六章④ 我が道を行く者
※
「……え?」
白刃は、シャナイアの喉元で止まった。冷たい切っ先が、喉仏に触れているのを感じる。
だが、そのまま首を貫くことを、剣はしなかった。
「……くくっ」
妖しい笑み。ルカの紅い視線が、シャナイアの蒼と翠のそれと交わる。
とんでもなく、嬉しそうだ。
「勝った! 勝ったぞ!! あの翠眼の英雄を、この私が倒した……勝利したんだ!」
剣を引き、崖まで歩き、叫んだ。街まで届くのではないかと思う程に、その声は響き渡った。
「いや、あのー……」
「何だ、言い逃れは出来んぞ」
「……そうじゃなくて」
上体を起こし、ルカを見る。確かに、負けた。
負けた、けど。
「トドメは? 殺さないの?」
「私がいつ、貴様を殺すと言った?」
困惑するシャナイアに、ルカは凛然と言い放つ。
「私は、貴様を倒すと言ったんだ。私が欲しいのは貴様の命ではない、勝利だ」
そういえば、そうだった気がする。
いや、そういうわけにはいかないのだが。
「……聖霊にとって、殺されることこそが負けなんだけど」
嘘だった。だが、殺してくれないと困る。やっと決心出来たのに。
翠眼の英雄は、ルカを殺すかシャナイアが死ななければ、この先もずっと生き続ける。
凄く勝手だと思う。
自殺すれば済む話だとわかっている。
だが、情けないことに出来ないのだ。
「なんだ。私は自殺には付き合わないと何度も言っているだろう? 死にたいのなら、自分の風で首を切るなり、そこの崖から飛び降りるなりしろ」
前者は、この三年間で何度も考えたことだ。後者は、今初めて考えてみる。でも、やはり出来そうにない。
あれだけの殺戮を繰り広げてきた筈なのに。ロイドを死なせてしまった、その責任を取るべきなのに。
死が、恐い。
死ぬことが、何よりも恐いのだ。
自分が決めた目的は、生きることを諦める為に必要な理由と状況が欲しかっただけ。
「私は、この世界の大部分がくだらないと思う。馬鹿馬鹿しいと、感じている。なぜだかわかるか?」
不意に、ルカが話を始めた。
「世界と言うより、あの戦争がくだらないものだった。三年前のガーデンは、戦争が全てだった。国の為、王の為、誰かの為……悪魔も聖霊も、何かの為にと言って戦場に行って死んだ。貴様の為に死んだ聖霊も、きっと少なくないだろうな」
くだらない。ルカは続ける。
「……くだらない? あの、戦争が……くだらないものだった?」
繰り返す声が、震える。翠眼の英雄には、そしてシャナイアには、三年前の戦争しかなかった。
戦争が、自分の居場所で。戦うことが存在意義だった。
それを、彼女はくだらないと一蹴する。
「俺には……あの戦争しかなかった。陛下の為にって、それしかなかったから……それを、あんたはくだらないと言うのか!?」
それならば、俺は一体何の為に存在するのか。
英雄は王の為に、国の為に戦って、生きて、そして死んだ。
「くだらないな。あの戦争で死んだ者は大義名分を盾にして、自分の為に生きることから逃げていただけだ。互いは敵だと疑うことなく、自分の本当にやりたいことをせず、何かの為にと命を投げ出した。やりたいことがあってその通りに生きれば、ユタのようになるしかない。アイリとかいう女も、貴様が翠眼の英雄だと知った途端掌を変えただろう? 皆、そうして流されていただけだった。貴様等が生み出した流れに、深く考えもせずに乗っていただけ。自分自身で考えることなく、いや、考えていたのかもしれんが抗うことはしなかった。メグのような、片足を不自由しているガキでも出来たことなのに」
「そ、それは」
「そもそも、それは翠眼の英雄の話だろ? 今の貴様は、誰だ?」
「え……」
目の前に立ち、ルカはシャナイアを見下ろす。
「逃げるな、貴様は何者だ? 貴様は他の者とは違う、私と同じ場所に立つ者なのだろう?」
何者か。それは、ずっと昔に既に知っていた。
誰も居ない、牢獄のような部屋で独り、その事実に泣きじゃくったのを思い出した。
自分はセレナイト王家とは全く関係の無い、どこの誰かもわからない存在で。
ルイ・セレナイトという名前は借りているだけで。
本当の名前は、わからないけど。
ずっと傍にあった言葉を、自分の本当の名前だと信じて。
逃げ出して、世界から死んだことにされた後、その名前を名乗ることが出来るようになって。
その名前で、死ぬまで生きて行こうと決めたのだ。
それなら自分は、英雄でも王子でもない。
「そう、そうだった……」
俺は、シャナイアである。
「……負けたよ、ルカ」
今度こそ、認める。
戦いで負けたことも。自分の死を、彼女に委ねようとしたことも。自分の狡さが敗北なのだ。
この敗北が、翠眼の英雄へのトドメとなった。
英雄はこの場所で、この時をもって、ようやく静かな死を迎えたのだ。
そして今度は、誰の為でもなく。
今度こそ自分の為に。シャナイアとして生きていく。
「ふふっ……勝った、やっと勝てた。どうだ? 初めての敗北の味は」
改めて、ルカが勝利を噛み締めた。至極、嬉しそうに。
敗北。
