II

「来年が創業五十年になるらしいの。ちっとも知らなかったわ」


 翌日の仕事中に、美智子は華に言った。華は、暇つぶしの拭き掃除を中断する。


「もうすぐ五十年ですか。すごいですね」


 華はわずかに目を見張り、わずかに眉を持ち上げた。観察力のない人間ならば、華の表情の変化を見落とし、冷たく話をあしらわれたように誤解するだろう。


 美智子は、四十九年というこの店の歴史に、言いようのない据わりの悪さを覚えていた。


「あたし、今、五十六だけどね。あたしはパン屋の娘として生まれ育ったつもりでいたの。

 でも実際はね、あたしが三つになるまで父は印刷工場で働いてて、それからパン屋に勤め始めて、あたしが七つになったころにようやく自分の店を持ったらしいのよ」


 小学校に上がる前のことは、美智子は何一つ覚えていない。上がってからも、部分的に記憶が抜け落ちている。美智子が低学年のころまでは屑のような女が同じ家で生活していたはずだが、その女が存在した場面の記憶が、美智子には一切ないのだ。


 覚えてなくて幸いよ、と父方の祖母は、かつて十代半ばの美智子に言った。


 あんたはねえ、母親から何もしてもらってないのよ。わたしが様子を見に行ってみたら、酒瓶がごろごろ転がった台所で、まだ四つのあんたがわんわん泣いてるじゃないの。ごはんももらえずにねえ。かわいそうだったわねえ。


 父がその女について何か話しているのを、美智子は耳にしたことがない。女の話は、すべて親戚から聞かされた。


 女は、もともと酒場勤めをしていたという。どんな男が相手でもすぐに股を開く女だったらしい。美智子が父の子ではない可能性もある。


 真人間の父がそんな女を引き受けたことが、美智子には不思議だった。きっとだまされたのに違いない。


 それより、と美智子は話を変えた。矢継ぎ早に言葉をかけなければ、華はそそくさと仕事を再開しようとする。


「華ちゃんは、四年間、よく続けてくれたわよね。園田くんを除けば、今まででもいちばん長いうちに入るわ。最初はね、華ちゃんは続かないんじゃないかと思っていたの」


 雇った当初、感情を全く表に出そうとしない田舎出の少女に、美智子はずいぶんと苛々させられた。仕事を教えるときも、きつい口調で指示をするときも、小言を食らわせているときさえ、華は温度のない声で、はいと一言。


 生気が乏しい。ただし、まじめではある。家事の手伝いをしつけていたのか、作業に関しては最初から筋がよかった。


「まあ、華ちゃんが二年生に上がるころには、もうこの子は卒業まで辞めないだろうって気がしたわ。ねえ、園田くん」


 ちょうど工房から出てきた園田に、美智子は話を振った。園田は、山葡萄ゼリーと青林檎ゼリーとコーヒーゼリーがそれぞれに仕込まれた三つのタッパーを、ミニキッチンの冷蔵庫にしまった。


 園田は、長身の背中を丸めるように、うなずいた。


「一年生の、十一月末から、十二月の真ん中くらいまで、華さんは、実家に、帰っていて……戻ってきたとき、すごくやせていて……それから、変わったように、思いました」

「そうそう。すごくやせて帰ってきて、でも、すごくしっかりした」

「たくさんのものを、見てくれるようになった……と」


 それだ、と美智子は思い出した。園田の目が華を追っているようだ、と気付いたきっかけだ。かつて園田は、華の変化に対して、言葉を選びながら、ぽつぽつと説明した。


 たとえば、工房で使いっ放しにしたボウルや器具を、こまめに気付いて洗ってくれる。洗って拭き上げたものを、きちんとあるべき場所へ戻しておいてくれる。そうした気遣いが、自分にはとてもありがたい。それをしてくれるのは、華さんだけだ。


 華は、美智子でも園田でもない、どこか一点を見ていた。


「あのとき、祖父が、亡くなったんです。わたし、両親の仕事の都合で祖父母に育てられたので、ずっと祖父が父の代わりでした」


 誰かの死は、その身近な者に、新たな生き方を強いる。美智子は、父の死によって、店の経営を一人で背負うこととなった。社会的にも精神的にも強くあらねばならなかった。


 それが悲惨なことだったとは、美智子は露も考えていない。むしろ逆である。


 出戻りの身という引け目を持つ美智子に、父は優しかった。美智子は父に甘え、いい親子関係を築いてやっていたが、あれは猫をかぶっていただけだった。一人きりの生活を得て、これこそが自分の本来の姿だと、美智子はすがすがしい事実を見出した。


