函館の墓場
松本周
函館の墓場
2002年6月6日、僕は大学を休んで羽田発函館行きの飛行機に乗った。梅雨が始まりかけていてやたら蒸し暑い日が続いていたが、その日は暑くも涼しくも無く、僕はシャツ一枚とジーンズという格好で窓際の座席に座り、遅々として離陸せずにゆるゆるとスクロールする羽田空港の灰色っぽい芝生を眺めていた。
父とともに日韓共催のワールドカップを観戦するためだった。試合が開催されるのは翌日、札幌だったが、親父はチケットに当選した時から、函館に立ち寄ってから行くことに決めていた。そこが親父の生まれ故郷だったからだ。
函館には僕も一度だけ行ったことがあった。5歳の時に一家で旅行と墓参りをしたのだ。それ以来かれこれ一五年ぶりだったが、親父の方も僕が生まれてからはほとんど函館に戻っていなかった。その家族旅行以外では、姪の結婚式に参加するために帰ってきたのが一度。それだけだった。薄情と言えば薄情だが、僕の実家がある愛知県の片田舎と函館の隔たりは、特別な用件が無い限り気軽に立ち寄れる距離ではなかった。そういう事情があったから、2001年の半ば頃にワールドカップのチケット一次申し込みが行われた時に、申し込み先として父の選択肢に札幌が自然と上がったのであって、でなければ僕たちがわざわざ北の大地でワールドカップを観ることなどあり得なかった。そして、アルゼンチン対イングランドという好カードを観戦することはできなかっただろう。それは全くの偶然だった。チケットの申し込みをした時参加国は決定しておらず、当然予選の組み合わせも決定していなかった。まだ名前が空っぽのグループリーグ表と決勝トーナメント表の中に、開催場所と日程だけが記されて選択肢としてあり、父は深く考えずにその中から札幌の1試合を選んだのだった。組み合わせの決定後、ネットオークションで1席最高20万円という異常な金額で取引されることになるプラチナチケットを初めから狙って行ったわけではない。
ワールドカップのチケットが当選することだけでも幸運なのに、このカードを引き当てた親父は強運を持っていたと言える。大体、親父はその数ヶ月前からツイていた。サッカーくじのロト6で1等に当選して15万円を当てたのだ。親父は破顔一笑して、これをワールドカップ旅行の資金とする、と宣言した。もう試合チケットに当選する気でいたわけだが、実際、蓋を開けばこの通りだ。時々パチンコに行っては数千円をすり、同僚とマージャンしてはささやかに負けて母から怒られる、運否天賦の勝負に一度として勝ったことのない親父の背を見て「俺にはギャンブラーの血は全く流れていない」と幼いころから認識して育ってきた僕には、この諸々の結果は何かの間違いとしか思えなかった。さもなくば、親父がそれまで積み上げてきたじりじりと分厚い負けの山は、このささやかな勝利のための正当な投資だったのかもしれない。
とにかく僕はその親父の幸運の分け前に預かり、北海道に向かったわけだった。僕は大学で地方に出て一人暮らしをしていたので羽田から飛行機に乗ったが、親父は名古屋から向かっており、現地で合流する手はずになっていた。ようやく離陸した飛行機の中で、MDウォークマンでプリンスを聞きながら、窓の外を眺め、腕時計を見た。もう親父は函館空港で僕を待っているはずだった。
雲の海を通り抜けて函館空港にたどり着くと、空港のロビーで正月以来半年ぶりに会った僕と親父は、何よりもまず昨日のドイツ対アイルランドの試合の話をした。ドイツが一点リードで迎えた後半ロスタイム、アイルランドの若きフォワード、ロビー・キーンが魂の同点ゴールを決めた試合だ。あれはヤバかった、と僕が言うと、あれは凄かった、と親父は頷いた。
空港の近くでレンタカーを借りて、僕らは伯母さんの家に向かった。その、親父の
姉家族だけが、僕が唯一きちんと見知っていた親父方の親戚だった。車の運転をしたのは親父だった。僕は免許を一応持っていたが、それは完全に身分証明書としての機能しか果たしておらず、取得してからほとんど車を運転していないままもう二年が経っていた。函館の町には霧が出ていた。僕が窓を少しだけ開けると、潮の匂いがした。海のすぐ隣の道を走っているのだ。