たった二文字の単語が、存外にシャナイアの心に深く突き刺さる。そうだ、初めて自分は誰かに負けたのだ。
「うん……お世辞にも美味しいものじゃ、ないね」
のろのろと立ち上がり、棍杖を取りに向かう。幸いにも崖から落ちることなく、数歩離れた先に転がっていたそれを拾う。
そして、ルカの方に向き直り、叫ぶ。
「ていうか、そもそも負けてないし! 三年前と、今のでお互い一勝一敗、総合して引き分けだから!!」
「……なんだと?」
全力の負け惜しみである。敗北というものが、ここまで悔しいものだとは思わなかった。
「そもそも、こうやって本気で戦うのも久し振りだし。準備運動なしで海に飛び込んだ様なものだよ、溺れるに決まってるじゃん?」
最早子供の言い分である。納得がいかないらしいルカが、大股で詰め寄る。
「この期に及んで言いわけを……認めたらどうだ、神風が破られたと」
「破られてないし、三年ぶりに使ったから鈍ってただけだし!」
「ガキか、貴様」
「ガキだよ、シャナイアはまだ三年しか生きていないからね。三歳児なんだよ! 幼児だよ!」
「どんな開き直り方をしてるんだ、このガキ!」
全力かつ、幼稚な罵り合い。自分がここまで負けず嫌いだとは、知らなかった。
だが、このまま負けを認めるのは空腹で居るよりも耐えられそうにない。
「……なので、再戦を要求します。今じゃなくて、お互い全力を出せる状況で」
「良いだろう、受けて立つ。ま、次に勝つのもこの私だがな」
「わっかんないよー? 実は俺、これでも英雄と呼ばれてましたから」
「三年も前の話だろう。今はただの、泣き虫だ」
「泣き虫って言うな!」
睨み合って、しばらく。終わりそうにない泥仕合に、シャナイアの溜め息を吐く。
「これから、どうしようかな」
再戦の為には、これからのことを決めなければいけない。
船はとっくに行ってしまった。次の船を待つか、それとも別の道を行くか。
「あんたは、どうしたい? どこか行きたいところある?」
「知らん、任せる」
「そう言われてもなぁ……」
思考はまだまだ敗北を引き摺っていて。まともな考えなど浮かばずに、シャナイアはうんうんと唸るだけ。
すると、ルカが妙な助け船を出した。
「良い方法を教えてやろう」
「良い方法?」
「その派手な棍杖を、地面に突き立てろ」
彼女の言う通りに、棍杖を地面に突き立てる。
「それで?」
「手を離す」
言われた通りに、手を離す。
カタン、と棍杖が倒れる。
「……で?」
「東だな、行くぞ」
「ちょっ、ちょっと!」
何これ雑! 早速東に向かって歩き出そうとするルカの腕を掴み、止める。
以外に、腕は女性らしい細さだ。
「なんだ、文句でもあるのか?」
「文句しかないよ! ……もっと、こう気候とか、治安とか考えていこうよ」
「貴様はごちゃごちゃと面倒なことを考え過ぎだ。私はずっと、迷った時はこの方法だったぞ。その辺に転がっている木の枝とかでやっていたが」
まさかの事実に、呆然とするしかない。そんな適当極まりない方法で、自分の元に辿りついたというのか。
神様……こういうことを、運命と呼ぶんですかね。
「それに、割と理に適った方法だと思うが」
「……どの辺が?」
「シャナイア」
思わず、肩が跳ねる。ルカが初めて名を呼んでくれたのかと思った。
だが、どうやら違うようだ。
「『シャナイア』という名前は、聖霊にはどういう名前だと伝わっているんだ?」
「えっと、意味なんてあるの?」
珍しい名前だとは思っていた。それでも、意味までは考えたことがなかった。
ルカが猫のように目を細め、微笑する。思わず心臓が大きく跳ねた。
「我が道を行く者」
「え?」
「シャナイア……『我が道を行く者』という意味だ。ふっ、くく……今、とんでもなく間の抜けた顔をしているぞ。今回の勝利の戦利品としては、悪くないな」
慌てて、表情を引き締める。脱力しきった手を振り払うと、ルカが再び歩き始める。
「名乗るのは勝手だが、その大層な名に恥じぬよう生きることだ」
シャナイア。果たして、この名前が自分に付けられたものなのか、そうではないのかなんてわからなかった。知りようがなかった。
だが、かつて英雄と呼ばれていた青年は笑った。
「……上等だよ」
棍杖を掴んで、シャナイアはルカに駆け寄る。果たして、自分の行く道とは何なのか。
どこに向かい、その先に何があるのか。道中は険しく、苦しいものかもしれない。
三年前に、そして今日のこの時に。やはり死んでいれば良かったと、思う時が来るかもしれない。
だが、それでも、揺るがない決意を胸に抱いた。
ルイ・セレナイト王子でも、翠眼の英雄でもなく。
シャナイアとして、隣に居るルカと共に。
友人を死なせてしまった事実を、犯した罪を、踏み躙った命を忘れないように。終止符が打たれる、その時まで。
ただ、今この一瞬を生きていこう。
シャナイアとして精一杯に歩き、生きていこうと誓った。
天風の英雄譚 風嵐むげん @m_kazarashi
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