 華は、ぽつりと言った。


「祖父がもし生きていたら、一緒にレインレインのパンを食べに来たかったです。コーヒーを飲みながら、演習で引いた設計図のことを話したかったです」


 華がレインレインに食事をしに来たことは、過去に一度だけある。男と一緒だった。


 男は、華より十ほども年上に見えた。彼氏かと尋ねると、華はにこりともせずにうなずいた。男も硬い顔をして、美智子とも華とも目を合わせようとしなかった。


 別れ話だ、と美智子は察した。園田は工房に引っ込んだまま、レインレインのほうへ出てこなかった。美智子はこのとき、園田が華に惚れているという確信を強めた。


 数日後の朝、華は長かった髪をばっさりと切ってアルバイトに現れた。どうしたのか、と野暮な質問が美智子の口を突いた。華はため息とともに答えた。彼氏と別れました。もう一生、伸ばしません。


 美智子は、働く華の後ろ姿に目をやった。華はカウンターを離れ、木製の本棚を乾拭きしている。


 斜め後ろから見ると、短い髪に隠された耳のてっぺんあたりに複数のピアスが付けられていることがわかる。いつのころからか穿たれたピアスは、まじめな華が唯一見せる反抗的態度だった。華は本当は、決して、美智子に懐いてなどいない。



***



 午後六時に閉店し、十五分ほどで掃除と戸締まりをすませ、園田と午後番のアルバイトスタッフを帰らせると、美智子は決まって、なじみの割烹へ向かう。


 京風料理をしょうしゃな器に盛り付けて出すこの割烹は、学生が自転車を連ねて走り回る通りから、一筋入った場所にある。高級住宅地のとば口だ。客には、大学関係者と見える風貌の男性が多い。


 美智子はカウンターに着く。燗をつけた酒を、徳利に一本。食事は店主に任せてある。今日は、つきだしに菜の花の辛子和えが出された。


「いいわね、大将。あたし、菜の花が好きなのよ」


 まだ四十に届かない大将は、年の割に老けた印象の馬面をくしゃくしゃにして微笑した。ママさんが去年の春もそうおっしゃっていましたので。


 つきだしに続き、旬のものの天ぷらも、美智子の舌を楽しませた。酒と食事に満足していられるうちは、今のまま、何一つ変わる必要などない。


 美智子は、余計なことは気に留めない。


 余計なこととは、つまり、菜の花の旬がめぐり来るたびに歳をとっているのだとか、歳をとるたびに血圧が上がっているのだとか、血圧が上がれば明日にも父のような死に方をするかもしれないとか、そうした事柄どものことだ。


 しっとり甘い味付けの卯の花には、えんどう豆が彩りよく混ぜ込んである。口の中でほろりと崩れる黒豚の角煮は、黒糖を使った独特の風味がおもしろい。茶そばで海老を巻き、さっと素揚げした一品で、腹が膨れた。


 会計をすませ、目と鼻の先のマンションへと帰宅する。マンションと店と割烹。徒歩十分圏内が、美智子の活動範囲である。部屋に帰れば、風呂に入って寝るだけだ。


 美智子は、風呂上がりには必ず、クローゼットの扉に張られた姿見に全身を映す。部屋着は、飾り気のないパイル地のネグリジェだ。


「服の上から見るぶんには、変わってないんだけどねえ……」


 美智子は、若いころから豊満な体型だった。全身にむっちりと肉が付き、胸と尻ははち切れんばかりだった。


 男どもの称賛のまなざしは、つねに美智子について回った。女どもには嫌われた。会社勤めをしていた時期は、しょっちゅう、聞こえよがしの陰口を叩かれたものだ。


 美智子は鼻で笑っていた。女のやっかみは、いっそ心地よい。彼女らは、男なんぞよりはるかに敏感に、女の美を発見する。


 五十を超えたころから、体の肉の質が完全に変わったように思う。全体にふにゃりと柔らかくなり、乳房も尻もだらしなく流れるようになった。


 今はまだ、補正効果の高い下着によって体型を維持していられる。それすらできなくなる日も、いつかは来るのだろうか。


 美智子はドレッサーの椅子に掛け、二十分かけて、化粧水と乳液と美容クリームを肌になじませた。首から鎖骨、胸元まで、丁寧に手入れをする。


 体型と服装、肌と化粧には、気の済むまでこだわっている美智子である。パン屋の女主人が貧相な体型でしみったれた服を着て、荒れた肌をさらしていたら、誰がそんな店のパンなど買うだろうか。


