こんにゃく閻魔の数奇な旅をした梵鐘
駅員3
こんにゃく閻魔の鐘
文京区を走る『千川通り』は、正式名称を都道436号小石川西巣鴨線という。後楽園のある冨坂下から上池袋を結ぶ幹線道路で、東京西部から都心方面に出るときに便利な道だ。昔はこの千川通りには『千川(小石川)』と呼ばれる川が流れていた。
たびたび氾濫することから、昭和9年に暗渠となり、その上を千川通りが走ることとなった。
かつて、この千川に面したこんにゃく閻魔の入り口に架かる橋を『嫁入り橋』と呼ばれていたという。名前の由来は定かではない。 こんにゃく閻魔は『浄土宗常光山源覚寺』といい、1624年(寛永元年)に創建された古刹である。千川通りの『こんにゃくえんま前』交差点に面して、幅二間程度の参道が続いている。
以前は参道の両側をに昭和の香がプンプンする木造の店舗兼住宅が建っていたが、数年ぶりに訪れると、左側をの建物は取り壊されて空き地になっていた。右側の建物は、通りに面した二階の窓はアーチ形になっていて、参道に面した壁は今では珍しい板壁であることから、昭和初期の建物ではないだろうか。ここら辺は後楽園にあった砲兵工廠に近かったものの、戦災を免れている。
千川通りから参道を入ると、正面にある閻魔堂の前に置かれた黒光りした大きな賽銭箱には、鮮やかな朱で左右に「め め」と書いてある。左側の「め」は鏡像で描かれており、左右対称だ。
こんにゃく閻魔の名の由来は、宝暦年間(1751年~1763年)に眼の悪いお婆さんが三七日の祈願をすると、その満願の日枕元に閻魔さまが現れて、「われの日月に等しい両目のうち、一つを抉り取って汝に授くべし」と告げてお婆さんに右目を与えたため、閻魔像の右目が黄色くにごっているといわれている。
閻魔堂に安置された閻魔さまを見ると、確かに左目は白目を剥いて正面を見えているが、右目は色は判然としないものの、濁って目玉がないように見える。
お婆さんは感謝の印に大好物の『こんにゃく』を絶ち閻魔さまに供え続けたことから、 眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
この閻魔像は鎌倉時代の作とされ、運慶派の流れをくむ造りで文京区の有形文化財に指定されている。閻魔堂の前には、ざるにうず高くこんにゃくが積み上げられて供えられていた。
ところで『閻魔さま』を、なんでご本仏として本堂に安置しているのだろうか? 都内には閻魔さまを祀った寺がいくつかあるが、『閻魔さま』は『地蔵菩薩』の化身とされ、地蔵菩薩の慈悲を表す姿だといわれている。恐ろしい形相をして、悪いことをして地獄に落ちないように人々を戒めているのである。
本堂から右手奥に進むと、小さなお堂にお地蔵さまが安置されているが、まるで雪にうずもれているように見える。近づいてみると雪にうずもれているわけではない。塩地蔵尊とよばれ、塩にうずめられているのだ。自分の患っているところと同じお地蔵様の部位に塩をかけてお参りすると、霊験あらたかに治るのだそうだ。そのほか境内には如来像や毘沙門天が祀られている。 また境内のあちこちに、奉納された絵馬が提げられているが、さすがに閻魔さまを描いた絵馬が多い。
本堂右手前の小高い山の頂上に鐘楼が建っている。この鐘楼の鐘は、実に長い旅をしてきた鐘である。
1690年(元禄3年)に鋳造され長くこの地に響き渡ってきたが、1937年(昭和12年)、当時日本の信託統治領だったサイパン島に建立された南洋寺に渡り、南太平洋にその鐘の音を響かせることとなる。
1944年(昭和19年)サイパン島の軍民玉砕により鐘も行方不明となったが、1965年(昭和40年)にアメリカテキサス州オデッサ市で日系人により発見された。
この鐘は色々な寺で見かけるくらいの大きなサイズで、簡単に持ち去れるものではない。近寄ってみてみると、戦闘により受けた弾痕だろうか、あちこちに傷跡が残っている。
現在サイパン島の南洋寺跡に出向くと、『浄土宗多寶山南洋寺』と記された当時の石造りの門柱が残されている。
発見後オデッサ市と源覚寺で話合いがなされて、1974年(昭和49年)にようやく里帰りを果たした。1937年(昭和12年)に旅立って以来実に37年ぶりの帰山だ。
里帰りする鐘の話しがもっとあるのではないかとさらに探してみると、意外と多いことに驚かされる。
古くは、娘道成寺で有名な和歌山県最古のお寺さん、道成寺の鐘である。道成寺は鐘の無い寺として知られていたが、今から600年ほど前に鐘が寄進される。
ところが寄進された鐘が豊臣秀吉軍によって持ち去られ、現在では、京都の妙満寺に保存されている。その鐘が2004年に妙満寺から道成寺に2ヶ月間里帰りした。
山形県にある月山神社の鐘も戦争で翻弄された鐘である。月山神社の鐘は、藤原秀平が横沢金山で働く人々の安全を祈願するために寄進したとされ、鐘に「藤原秀平公於羽州月山大権現奉勧請」と刻まれている。
この由緒ある鐘が、1943年(昭和18年)に、金属回収で供出されてしまう。ところが戦後宮城県松島町の日吉山王神社に保管されていることが判明し、2010年(平成22年)にようやく里帰りを果たすことができた。
東京都品川区にある品川寺(ほんせんじ)の鐘は、家康、秀忠、家光三代の法名を刻み六観音を浮き彫りにした鐘で、幕末のパリで開催された万国博覧会に出品された際、盗難にあってしまう。
くず鉄として売られて鋳潰されようとしていたところをスイスの資産家が見つけて買取り、ジュネーブの美術館に展示されていた。
それが判明したのは、1919年(大正8年)のことだ。
その後返還交渉を続けた結果、1930年(昭和5年)に品川寺に返還される。当時日本政府の代表として返還交渉に当たったのが、小泉純一郎氏の祖父である小泉又次郎氏であった。
これが縁となり、品川区とジュネーブ市は友好都市となり、現在でも市民レベルでの交流が続いているという。
こんにゃく閻魔の数奇な旅をした梵鐘 駅員3 @kotarobs
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