III
三月一日の朝は暗かった。今にも降り出しそうな空模様である。湿度が高いために、寒気が体にまとわりついてくる。
華は、六時少し前に現れた。前髪が濡れていた。寒い中を歩いてきたために、薄化粧の頬が少女のように赤い。徹夜したというわりに、こざっぱりした顔だった。
「コンビニのトイレで、顔を洗って、化粧をし直してきました」
華は照れ笑いをしながら、種明かしをした。化粧といっても、この娘の場合、日焼け止めのベースクリームを塗り、リップクリームをつけている程度だろう。あと、眉も少し書き足して整えているか。
「適当に座っててちょうだい」
華は、ファンヒーターから近いカウンター席に着いた。店内は、まだ十分に暖房が効いていない。
美智子はレジ台で新聞を読んでいたのだが、ミニキッチンに立って、自分と華のためにコーヒーを淹れた。
レインレインのオリジナルブレンドは、モカ・マタリをベースにしてあるので香り高く、サントスの酸味を加えてあるのでさっぱりと飲みやすい。美智子はコーヒーを片手に、再び新聞に関心を戻した。
華は、カウンターの高椅子の上で、脚を組んだり組み替えたりほどいたりしていたが、やがて席を立ち、本棚の整理に手を付けた。
レインレインに揃えた本は、パンや焼き菓子をテーマにしたものばかりで、レシピやエッセイ、写真集などジャンルはさまざまだ。
本の整頓を済ませると、華は、手にした一冊を立ち読みし始めた。華のカップの中身は空っぽになっていた。ブラックのままのコーヒーは、カラオケで疲れた喉に、あっという間に飲み干されたらしい。
二十分ほど、そうしていただろうか。立ち読みを終えた華が、工房の出入口に立った。美智子も新聞から顔を上げ、工房をのぞき込んだ。
バンジュウに入った生地を人差し指で押してみた園田が、困っているかのように眉と目尻を下げた。ああ笑ったのか、と、一瞬後に美智子は理解した。
「バゲットの生地、今から、形にします。よかったら、こっち、どうぞ」
華はうなずいて、工房へ滑り込んだ。園田は、リーチイン式冷蔵庫の正面にある丸椅子を、華に勧めた。華は小さく会釈したものの、腰掛けずに椅子の前に立ち尽くして、園田の手元に視線を注いだ。
園田は、四角いバンジュウにみっちり詰まった生地から、五分の一を細長く切り出した。初めから完成形に近い形に切り出すことで、生地に触れる回数を減らすのだ。
手のひらを使って生地を優しく叩き、横長に伸ばす。適度な長さに伸ばしたら、生地を奥から手前に二つ折りにし、さらに手前から奥へ二つ折りにする。手のひらの付け根を使って、生地を自分側へ巻き込むように転がし、棒状に整える。綴じ口を下にして、成形完了である。
わずか一分間の作業だった。柔らかな手付きは、一切、力んだようにも見えなかった。
華が、詰めていた息を、ほっと吐き出した。
ふと、美智子は父の言葉を思った。いい具合に膨らんでくれるパン生地は若い娘の体の手触りだ、と。気の置けない常連客を相手に、父はそう豪語していた。はるか昔だ。美智子が高校生か大学生のころだ。
父の話には、しかし本物の若い娘とはとんと縁がない、という落ちがつくのだったが、あの話を小耳に挟んで以降、美智子ははしたない気持ちで父の手付きを見つめてしまうことがあった。
あたしは若い娘よ、とうさん。触ってみてもいいのよ。布団に入り、眠る前の一時、美智子は父を誘惑することを夢想した。女子校で過ごす美智子のまわりに、男は父だけだった。
華は、園田がフィセルやエピの成形を進めるのを、飽きもせず立ちっぱなしで見学していた。園田は、いつもと違わぬ動きで作業している。
おもしろくないわね、と美智子はひそかに鼻を鳴らした。もっと慌ててくれるかと期待していたのに。
美智子は、工房の様子を確認した。
朝一番に焼き上げるべきパンは、すでに、熱いオーブンの中だ。サンドウィッチも、包装まで完了している。フランスパンの最終発酵には一時間程度かかるので、フィセルとエピの成形が済めば、園田はしばらく手が離せる。
美智子は、朝食の準備に取りかかった。
普段の朝食は、美智子も園田も、自分の好きなときに、前日の売れ残りなどを適当につまむ。お互い勝手にやるほうが気楽だし、都合がよい。
美智子は、父が死んでから、家庭料理というものを作らなくなった。ときおり自分のためにこしらえるのも、レインレインで客に提供するのと大差ないサンドウィッチだ。ただし、ちょっとばかり贅沢な具材を使う。
出入りの卸業者が隔月で置いていく食品の通信販売のカタログは、美智子のひそかな楽しみとなっている。最近のお気に入りは、デンマーク産のパンチェッタだ。豚バラ肉の生ハムである。