 午後八時半を過ぎると、美智子は電気を消し、ベッドに入る。夜更かしは大敵だ。朝は四時半に起きなければ、五時半に工房へ出勤する園田に合わせられない。


 美智子の部屋にテレビはない。本や雑誌も、一冊もない。低俗な娯楽に目を向けるような暇人ではないし、世間の出来事を知るには、レインレインで購読している新聞と割烹で漏れ聞こえる他の客のおしゃべりだけで十分だ。



***



「て、店長、あの……ノート、どうも、ありがとうございました」


 二月二十八日の午後二時半だ。これから華のバゲットを作り始めようという園田が、美智子に、父のタイガーノートを返した。


「けっこう役に立つでしょ、これ。コピーはとったの?」

「あ、いえ、はい……」


 どっちなのよ。美智子は呆れ、聞き流した。どうでもいいところまで突っついているのでは、園田の雇い主は務まらない。


 重く湿った曇り空が、朝からずっと続いている。こんな陰気な日には、喫茶店へ出向いてみようという気も失せるらしい。今日はまた一段と客が少ない。


 小麦粉がパンになるまでには、五時間や六時間、種類によってはそれ以上の暇がかかる。


 園田の毎朝の業務開始は五時半だが、その時点からすべての作業を始めていては、商品の完成が開店に間に合わない。したがって、午前中に焼き上げるべきパンは、前日から仕込んでおく。


 パン製造は、計量とミキシングに始まり、生地をこねる、一次発酵をする、生地を分割して丸める、ベンチタイムをとる、成形する、最終発酵をする、焼く、という過程を経るのが一般的だ。


 前日に仕込みをする場合は、生地の成形までをすませ、これを冷蔵庫で保管する。翌朝の作業は最終発酵と焼成だけなので、二時間ほどで、焼きたてのパンを店頭に並べることができる。


 ただし、フランスパンのように、粉、パン酵母、水、塩という基本材料のみから作られるものは、夜をまたぐ長時間発酵が難しい。フランスパンは、当日に仕込みから始めるので、いつもの時間配分では午後にしか焼き上がらない。


「でも今回は、長時間発酵をやってみるのね」

「や、焼きたてを、差し上げたいので」

「張り切ってるわね。華ちゃんに男を見せるチャンスだものね」


 園田の目が宙をさまよった。


 工房のリーチイン式冷蔵庫に、真新しい紙が貼ってある。黒いペンで刻まれた文字は、園田の手だ。機械を使ってレシピをコピーするのではなく、自分の手で書き写したらしい。園田は、体は大きいくせに、ちんまりと子どもっぽい字を書く。


 小麦粉一キログラム、水七百ミリリットル、塩二十一グラム、インスタントドライイースト一・八グラム、モルトシロップ二グラム。モルトシロップは、酵母の発酵を促進し、クラストの香りと色と硬さを、良質のものにする。


「水が七十パーセントは、ずいぶん多いわね。ドライイーストは、逆にこんなに少ないの。まあ、発酵時間が長いから、普通の量じゃ爆発しちゃうわね」

「はい。この量なので、バゲット一本と、あとは、フィセルとエピが四本ずつ、取れます」

「任せるわ。明日の午前の仕込みが楽になるわね」


 園田はうなずいて作業を再開した。うなずくとき、一度ではなく三度も四度も小刻みに頭を上下するあたりが、頼りなく野暮ったい。


 美智子はレジ台の椅子を工房の出入口に寄せ、久しぶりに、園田の仕事を眺めた。


 材料のミキシングは機械作業だ。パンミキサーは、かき氷機に似ている。二股に開いた足の間に、材料の入ったステンレスボウルを設置し、下向きに付いたホイッパーを内蔵のモーターで回転させ、生地を均一にこねる。


