた、俺の胸を締め付ける音が耳に届いた。
これは……、十河のすすり泣きだ。
彼女は泣きながら、暗号へ必死に書き込みを入れていく。
答えなんて一つしかないのに、それを認めようとせずに。
ぼたぼたと流す涙で、紙が濡れる。濡れた辺りをシャープペンが走り、彼女の心境のように、ずたずたに破れていく。
……そこには、俺が良く知っている泣き虫な女の子がいた。
赤い目をしただけの、十河がいた。
「ちゃんと……、七色と、付き合うんだ……。神に、愛情はどういうものか教わってきて、七色と付き合う許可を貰って来るんだ! あたしの罰! ……消して貰って来るんだ!!!」
「もう……読まないでくれ。せめて、最後にお前を傷つけたく無い」
十河を強く抱きしめると、その指からシャーペンがことりと落ちた。
そして赤い瞳が、ゆっくりと俺に向けられる。
涙をとめどなく流したルビーのような目が、大きく見開いて俺を見つめていた。
「あたし……、あたしは……………………、あたしはぁ!」
「十河! 聞いてくれ。……俺がこうしてお前を抱きしめることが出来るのは、ただの幻だ。人間が、月を抱きしめることなんかできやしないんだ」
「あたしは……、月か? お前にとっての、月でしかないと言うのか……」
俺の魂を握り潰さんばかりに強くしがみついていた彼女の両腕が、衣擦れと共に下がって行った。
赤い瞳は、もう俺を見ていない。
虚空を捉えて、ただただ涙を流す。
「そうだ。十河は月だった。……もともと俺は、月を遠くから見上げるだけのすっぽんだったんだ」
「七色は……。そうか、すっぽんだったのか………。すっぽん……、か……」
戻って行く。
十河が、無感動な彫刻に。
暗号に立ち向かう時にしか見せてくれなくなった、氷の表情に。
「それなのに、奇跡が起きた。……まさか、月が俺なんかに近付いてくれるなんて。今日まで…………、本当に奇跡のような毎日だった。本当に、幸せだった」
「月が……、近付いて……?」
「そうだ。…………ありがとう。今まで本当にありがとう、十河」
「七色……、それが……」
そう、これが俺の最期の言葉だ。
ようやく俺の目を見つめてくれた赤い瞳。
後は彼女から最期の言葉を貰って、そして俺達は………………………。
「それが……、正解だ」
十河は、かつて俺が彼女を救った言葉と共に、俺の背中に手を回した。
その手が首を伝い、後ろ髪を優しく撫でていく。
……そして、彼女は息がかかるほどに顔を寄せた。
……なんだ?
なんで近付くんだ?
まさか、俺のことを殺そうと……。
「あたしは、読めたぞ。三か所、変えるんだ」
暗号の事か?
ああ、聞こう。というか、他に選択肢が無い。
「一つ目。「かえるとき」を「き」にするんだ。だから、句点の左側は、「月」になるんだ」
でたらめだ。それでは、残りの文字が読めない。
「次に、二つ目。句点の右側、「八本」を木に変える。「八本」から木だけを抜き取ると、「八」「一」「木」。つまり、八十一の木になった」
とうとう、十河はおでこをくっ付けてきた。
最初は俺の命を取ろうとしていたように思えたけど、違う。
この表情…………、間違いない。
氷に熱を宿した、暗号に立ち向かっている時の十河だ。
「では、「八」「一」「木」をどう読むか。何度も出された、当て字という奴だ」
「……どう読むんだ?」
「「はち」、「かず」、「き」。句点の左と合わせると、「つき」「はちかずき」。つまり、月は近付き、だ」
うそだろ……。まさか、そんな読み方が出来るなんて。
驚きに声も失う俺の頬を、十河の手が撫でていく。
そしてその指が、唇の端に優しく触れた。
「さて、これで「つきとすっぽん、月は近付き」まで読めた。この続きを読むためには、もう一つ変化のあった物を探さねばならない」
また、十河の顔が迫ってくる。とうとう鼻の先が触れて、瞬きの音すら耳に届く。