このパンチェッタを、噛むほどに味わいの広がるライ麦パンで、たっぷりのレタスと一緒に挟み込む。
業務用ミネストローネを温め、コーヒーを淹れ直す。四人掛けのテーブルに三人ぶんのカトラリーをセットしていると、華が気付いて、率先して料理を運んだ。
「園田くん、来なさい。今、いいでしょ」
美智子が椅子に掛け、華が遠慮がちに美智子の向かいに座り、エプロンのままの園田はさらに遠慮した様子で、華の隣の席に着いた。ベレー帽を外し、膝の上でいじり回す。
同じ空間で働いてきた者同士であるのに、同じテーブルを囲むのはひどく珍妙な気がした。収まりの悪さを隠すために、美智子は、さっさと食べ始めた。
と、華が表のほうへ目を向けた。
「あっ。雨、降ってきましたね」
レインレインの東側と南側は全面がガラス張りになっているから、天気が崩れると、店の雰囲気それ自体が空の色に沈む。今朝は風がないようで、細かな雨は空から垂直に降ってくる。
冷たい紗のかかる景色は、見る間に、白いガラス色に曇った。雨音によって、しっとりと隔離された空間。音楽がかかっていないと、ファンヒーターと工房のオーブンが、こんなにもうるさい。
「華ちゃんの大学、卒業式は今月末よね。袴を着るんでしょ」
「いえ。就職する友達は袴ですけど、わたしは進学なので、スーツで。形だけの通過儀礼ですから」
「つまらないわね。晴れ着の機会なんて、人生で何度もないわよ」
華は、かすかな笑顔をつくるだけだった。ワインレッドのハイネックセーターに黒いジーンズ、男物のようなデザインのペンダントは、美智子の老婆心を刺激する。仕事中も、華はいつも地味なモノトーンだった。
なんて勿体ないこと。その白い肌には鮮やかな色が映えるはずだ。大胆で女らしいドレスを着せたら、この子、どれだけ変わるかしら。
大学を卒業する華は、今、二十二だ。あたしが子を産んでいたら、華より一回りも年が多かった。二十七の園田よりも大きな子が、あたしにいたかもしれないのだ。
時の迷路に足を踏み入れかけ、美智子は息をつき、辛気くさい妄想を払い飛ばした。
「華ちゃんにとって、大学生活の四年間は長かったかしら、短かったかしら?」
「長かったです。充実していました。でも、いつまでたっても未熟者で、店長や園田さんには、たくさんご迷惑をおかけしました」
園田は、一口かじったサンドウィッチの断面からパンチェッタをのぞき込んでいたが、急に名前を出されて目をしばたたかせた。
「は、華さんがシフトに入ってるときは、仕事、しやすかったです。自分は、その、鈍くさいので。め、迷惑なんて、逆に、自分のほうが、いつも……」
「いいえ。園田さんには助けていただきました。きちんとお礼を言えないままでしたけど、園田さんのおかげで、彼氏との関係を清算することができたんです。あのときは、ありがとうございました」
おやまあ、朴念仁が意外にちゃっかりしてるじゃないの。美智子はスープカップをテーブルに置き、頬杖をついた。さあ話しなさいよ、と仕草で示すと、華は頬に微笑を残したまま低い声で説明した。
「園田さんが、話を聞くだけならできるって、携帯電話の番号とメールアドレスを書いたメモをくださったんです。それと、気付いてしまってごめんなさいって」
「あら、園田くんが何に気付いたの?」
園田が顔を上げ、華のほうへ、思いがけず強いまなざしを送った。
華は、赤いセーターの左の袖をまくった。ぞくりとするほど白い腕だ。そのなまめかしい肌には、切り傷とおぼしき直線の筋が、縦横に入り乱れて盛り上がっていた。
「……何なの、この傷?」
「一年前の秋ごろ、自分の腕をカッターナイフで切ることが癖になっていたんです。傷が赤かったころは、洗い物のときに袖をまくっていると、目立っていたと思います。今年は、夏の間も、長袖で隠していましたけど」
「どうしてこんなことを? 一歩間違えば危ないのに」
美智子は詰問の口調になった。華は動じなかった。
「たぶん、甘えていただけだと思います。目には見えない心の傷を誰かに知ってほしくて、心の代わりに体を傷付けたんでしょうね」
「そんな、他人事みたいに」
「あんまり覚えていないんです。何を思って傷を付けたのか。痛みも覚えていません」
ここにもあります、と華はセーターの胸元に人差し指を走らせた。そのついでに、髪を耳に引っかける。その耳には、外周に沿って三つのピアスが突き刺さっている。
「その傷、あたしは気付かなかったわ。でも、園田くんは気付いたのね」
「園田さんに指摘されて、初めて、自分の甘えが恥ずかしくなりました。腕を切ることをやめるために、彼氏と別れようと決めました」
