バゲット慕情

馳月基矢

I

「バゲットを焼いていただけませんか?」


 はなは言った。


 大学卒業のはなむけに何かおごろうか。今までしたこともない提案を切り出したに、華は静かに、バゲットと言ったのだ。


「どうしてバゲットなの?」

「好きなんです」


 ただ一言。この子は、いつもそうだ。少ない口数で、主張の核心だけを形にする。二十二の小娘のくせに、はしゃいだところも浮ついたところもない。華の独特に渇いた空気を、美智子は気に入っている。


 しかし、二月いっぱいでこの店を辞めたいと華に告げられると、美智子は急に、どうでもいいおしゃべりを華と交わしてみたくなった。


 どんな話題をどんなふうに振れば、華は口を割るだろうか。美智子が考えを巡らせる隙に、手早い華は帰り支度を終えてしまう。


「ああ、華ちゃん、お疲れさま。バゲットのこと、後でそのくんに相談しておくわ」

「ありがとうございます。お先に失礼します」


 華は淡い笑みをつくり、浅く頭を下げて工房へ引っ込んでいった。アルバイトスタッフには、店の表側ではなく、工房の奥の勝手口から出入りさせている。


「それにしても、バゲットねえ……」


 バゲットは、俗に言うフランスパンの一種だ。大型の棒状で、フランスの一般家庭では、最もよく食されているパンだという。


 美智子の営むパン屋では、バゲットを販売していない。一人暮らしの学生が多いこの町では、バゲットのような大型のパンより、テーブルロールサイズの菓子パンや調理パンのほうが喜ばれる。


 間もなく午後一時半になろうとしている。店内は静かだ。客は一人。顔なじみの大学院生が、昼前から、喫茶スペースでコーヒー一杯を相方に読書をしている。


 販売スペースの客足は、からきしだった。売れ残りが出るだろう。


 二月も半ばを過ぎると、国立大学のすべての学部で期末試験が終わり、客である学生たちの多くは郷里へ帰省してしまう。毎年、春休みと夏休みには、美智子のため息の数が増える。


 まあ、いい。この暇な時間を利用して、午後番の新人にコーヒーの淹れ方を教えよう。


 美智子はレジ台の椅子を立った。新人の吉川は、髪などいじりながら佇んでいる。美智子はまた、ため息をついた。吉川が華のように育つには、だいぶ時間がかかるだろう。


 いちばんの戦力である華がここを辞めるのは惜しいが、進学と引っ越しを控えた彼女には祝いの言葉を贈るしかない。


 やっぱり、この季節はいやだわ。


 美智子は吉川を呼びつけて、まず小言を二つ三つぶつけ、手を洗わせた。カウンターの内側に回り、コーヒーを淹れるためのお湯の沸かし方から説明を始めた。



***



 美智子の父が創業したときには、中谷製パン所という名だった。美智子が離婚して父の元に戻り、店舗を増改築して喫茶を始めたのを契機に、製パン所などという古めかしい名も変えることにした。


 そのときたまたまラジオからビートルズの「ペニー小路レイン」が流れていたのと、梅雨のさなかで雨が降っていたために、パン屋の名は「雨小路レインレイン」と決まった。


 父が卒中で倒れ、三日後に呆気なく死んでから、もう十六年になる。父に死なれたとき、美智子は独り身の四十歳だった。父の妻だったという老女が焼香に訪れたが、美智子は塩をまいて追い払った。


 父の死後、美智子は若い製パン職人を雇った。朝が極端に早く、力仕事の多い製パン職人の業務は、店の経営もこなさなければならない中年女の美智子にとって荷が重すぎた。


 園田は、レインレインにおける四人目の職人だ。二十歳で専門学校を卒業してから七年間、美智子の片腕として工房に立っている。


「っ、バゲットですか……」


 仕事をしている最中に話しかけると、園田は決まって、一語目を詰まらせる。「あ」とも「う」ともつかない音が、首が長いために目立つ喉仏をビクリと跳ねさせた。


「そう。卒業祝いに何がいいかって尋ねたら、バゲットって」

「は、華さんらしい、です」


 園田は、パン・オ・ショコラをオーブンに入れた。


 パン・オ・ショコラはクロワッサン生地でチョコレートを包んだパンだ。園田の焼く菓子パンは、味わいにも姿形にも愛らしさと品があって、人気が高い。たまにタウン誌に取り上げられている。


 美智子は、園田は華に気があるようだ、と勘ぐっている。当人に白状させたわけではないが、まあ間違いないだろう。


 園田の風貌は悪くない。むしろ美男子だ。


 ぬきんでて背が高く、連日の力仕事に鍛えられた体は引き締まり、切れ長な目と薄い唇の、思いがけないほど端正な顔立ちをしている。美智子が揃えてやった生成りのベレー帽とエプロンが清潔感を引き出して、黙っていれば、なかなかのものだ。