 小麦粉と水とモルトシロップを混ぜること三分。その後、三十分間、生地を休ませる。


 この過程で、小麦粉に十分に給水させる。小麦由来のタンパク質が水と結び付くと、パンの引きの強さを生み出すグルテンが形成される。


 三十分が経過し、生地が柔らかくなったら、塩とドライイーストを加え、三分こねる。こね上がりの温度は二十三度が最もよい。


 パン職人の作業には、繊細な時間管理が必要となる。


 園田は何種類ものタイマーを工房に持ち込んでいる。こういう順番でこれらの生地を仕込んだから、あのタイマーが鳴ったら、あれの発酵が終了。数分ないしは数十分前の自分との連携作業を、不器用な園田が難なくこなす。


 ご主人さまと下僕ね、と美智子は思う。もちろん、パンがご主人さまで、職人が下僕である。


 父と二人でパン屋を営んでいたころからつねづね感じていたが、美智子は職人とパンの倒錯的な主従関係を把握した経営者であって、職人一筋の生き方は決してなしえない。美智子にとって、パンはあくまで商品であり、食べ物である。


 一次発酵は、室温二十七度で九十分。その間、タイガーノートのレシピでは、三十分ごとに三回のパンチを行うよう指示されている。パン作りにおけるパンチは、殴りつけることではなく、軽く押さえる程度に生地に力を加えることだ。


「普通、フランスパンはパンチをやらないものでしょ? 成形でも、べたべた触りすぎないように注意するっていうのに、パンチ三回は多いんじゃないの?」


 美智子の一般論に、園田はかぶりを振った。


「自分も、そう思って、パンチをせずに、焼いてみました。家で。焼き上がりは、つぶれてました。ボリュームが、しぼんで。は、発酵時間が長いので、生地が弱ったんです」

「あら、作ってみたのね」

「はい……四回目で、成功しました」

「まあ。四回も焼いてみたの。そうよね。華ちゃんのためだものね」

「あ。いえ、そんな、じ、自分は……」


 園田が、ますますしどろもどろになる。


 女はいくつになっても、この手の話が好きだ。美智子はほくそ笑む。


 とはいえ、今まで園田を焚き付けたことなどない。華が間もなくいなくなるから、からかってみることができる。仮に、自分の目の届く範囲で従業員同士が男女交際をしていたら、美智子としては気分が悪い。


 美智子自身が関係する異性愛や肉欲は、この店に出戻って以来、すっぱりと捨ててしまった。


 美智子の子宮は、かつて、幾多の男の欲望をため込み、四人の胎児を殺した悪魔の壺だった。二十代の終わりに子宮筋腫の悪性化が指摘され、肉腫の切除手術を受けた。


 術後の痛みは、美智子に己の浄化を実感させた。不自由も寂しさもなかった。自分は女の姿をしていながら女の機能を手放した、ある種の新しい生き物だと思った。閉経も極端に早かった。


 園田が生地のパンチを行う――手粉を振った台に生地を移し、生地を三つ折りにし、方向を変えて、さらに三つ折りにする。生地を二十七度の条件下に戻し、再び三十分の発酵。


 合計九十分の一次発酵と三回のパンチが終わると、園田は生地をリーチイン式冷蔵庫にしまった。成形は明日の朝にやるようだ。


 フランスパン生地を仕込んだことで、普段とは作業の流れが変わったはずなのに、六時閉店、六時十五分シフトアップは守られた。のそりとした園田だが、職人としての腕は立つのだ。


 帰り道、むくんだ足で割烹へと向かいながら、美智子は園田の人生を思った。


 あの正確な手で女を愛で、自分の遺伝子を持つ子をつくりたいと思わないのだろうか。いつまでレインレインに勤める気でいるのか。華に触発され、近いうちに巣立っていくのではないか。


 巣立つという表現に、我ながら苦笑した。園田は、レインレインを家とも学舎とも故郷とも思ってはいないだろう。そんなべたついて生ぬるい感傷は、美智子は嫌いだ。


 華だってそうだ。自分の夢のために、あっさりと店を退いていける。その程度の距離が、結局、誰にとっても損がない。

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