美智子は身を乗り出した。
「聞いてみたかったのよ、本当は。どんな恋だったのかしら?」
華は、袖を元に戻した。
「彼は文系の大学院の研究員でした。哲学をやってるって言ってました。大学のそばのバーで知り合いました。いつもビートルズが流れている店で」
「ビートルズねぇ……」
昔の男のうちの一人が、よくアコースティックギターを鳴らしていた。あの男の影響で、美智子もビートルズは少しわかる。
華は続ける。
「わたし、高校まではクラシックギターだったので、ロックやポップスには疎くて、そのときにかかっていた曲のタイトルがわからなかったんです。一緒にいた友達も洋楽を知らなくて、二人で何だろうって話していたら、カウンターの二つ隣に座っていた彼が教えてくれました」
ジョージ・ハリソンの「
「エレキギターは、彼に教わりました。すぐに、ロックはわたしの一部になりました」
「趣味が合うのに、彼とはうまくいかなかったの?」
全然、と華は伏し目がちに微笑んだ。
「彼は、わたしとは時間の合わない人でした。完全に夜型で。わたしのバイトの後に一緒に食事をしようと待ち合わせていても、一時間も二時間も現れなかった。寝ていたからって。一時上がりのシフトのときですよ。
食べずに待ってたら、わたし、苛々して、どうしようもなくて。そういうことばかりで」
園田は身動き一つせずに華の横顔を見つめていた。園田は華に声をかけたいのだ、と美智子は見て取った。華を慰めたいのだろうか。あるいは、華の話を止めたいのだろうか。
「そんな男と、どうして会っていたの?」
「会いたいと望まれると、拒めなかったから」
「情があったってこと?」
華は、笑顔で、ゆるりとうなずいた。
「わたし、彼が初めてだったんです。
美智子は呆れ笑いを漏らした。
「女を大事にできる男なら、最初からやってるでしょう。でも、まあ、華ちゃんの気持ちもわかるわ。あたしにも経験があるもの」
「結局、体の関係だけでした。恋愛って何なのか、わからないまま」
美智子の好奇心が鎌首をもたげ、嗜虐心が舌なめずりをした。
「なぁに、それ? どういうこと?」
「彼に呼び出されれば会って、体の関係だけを続けていました。そんなつながりでも、何かの意味があると思っていました。好きだと言われて、それにすがっていました。汚くて浅ましい行為を繰り返していました」
園田の手が、ほんの少しテーブルから浮いた。華は、びくりと肩をこわばらせた。園田の長い指は宙を泳ぎ、テーブルに落ちた。
美智子は、コーヒーカップの取っ手に指を絡めた。
「好きでもない男の性欲を処理してやるなんて、暴力をふるわれるのと同じよ。相手の都合のいいときに呼び出されて、することだけして、普段は恋人でもない関係だなんて」
工房でタイマーが鳴った。ひよこの鳴き声を摸した音だった。園田は、黙って席を立った。華は、工房へ向かう園田の背中を、じっと目で追った。
美智子は、華と同じ年頃の自分を思って、同情と軽蔑を猫撫で声に込めた。
「華ちゃんは妊娠しなかったのよね。それは幸いだわ。あたしはね、華ちゃんの年のころ、会社の同僚との間に子どもができて入籍したの。でもね、旦那は暴力がひどくて、あたしは流産した。
あたしに比べれば、華ちゃんはまだまだ大丈夫よ。ねえ?」
***
午前八時より少し前に、華のバゲットは焼き上がった。七本の
「お世話になりました。ごちそうさまでした」
別れの場面でも華は泣かないだろう、と美智子は予想していた。果たして、美智子がこれだけのことをしてやっても、やはり華は涙を見せなかった。
静かな目は、美智子と、作業の手を止めた園田とを、交互に見つめた。そして華は、客の誰かが忘れていったビニール傘をさして、勝手口を出ていった。
旅の恥はかき捨てという。洗いざらい語っていった華は、きっとこの先、一生この店を訪れないだろう。
ぱさり、と軽い音がした。美智子が振り向くと、園田がエプロンとベレー帽を外して丸椅子の上に置いたところだった。
「園田くん、傘は?」
「ないです……いりません」
長身が勝手口をくぐって駆け出した。何のために、どんな言葉を提げて、その背中は駆けていくのか。
美智子はため息をついた。遠目をすがめて、若い二人を眺めやる。園田が声をかけたのか、華が立ち止まり、ビニール傘がくるりと踊った。
春とは名ばかりの、冷え冷えとした朝である。雨が降り続いている。
【了】
バゲット慕情 馳月基矢 @icycrescent
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