 美智子が思うに、園田はその容姿が逆にいけないのだ。スマートで男前すぎる外見が、園田の職人気質と口下手を、変な具合に際立たせてしまう。


「バゲットが華ちゃんらしいって、どういう意味? 毎日食べても飽きが来ないタイプってことかしら? 女の子を食べ物に例えるなんて、園田くんも案外、助平なのねえ」


 小麦粉の計量を始めていた園田の、精密なはずの手先が固まる。


 園田は、よく言えば実直な人物である。が、せっかちなところのある美智子からすれば、いっそ焦れったいだけの朴念仁だ。このにれの大木のような男が相手では、今時の若い女の子はすぐに退屈を覚えてしまうだろう。


 しかし華ならば、と美智子は想像する。全体に野暮ったい園田という男から、真心だの誠実さだのといった長所の核心を、うまく見付け出してやれるに違いない。二人とも背が高いので、並んだときの見栄えもよいだろう。


 美智子は一人こっそりと笑った。この想像の筋書きを、なかなか気に入っている。



***



 いわゆるフランスパンというものは、使われる生地が同じでも、形と大きさによって種類が分けられる。日本で最も普及しているのはバタールだ。四十センチくらいの長さの棒状で、ややずんぐりしている。


 華がリクエストしたバゲットは、バタールよりも細くて長い。バゲットとは、フランス語で「杖」を意味する。


 フランスパンは通常、小麦粉、パン酵母、水、塩だけのシンプルな配合で作られる。クラストはバリバリと硬い食感で香ばしく、中身クラムは気泡を多く含み、もちもちとして引きが強い。


 焼き上がりの長さが六十センチに及ぶバゲットを、一般的な家庭用オーブンで焼くことはできない。


 レインレインのオーブンは、もちろんバゲットの焼成に十分な奥行きがあるが、園田には一度も作らせたことがなかった。彼が毎日焼いているフランスパンは、バゲットより小型のフィセルとベーコンエピだ。


 美智子は、園田に一冊の古いノートを貸した。美智子の父が遺したレシピだ。父の当時に店頭で販売していたパンの焼き方が、一つ残らず記録されている。


「昔は、うちでもバゲットを焼いていたのよ。あたしと父が二人で店を切り盛りしていたころはね。売れ残ることも多かったけど、父はバゲットを焼くのが好きだったの。質素なパンほど職人の腕が試されるんだって。

 あの時分とはオーブンが違うけど、工房の環境そのものは同じだし、このノートのレシピが参考になるんじゃないかしら」


 分厚いノートの表紙には、太いサインペンで、タイガーノートと記されている。虎の巻をもじったのだろう。子どもじみた嗜好が、いかにも父らしい。


「なんなら、コピーでもしちゃいなさい。まあ、今の時代、ご親切なインターネットとやらがあるから、パンのレシピなんて、いくらでも手に入るんでしょうけど」


 はあ、いえ、でも、自分は。下手な言葉で会話をつなげようとする園田の、もっさりとして時代遅れなところが、美智子にとって気楽である。


 美智子はインターネットを知らない。携帯電話も持たない。通信手段は、店と家の固定電話で十分だ。


 常連客の中には、レインレインの商品情報や日常記をインターネットで公開したらどうか、と提案する者もある。


 笑ってごまかしながらも、冗談じゃないわ、と美智子は思う。大事な店の情報を不特定多数の人間に向けて発信するなど、薄気味が悪い。


 店のパンを知りたければ、自分の足で買いに来て、自分の舌で味わえばいい。そもそも、お気に入りの店というものは、己の五感を研ぎ澄まして探し出すべきものだ。インターネットとやらでお手軽に調べられると考えるのが間違っている。



***



 二月二十三日である。華の勤務は、今日を含めて、あと二回きりだ。何の変化もなく淡々と仕事をこなす華が、美智子にはなんとなくうらめしい。寂しがるそぶりの一つくらい、見せたらどうかしら。


「出発はいつだっけ?」


 美智子が問いを投げかけると、華は洗い物の手を止めた。すぐに作業に戻るつもりらしく、シャツの袖をまくったままで、濡れた手を拭こうともしない。


「部屋は、二月二十八日に引き払います。わたし自身は、三月一日の午前中に、ひとまず実家に帰ります」

「じゃあ、バゲットを焼くのは二十八日の午後かしら。一日の朝に取りにいらっしゃい。二十八日の夜は、どこに泊まるの?」


 美智子が尋ねると、華は、少しきまりが悪そうに笑った。


「サークルの友達とカラオケに行って、朝まで歌います」


 若いわね、と美智子も苦笑した。


 華は大学の音楽サークルに入っていた。十一月の学園祭で引退した、と聞いた気がする。ギターが得意らしい。


 エレキギターを操ってロックを演奏し、歌うこともある。そう告げられた日には、美智子は唖然とした。それから、ようよう思い出した。アルバイトで見せる物静かな勤勉さは、華という人間の一面でしかないのだ、と。