親父は、今回はワールドカップはおまけで、メインは俺達の親戚参りだ、と言った。北海道の各地に親父の叔父さんや叔母さんたちが住んでいるので、彼らを訪ねていく旅なのだと。
愛知県の田舎の狭い範囲に結集してしょっちゅう顔を合わせていた母方の親戚に比べると、僕にとって親父の家系は謎に包まれていた。今現在、結局親戚の誰が生きていて誰が死んでいるのか、まるで分からない。三人か四人兄弟がいたが、生きているのは親父と伯母の二人しかいないということだけは知っている。僕は親父方の祖父にも祖母にも、一度も会ったことはなかった。親父が僕の生まれる七、八年前に函館から愛知県にやって来たときには、もう二人はどちらも亡くなっていたのだ。そして祖父や祖母の兄弟たちとなると、これまでその存在を話にさえ聞いたことが無かった。親父は僕と違って比較的無口で、積極的に過去の話をしない男だったし、もし話を聞いていても、気軽に会えない存在であるならば、僕は彼らの情報を記憶にとどめておくことが難しかっただろう。
伯母さんと伯父さんに出迎えてもらい、お久しぶりです、と挨拶すると、伯母さんは痩せてるわねえ、と僕と親父を見比べて言った。親父と比べて身長は僕の方が5センチ以上高いのに、体重は15キロ近く少なかったから余計そう見えたのだろう。そして伯母さんは訝しげな視線を僕に送っていた。無理もない。僕はその時髪を赤茶色に染めて、イングランド代表ミッドフィルダーのデイビッド・ベッカムのごとくワックスで髪を立て、今しがた鉄条網を乗り越えてきたばかりの亡命者のようなダメージジーンズを穿いていたのだ。函館の保守的な中年女性に気に入られる容姿とは僕自身思えなかった。
昼食をご馳走になった後、僕らは伯父さん伯母さんと共に僕ら一家の墓に向かった。十五年前に一度訪れたきりだが、その場所の事は良く覚えていた。海辺の、函館山に近い外人墓地のすぐ近く、坂を登って行った先にある寺だった。車を降り、その寺の敷地の奥、立ち並ぶ墓石と木々をかき分けて細い道を上っていった小高い所に、僕ら一族の墓はあった。既に霧は完全に晴れていて、辺りは緑の匂いに覆われている。ぼろぼろに朽ち果てて何が書いてあるのか良く分からなくなりかけている小さな三つの墓石は、ぽつぽつと生えた雑草の中でうずくまるようにして海に向かって立っていた。僕は墓石の横に立ち、大きな木の枝に覆われた視界の向こう、眼下に広がる三日月型のアーチを描く海岸と青い海を眺めた。波は白く穏やかで、何隻かの船が往来する様子がくっきりと見えた。夏になる手前の穏やかな空気に覆われた、美しい景色だった。
いい天気ねえ、と伯母さんが言った、「昨日まで雨が降ってたんだけど、今日はあったかくて言うことないわ」
僕と親父は頷いた。素晴らしい天気と素晴らしい景色だった。久方ぶりに見る先祖の墓は恐ろしく小さくみすぼらしかったが、領土を区切るような主張もせずに地面に直に立つその様は、まるで山道で旅人の安寧を祈る地蔵のように親密で穏やかな空気を纏っていた。
親父は伯母さんたちと話をしていた。この墓もずいぶんぼろくなってきたな、という話だった。もともとはもっと広かった墓の敷地が、傍に幾つも建てられた新しい墓に侵犯されて、かなり窮屈なものになっている。このままじゃいつか墓場の前に座って手を合わせるスペースもなくなってしまう……
それにしても、と僕は思った。話には聞いていたが、親父の家は本当に貧乏だったのだな。この墓を見ているとそれが良く分かった。窮屈な空間に互いに寄りかかりあうように三つ並んだ墓石には今風の台座などはなく、土の上に直に立っていて、まるでテーブルサイズのクリスマスツリーのようだった。一升瓶の方がまだ存在感がある。三つの墓がそれぞれ誰の墓なのか僕にはまるで分からず、その読めない文字をじっと見つめていると、一番右の墓の隣に白く薄汚れた石ころが転がっているのを見つけた。拳4つ分くらいの大きさの石だ。ぼろぼろになった墓の破片のように見えたが、そこにも何か戒名らしき文字が刻まれていた。僕が親父にこの石は何だと訊くと、俺の姉さんの墓だ、と親父は答えた。まじかよ、と僕は言った。