「三つ目、もう一つ変わったものは、あたしの心だ。あたしが心を変える時は、暗号に書いてある通り……、「き」と「す」にするようだ」
「つきとすっぽん。月は近付き……」
「キスをする、だ」
俺さえ読めなかった暗号を解読した十河は、目を閉じて、唇を重ねてきた。
これだけ触れられているのに、俺はいつものしびれを感じていない。
なのに、初めてのキスは、全身を痛いくらいに痺れさせていった。
唇が震えているのは、痺れのせいか、俺の動揺か、彼女の不安な気持ちなのか。
十河の閉じた瞳は、なにも教えてくれない。
そしてようやく顔を離した十河が、涙で潤んだ赤い目を開いた。
そこには俺が大好きな、暗号を解読した時の十河の笑顔があった。
……なにも怖くないじゃないか。
十河は、どんな姿をしていたって、十河じゃないか。
「十河……すごいよ。天才だ」
「この暗号を作った、お前が天才なんだ」
「……俺は、十河の目に騙されてたみたいだ。目から入って来る情報なんてうそっぱちだ。寂しい気持ちにさせちゃったね」
「いいのだ。……人は、観察して距離を測るものだろう」
「観察なんかいらない、ならば俺は、目をつぶって生きる」
俺は目を閉じて、再びキスをした。
すると、彼女の気持ちが痛いほど伝わって来た。
震える唇は、彼女の気持ちをすべて表していたんだ。
不安も、勇気も、照れくささも、悲しさも、そして、俺へのありったけの愛も。
彼女は、俺が支えてあげなければいけない、普通の女の子だ。
ちょっと大胆だけど、俺への愛をまっすぐに貫いてくれる、ただの魔族の王だ。
「お前のことが、好きだ。永遠に、好きだ」
「……あたしに永遠などと言って平気か? あたしの永遠は、本当に永遠だぞ?」
「それはロマンチックだな。俺は生まれ変わったら記憶を失ってるはずだから、十河が見つけてくれ」
「ああ、地の果てまでも探しに行く」
「じゃあ……、まずは神様に、俺達の事を許可してもらわなきゃね」
「ああ」
「行って欲しくない。でも、止められないよ」
「……その言葉を胸に、必ず帰って来るからな」
遠くで、一分前という大きな声が響いた。
新年へのカウントダウンなのだろう。
でも俺達には、こうして抱きしめ合うことが出来るタイムリミットのように聞こえて胸が苦しくなった。
「……では、行って来る」
十河は身を引き、最後にもう一度キスをすると、コートを脱ぎ棄てた。
その胸に、俺がプレゼントした月が青く輝く。
そして突風を巻き起こしながら、大きくジャンプした。
人間のものでは無い身体能力は、彼女の体を寸分の狂いもなく、狭い展望台の手すりの上に着地させる。
「待ってくれ! 俺も……、俺も連れて行ってくれ!」
「魅力的な提案だが、人間は天使界に入れないのだ」
「でも……!」
「……ふふっ、泣く奴があるか。すぐに帰って来るというのに」
大きな月光を背負った十河の表情は見えない。でも、見えなくても分かる。
「お前も泣いてるじゃないか。……分かった、俺はここで待ってる。だから必ず帰って来るんだぞ」
「もちろんだ。この大戦が終わったら、恋愛を完璧に理解したあたしになって、お前と付き合うんだ!」
なんというフラグ。だけど、きっと勝利して帰って来るんだろう。
そしたら、俺は彼女になった十河を、こう呼ぶんだ。
「……行ってこい、沙甜」
彼女は軽く手を振って、そして手すりから飛び降りた。
彼女が立っていたその場所には、白い月が優しく微笑んでいた。
……俺は、月と恋をした。
いつの日か、二人の物語が続くことを信じて。
おしまい。
ハツコイぱんている ~毎朝五分の暗号解読/おやすみ前にラブコメディー~ 如月 仁成 @hitomi_aki
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