「それじゃ、カラオケが終わったら、こっちに来なさい。五時半には開けてるから」


 華は小首をかしげた。肩に届かない長さの髪が、はらりと揺れる。もう一生、伸ばしません。疲れた目で宣言する以前は、背中まで長かった髪だ。あれは一年ほど前だっただろうか。


 レジ台の美智子の肩越しに、ミニキッチンの華と工房の園田の目が合ったようだった。美智子も工房のほうを振り返る。


「いいわよね、園田くんも。その日は三人で朝食をとりましょ。あたしが作るわ」


 園田は、のそのそとうなずいた。華は、はいと返事をして、中途半端な洗い物を再開した。美智子は、次の話題を切り出したいのを、華の洗い物が一段落するまで待つことにした。


 午前十時。いつも比較的落ち着いている時間帯だ。有線ラジオから、古い映画音楽が流れている。何という映画の何という曲だったか、美智子には思い出せない。


 華は洗い物を終えると、美智子が声をかけるより先にホールに出て、近所の主婦らしい女性客のグラスに水を足した。ありがとう、と客が会釈し、ごゆっくりどうぞ、と華が浅く頭を下げる。


 水のポットを手に戻ってきた華を、美智子はつかまえた。


「華ちゃん、卒業した後は別の大学の大学院だっけ。工学部だったわよね」

「はい。建築科です」

「そうだったそうだった。聞いたこと、何度もあるわね。そうよ、図面というのかしら、あれも見せてもらったことがあるわ。確か、船の設計図」


 華はポットを置いた。


「子どものころ、祖父と約束したんです。わたしも祖父と同じ仕事をするんだって。祖父は、造船所で船舶の設計をしていました」


 ああ、と美智子はあいづちを打った。たぶん、その話も以前に聞いたことがある。


「おじいさん、喜んでらっしゃるでしょ」


 きっとあの世で、と華はうなずいた。


 そうだった。美智子は思い出した。華が一年生だった年の晩秋から初冬に、彼女はしばらく実家に帰っていた。祖父が亡くなりました、と告げる電話口の声は凍えていた。


「バゲットは、祖父が好きだったんです」


 からん、と表の木戸のベルが鳴る。いらっしゃいませ。華は接客用の声を作った。話はここで途切れた。


 華の祖父ならば、美智子の父よりもいくらか若いはずだ。華の親は大変な孝行者である。華のような子を生んだという功績を立てたのだから。


 あたしは父に何の孝行もしてやれなかった。


 女ばかりの短大を卒業した後、服飾関係の会社に就職し、職場の同僚といい仲になって、気が付いたら身ごもっていた。美智子は退職と入籍を決めた。父は反対した。美智子に甘かった父が、初めて美智子を怒鳴りつけた。


 美智子は家を出て、相手のアパートへ転がり込んだ。夫となった男は、ある夜から突然、美智子に暴力をふるうようになった。胎児は美智子の体の中で死んだ。


 誰かに愛されたかった。だから浮気をした。壊れた生活に疲れた女の腐った色気は、ろくな男を呼び寄せなかった。少しでもましな男に巡り会うため、美智子は不倫の恋を重ねた。


 美智子が正気づいたのは数年後だった。四度目の流産で死にかけた拍子に、不意に現実が見えた。自分が愛と呼ぶものは、肉欲を掛金とする賭博でしかない、と。


 どこで勘違いしてしまったのだろう。男がほしかったわけじゃない。あいつらは、女が腹を見せれば牙をむく浅ましい生き物だ。


 赤ん坊だって、もうほしいとも思わない。あのちっちゃな命はいつも、あたしが「せめてあんたと生きていきたい」と願うたびに、勝手にこの腹の中で死んでいくんだ。


 あたしがほしいのは、ちっぽけな幸せだった。


 美智子は夫と離婚し、父の元に戻った。二十六の冬だった。父は優しかった。自分の言うとおりだっただろうなどと勝ち誇ることもなく、ただ美智子をいたわった。


 中谷姓から離れていた数年間の記憶は、泥沼のようなものだ。濁った水底は異臭を放っている。手のひらにすくい取れば、形のない泥水はどろどろとこぼれ、しかしすっかり落ちてしまうこともない。いつまでもまとわりついて離れない。


 そうか。今年で、ちょうど三十年だ。


 ふと美智子は、この店が今、創業何年になるのか気になった。今日、店が引けたら、押し入れの中の父の遺品を調べてみようか。

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