親父が寺にお布施を払い、墓の前で寺の坊さんに念仏を唱えてもらうと、僕と親父は一旦伯母夫婦と別れて、函館の町をドライブした。函館山に行き、二人で煙草を吸った。そして、親父の生まれ育った家の近辺を車で走った。こここんなに狭かったか? お決まりの台詞を親父は言った。かなり狭かったという親父の生家は、勿論とっくに取り壊されて無くなり、今ではそこには全く見知らぬ人が住んでいる。その場所から親父が通っていた小学校までは、車でたったの一分で着いた。坂の上にあり、冬には親父はこの坂でいつもスキーをしていたらしい。
あっという間だな、と親父は言った。「車で走るとあっという間だ」
そう言えば多分、親父にとってはこの町を車で走るというのはほとんど無い経験だったのだ。親父の気持ちは僕にも多少分かる気がした。僕も十五年前この町を一度だけ訪れたわけだが、親父の運転する車から景色を眺めていると、その時の記憶がよみがえって来て、その頃からもずいぶん街の様子は変化しているのが分かった。建物は整然と立ち並び、道が全て美しく舗装されている。確か十五年前は土の道がずいぶんあった。親父に僕がそのことを訊くと、そうだ、と親父は応えた。「見事な観光街になったな」。そして親父は暫く後で、昔は良かった、なんていうのは絶対嘘だな、と言った。
「車も無いしテレビも無いし風呂さえ無かった。どう考えても良い時代なわけない」
そして僕たちはカーステレオでビートルズを聞いた。僕がMDに録音したビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」だった。
僕と親父は二人で「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を歌った。懐かしい、と親父は言った。「いやな記憶がよみがえって来る」
どんな? と僕は訊いた。
「中学の頃、クラスに厭味な金持ちがいて、ビートルズのサージェント・ペパーズは物凄いアルバムだからお前らみんな聴いた方がいい、とか言っていた。でも俺は聞き流すしかなかった。プレイヤーなんかないから聴けやしない。おふくろが俺の手袋を編んでるような家にレコードプレイヤーなんかあるわけがないよな」
僕は頷いた。それから三〇年経ったある日に、中学生になったその息子がビートルズの全アルバムをレンタルショップで借りてきて一週間で全部聞き通した時、父の復讐は時を超えて知らぬ間に果たされていたわけだった。親父は七歳か八歳の頃母親につれていってもらった映画館で「ベン・ハー」を見た。チャールトン・ヘストンとハイヤ・ハラリートのキスシーンでは、僕の祖母は親父の目を、見ては駄目だと言ってスクリーンから手で隠した。三十年経って僕は、「ベン・ハー」のビデオを三十回見て、DVDも買ってさらに二十回見た。何も変わっていない。しかし何もかもが変わった。三十年経つというのはそういうことだろうから、町の景色が全く見覚えのないものになるというくらいは当然のことだった。
親父は伯母さんの家に帰ると、同じことを伯母さんにも言った。この街も時代も今の方がいい、と。しかし伯母さんは、昔の家の、木のぬくもりは暖かかったよ、と言った。今の家は鉄骨で、暖かみなんてないから、つまらないよ。親父は、うん、まあそうだな、と頷いた。僕はずっと黙っていて、たぶんどっちも正しいんだろうと思った。重要なのはこの二人が恐ろしく貧乏な生活環境をくぐりぬけて何とか今まで生き残ったということだと思った。
翌朝、僕と親父は函館駅から特急電車「ほくと」に乗って札幌に向かった。電車の乗客の半分は、函館で観光をしていたイングランドサポーター達だった。ビールとポテトと肉で育ったやたら巨大で分厚い体で車内を行き来する彼らを眺めて、僕は連日テレビで特集されていたフーリガン特集の映像を思い出した。発炎筒を携えた彼らは徒党を成してスタジアムに向かい、ゲームの戦況に応じて敵サポーターを取り囲み徹底的に痛めつける、といった恐怖をあおる映像が繰り返し流され、まるで来日観光客のほとんどがテロリストであるかのようなイメージ付けがされていたのだった。フーリガンをやっているような連中はブルーカラーの低所得層で、こんな極東の島国まで高いチケット代と旅費を払って遠征してくるような財力は無いということはメディアではほとんど指摘されなかった。もしも彼らに暴動を起こすつもりがあるのなら、全員が日本の警察官よりもでかい体をしているわけで、結局誰にも押さえられないだろうなと思いながら、僕はずっと窓の外を眺めていた。電車は延々海沿いを走っていて、ほとんど変わらない景色を見ているうちに、僕は眠りに落ちた。
目が覚めると札幌だった。
僕と親父は、試合が開催される札幌ドームに向かう前に、札幌市内に住む僕の祖母方の妹夫婦のもとを訪ねた。僕はそこで二人の顔を見た時、口には出さず、無言で微かに息を飲んだ。胸が少し震えた。僕は写真以外で一度も自分の祖父母の顔を見たことがなかったのだが、もしも生きていたとしたらこんな雰囲気に違いない、と思うような夫婦だった。穏やかで地味で、眼差しはあくまで理知的だった。僕は相変わらず赤茶色の髪の毛で派手な服を着ていたのだが、二人は初めて会う僕を大いに歓迎してくれた。二人はどちらも数年前に大きな病気にかかったらしい。大叔母さんのほうは、今も足が弱って外出できないのだと言っていたが、表情は元気だった。
家族や親父の仕事の話を経て、話題はまた函館の墓のことになっていった。あの墓はかなり傷んできている、何とかしなくちゃならないな、という話だ。親父が、長男でありながら今までほとんど函館に戻ってきていないから、こういうときにしか話さざるを得なかったのだろう。
そう承知はしながら、正直に言って、僕にはその問題の切実さは理解できなかった。久しぶりに会って一番重要な話は墓のことなのか、と思った。そう言えば北海道に着いて以来、話題のほとんどは死人とこれから死ぬ者に関することばかりだった。お前もあの墓に入ることになるんだから、と言われて頷いたが、現実味は全く無かった。事実だろうから笑い飛ばすつもりも反論するつもりもなかったが、僕は若く、二十歳になったばかりで、死は己の生活から遠くかけ離れた地点にあった。
「あのお墓の中に、白い小さな墓石があったでしょう?」
大叔母さんは親父にそう話した。姉さんの墓石の事? と親父は訊いた。あの白い石ころのことか、と僕は思った。
「あそこに彫ってある名前は、あんたのお父さん、裕司君のお祖父さんが、彫ったのよ」
覚えてない? と訊かれて、いや、そうだったのか、と親父は応えた。
「初めての子どもだったからねえ、あの人が泣きながら文字を彫ってたの、覚えてるわ」
何て話だ、と思いながら、僕の胸は若干熱くなった。熱の上昇を止められたのは、大叔母さんの話を聞きながら、既に親父が泣きそうになっているのが横目に見えたからだった。初めての子どもの墓があんな石ころだなんて。僕の中にある祖父の「伝説メモ」に新たな一行が書き足された瞬間だった。
僕は祖父の伝説を親父から幾つか聞いていた。当時函館で誰よりも頭が切れたらしく、町内の有力者も祖父さんのところに色々相談に来たりしていたのだそうだ。しかし個人商店を経営して上手く行っていたはずが、悪友の保証人になって一文無しになった。若い頃はとにかく猛烈に勉強した。ありがちな話だが、あまりにも猛烈すぎた結果、彼は、辞書の一頁を完璧に覚えるたびにそれを食ったらしい。十年以上前に親父に聞かされたその話の真偽を確かめようと思って、大叔母さんに本当かどうか聞いてみた。ええそうよ、大叔母さんが応えると、僕達は笑った。
僕らは試合のある札幌ドームに向かわなくてはならなかったので、長い時間留まっている事は出来なかった。僕と親父は、お元気で、と言ってそこを後にした。大叔母夫婦の僕に対する優しい表情が脳裏に焼き付いていて、札幌ドームに向かう僕の頭の中でリフレインした。二人は明らかに、若かったころの親父と、函館一の秀才だった祖父の面影を、僕の顔に重ね合わせていた。アルゼンチン対イングランド戦に思いをはせて緊張していた僕の表情は、それに答える事が出来ていただろうか。
札幌ドームに着き、半年以上前から待ちつづけていた試合がようやく始まるのだ、と思うと僕と親父は本格的に緊張し始めた。大体僕はサッカーの試合を生で観戦すること自体久し振りだった。スポーツの真剣勝負は常に、お祭りであると同時に神聖な緊張を伴うものだが、ワールドカップの祝祭感と緊張感は格別だった。単純に空気がぴりぴりしていたというのとは違う。人々の衒いの無い笑顔と、そこに込められた分厚い期待が、日常ではあり得ない空気を辺りに充満させるのだ。スタジアムの周りはイギリス人もアルゼンチン人も日本人も一緒くたになった人々でやたら混雑していたが、入場口を越えてしまうとその波が急に穏やかになった。当然、そこから先はチケットを持つ者しか進むことはできない。ほとんどの人間はお祭りに誘われて集まってきた野次馬に過ぎなかったわけだ。ささやかだが自分たちは選ばれた存在なのだと思うと、俄然緊張と興奮は高まった。マスコミがネタになると思って勝手に騒いでいるだけで、フォークランド戦争とか神の手とかそういう歴史的な因縁は試合が始まってしまえば全部嘘だと思っていた。僕にとっても親父にとっても、ワールドカップを見られるのであれば、試合の組み合わせは何でも構わなかったはずだった。だがそれでも、ベッカム、オーウェン、ファーディナンド、バティストゥータ、ベロン、シメオネがこれからここで戦うのだと思うと、改めて自分たちの幸運に感謝しないわけにはいかなかった。スタジアムの座席に座り、僕たちは試合開始を待った。
そしてベッカムが現れた。
登場した最初の瞬間から、デイビッド・ベッカムという選手の存在感は異常だった。彼の全身は輝いていて、人としてのリミットを超えたようなオーラをスタジアム全体に放っていた。決して誇張ではない。あの試合を現地で見た者は、アルゼンチン人を除いて全員がベッカムのファンになったはずだ。僕は試合前はどちらかと言えばアルゼンチンよりで、特にベロンがブラジルのリバウドと並んで最も注目していた選手だったのだが、ベッカムに全て吹き飛ばされた。試合前に最後のウォーミングアップをするために、イングランドチームがキャプテンの彼を先頭にして、ピッチに突撃するように一斉に入ってきたときの光景ははっきり目に焼き付いている。僕が座っていた席はスタジアムの真中辺りの高さにあって、彼の顔が良く見えたわけではないのに、彼の尋常ならざる格好良さだけは充分すぎるほどはっきり分かった。スタジアムの観客全員が同時に彼を見つめているのも分かった。彼が、絶対に勝つ、という強烈な不退転の意志で戦いに挑もうとしているのが、その時点で観客全員に伝わった。彼はゲームが始まる前から大観衆を味方に付けていたのだ。そして彼はPKで得点を決めて、勝った。イングランドのディフェンスラインは美しいほどに完璧だった。ベッカムは勝利の後、チームメイトが皆ロッカールームに帰った後も、スタジアムのイングランドサポーター達に向かって手を叩きつづけた。これがスーパースターなんだと僕は思った。ベッカムには後光が射して見えた、と親父は言った。この90分という試合時間は、僕の人生でも最も早く過ぎ去った90分だった。
僕と親父のワールドカップ観戦は終わった。ほとんど一瞬の出来事だったが、僕は日本にワールドカップが来てくれて本当に良かったと思った。これほど楽しい時間は人生でもそう何度も繰り返されることは無いだろうと思った。
すすきのでラーメンを食いながら、僕と親父は試合について語り合い、店の隅に置かれたテレビのニュース映像で繰り返し流れるベッカムのPKシーンを眺めた。そして親父は周りの客に、今しがた自分たちはあの試合を見て来たばかりなのだと自慢した。
ホテルへの帰り道で親父は、もし、四年後のドイツのワールドカップに日本が出場できたら、またワールドカップを見に行こう、と言った。
四年後かあ、と僕は言った。
それはあまりにも遠い時空の事象だった。四年後を想像するということは、二十四になった僕を想像するという事だ。そんな先のことなど分かるはずがない。だが僕は、分かった、と約束した。
アルゼンチン対イングランド戦が終わっても、僕たちの親戚参りが終わったわけではなかった。再びレンタカーを借りて、函館への戻りがてら、今度は伊達に住む祖父の従弟の下に向かった。他にもまだ血縁は残っているらしいが、それが今回最後に訪ねた親戚だった。札幌から高速道路に乗って二時間ほどかけて辿り着くと、三十年くらい前に訪れたきりだというその町で、親父はほとんど道に迷わなかった。そういうところは僕と似ている。人の顔や名前は忘れがちでも、一度行った場所、一度通った道のことは良く覚えているのだ。
祖父の従弟が、いらっしゃい、と僕たちを出迎えてくれた。僕から見て直接の親戚と言えるかどうか分からない遠めの血縁だったからというわけでもないだろうが、親戚を迎えると言うよりは、長旅を経てたどり着いた旅人を出迎えるような雰囲気だった。妻に先立たれた後の終の棲家での静かな日々を淡々と繰り返していたのだろうから、稀の客人であれば僕たちでなくとも誰でも歓迎してくれたのではないだろうか。
僕たちは互いに名字さえ異なっていた。祖父の従弟に始まった話ではなかったが、今回会った親戚に、僕の家の松山という苗字を持つ者は一人もいなかった。残った松山家は僕ら家族だけで、いずれ姉と妹が結婚してしまえば、僕が最後の一人になる。親父は僕が子どもの頃から、松山の苗字はもうお前しかいないんだからちゃんとしてくれよな、というようなことを時々呟くように言っていたが、僕は、朽ち果てた墓の事と全く同じように、ほとんど実感としてその意味が理解できなかった。しかしこうして僕と親父の苗字を持たない親戚を訪ねていると、親父の気持ちがなんとなく分かるような気がした。
祖父の従弟が、僕たちを歓迎しつつも、僕のことは訝しげに見ているのが分かった。彼はちらちらと僕の赤茶色の髪に目をやっていた。邪険にされたというわけではないが、この若者はいったい何者なのだろうと思っている感じがした。僕が上手くそれを説明できれば良かったのだが、自分自身にさえうまく説くことができないことを、一度も会ったことのない親戚に話せるはずもなく、ただ自分なりに穏やかな表情で無言でいることしかできなかった。
話題は三度函館の墓のことになった。祖父の従弟は、「墓を建て直すべきだ」と主張した。そのためには必要なら自分も金を出すから、と。親父は、俺もそう思ってたんだが、と言った。「俺がどうにかするよ」
二時間半ほどそこにはいたが、結局墓の話以外のことは、ほとんど何も話さなかったはずだ。曾祖父の代にあの墓が立てられ、親戚が増えて死んでいく毎に墓が一基ずつ増えて行った。四つの墓はそろそろ一つのきちんとした墓石に統一されるべきだろうと祖父の従弟は言った。
お元気で、と挨拶してその家を辞すと、僕たちは函館へのドライブを再開した。
お前どう思う、と親父は僕に訊ねた。「俺たちの墓の事だけど」
言われずとも、あまり墓の話ばかりを聞かされたために僕も考えざるを得ず、ちょうどそれを話そうと思っていたところだった。
「親父の好きなようにすればいいんじゃないの」
そう僕は言った。しかし実は僕は、親父に墓を建て直すつもりがあるとは思えなかった。親父は感傷的な男だ。親父に、あの、祖父が泣きながら娘の名前を彫ったという石ころの墓を捨てて、新しい墓を建てることができるとは思えなかったのだ。
僕は、親父に訊いた。どうしてみんな墓の話をするんだろう?
「もうすぐ自分がそこに入るからだろ」
そうか、と僕は言って笑った。函館までの道は、僕が今までほとんど見たことのない、真っ直ぐの広い道だった。札幌に行く途中電車から見えたように、同じような海の景色を眺めていたら、僕は眠ってしまった。
僕らは函館の伯母さんの家に戻ってくると、夕食をご馳走になりながら再び墓の話をした。といっても話していたのは父と伯母と伯父の三人で、僕はテレビの前に座りこんで、イタリア対クロアチアの試合をじっと見つめていた。親父は、墓は建て直した方が良いだろうと伊達のおじさんから言われたがどうだろう、と伯母さんに相談していた。僕が予想していたとおり、伯母さんは首を横に振った。私あのお墓が好きなのさ、いい雰囲気だもの。僕はテレビの向こうでトッティが死ぬほど真剣な顔でフリーキックを蹴るのを見つめながら頷いた。親戚も年寄りばかりになって、函館を訪ねてくる者も余りいなくなって、いつも墓のお参りをしたり掃除をしたりしているのは伯母さんなのだ。
うん、そうだな、と親父は頷いた。
この北海道にいる間もずっとそう思っていたが、親父はほとんど誰の言葉にも逆らわない。自分で考えている事はあるのだろうが、それを他人にあまり言わないし、説得しようともしない。そういうところは僕とはまるで逆だった。
話はなんとなく終わって行き、僕たちは寝床に就いた。墓の未来が結局どうなるのかは、よくわからないままだった。立て直すのか直さないのか、少なくなっていく墓の敷地をどうするのか、具体的な方針は結局その場では決定されなかった。僕に何かそのことでするべきことがあるというわけでもないので、関係ないと言えばそれまでだが、要するにどうなるのだろうかと気にはなった。
布団に潜り込んだものの、車の中で何時間か眠っていた為に僕は眠れなかった。暫く布団の中でごろごろしていたが、別に無理に寝る必要もないんだな、と思うと、僕は起き上がった。そして、夏になりかけているとはいえ夜は冷える外に出た。僕は慌ててジャケットを取りに部屋に戻った。そして、親父の鞄からレンタカーのキーを取り出して、黙って家を出て行った。
車の運転をするのはかなり久しぶりで、しかも夜に運転するのは初めてで、さらに見知らぬ土地を走るわけで、僕はがちがちに緊張して車を走らせた。僕は墓場に向かった。ドライブできればどこでも良かったのだが、はっきり道を覚えているのがそこしかなかった。何度か車をぶつけそうになったが、なんとか無事に着いた。既に駐車場への入り口は閉じていたので、寺の前の路肩に車を止めた。辺りは完全に静寂と暗闇に包まれていた。細い道を登って行き、四つの墓の前に僕は立った。
そして煙草に火を点けた。
旨い、と僕は呟いた。墓を取り囲む木々の向こうに見える暗い海を眺めた。しばらくして僕は振り返り、煙草を消して携帯灰皿に仕舞い込むと、墓に向かって手を合わせた。
今何時だろうか?
僕は何故かその時、時間が止まれば良いのに、と思った。そんな事はそれまでほとんど思った事がなかった。僕はしゃがんで、石ころのような白い墓石を取り上げた。札幌の大叔母さんの、お祖父さんが泣きながら彫ったのだ、という言葉をまた思い出した。親に墓を作らせるなんて最悪だ。僕は初めて、自分の祖父母に会いたいと思った。一度でも会った事があれば、と思った。もし彼らが生きていたら、僕を見てどう思っただろうか。親父の親だ、たとえ僕が何者か分からなかったとしても、僕を可愛がるに違いない。僕はもう一度墓に向かって手を合わせ、今度来る時は一人前になったときです、と何の根拠もない事を誓った。
翌朝僕たちは函館空港に向かった。伯母さん家族は見送りに来てくれた。誰も昨夜の僕の外出には気が付いていなかった。函館空港で飛行機を待つ間、初めて会話が僕の話になった。大学を卒業して何をするのか、何になるのか、ということを訊かれた。僕は、自分で考えている事があったが、今はまだ分からないと応えた。僕が考えているとおりに僕がなるのなら、それは実際にそうなった時にしかはっきり意味が伝わらないはずだった。とにかく頑張ります、とだけ僕は言った。
あの墓の事だけど、と最後に親父が言った。「建て直そうと思うんだ。いいかな?」
伯母と伯父と僕は頷いた。
「じゃあ綺麗で立派なお墓にしてあげなきゃね」と伯母が言った。
羽田行きの飛行機が離陸すると、僕はまた眠った。
この日の夜、日本がロシアに1―0で勝った。日本サッカー史上初の、ワールドカップでの勝利だった。僕は自分のアパートに友達を呼んで応援した。ワールドカップはこの二十日後、大会最高のゴールキーパー、オリバー・カーンを擁するドイツを打ち破ったブラジルの勝利によって終わった。
函館の墓場 松本周 @chumatsu11
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