幸福の香りにはさわれない

あずみ

幸福の香りにはさわれない


 客間の布団を畳んで一階に降りると、挽きたてらしい珈琲の香ばしい匂いが、リビングのとびらを抜けて階段ポーチまで広がっていた。おれは反射のように足指を丸め、なんだか言葉にならない、胸のざわめきを知った。

 ふ、と息を抜いて、細長い曇り硝子の埋まったとびらを開けると、焼き立てパン、バター、卵、果物、グラニュー糖の香りなんかが一気に押し寄せてきて、寝不足もあいまって、くらっ、と視界が揺れる。

 目の前にある四人掛けのテーブルには、手作りの朝食が並び始めていた。

「おはよう、章くん。どうぞ、座って」

「おー。どこでもいいぞ。テレビのそばにする?」

 同級生の恵とその母親に促され、おれは窓際の席に座るが、なんだか落ち着かなくて、尻がむずむずする。

 四人分の麻のランチョンマット。その上に、ベビーリーフとトマトと梨と半熟オムレツの乗った、木の皿が置かれた。テーブルの中央には、オーブンから出したばかりの胚芽パンや、お手製のジャムの瓶が並ぶ。おれの背中から、レースカーテンを透かして、朝の陽光が食卓をきらきらと輝かせるが、そんな演出はなくていいくらい、すばらしい風景だ。

 そうこうしている間に、恵の祖母が隣の和室から出てきて、昨日は暑くて寝苦しかったねえ、と、言いながら席に着いた。上品な白髪で、物腰も言葉も柔らかい。

「章くん、朝はなにを飲むの?」

「あ、……あ、なんでも――お気遣いなく」

「あのな、珈琲、紅茶、ハーブティー、冷たい茶、オレンジジュースがある。牛乳も」

「……じゃ、牛乳……、は、あっためて下さい」

 おれはあんまり場違いで――

 そう、役者でもないのに、台本を持たずにホームドラマの撮影現場に紛れ込んでしまって、冷や汗をかくような、ちょっとした悪夢を見た気分になりながら、同級生になぜか、敬語を使ってしまう。

 幸いなことに、恵は突っ込まなかった。

 あくびをしながら冷蔵庫から牛乳を出すと、マグカップに注いでオーブンレンジに入れる。ケーキを焼くボタンまである、やたら高性能なレンジには、油染みひとつない。

「あ、てつだおうか」

「いーよ。座ってて。母さんがやる」

 言って恵はおれの向かいに座り、テレビのリモコンをいじる。

「あれ、父さんは?」

「大事な会議があるって、朝早く出て行ったわ。はい、どうぞ。章くん」

「ありがとうござい、ます」

 恵の母親がレンジからあたたまった牛乳を差し出してくれる。祖母と恵の前には珈琲を、そして自分用らしい紅茶のポットを用意したところで、

「いただきます」

 恵が主導するかたちで、手をあわせた。

 他人が紛れ込んでいても、いつもとなにひとつ変わらない朝のいとなみを送る一家を目の前にして、おれは、外から見た時違和感のないように、みんなと同じタイミングで、パンをかごから取り、いちごジャムを塗り、マッシュルームとソーセージの生クリームソースがかかったオムレツを、フォークで片付けてゆく。

 まんま、役者の心地だった。

 場違いで。間違い。

 だってこんなの、おれの知ってるパンとかオムレツじゃない。

「で、昨夜は、ちゃんと観れた?」

 芸能人の入籍ニュースを見ていた恵の母親が、屈託なくくりんと丸い目をこちらに向ける。

 突然の質問に、おれは一瞬、正直なところたじろぎながら、

「あ、……はい、それなりに……」

「だーめ! ほとんど無理だった。星を観るには速すぎて」

 無難に答えようとしたのを、恵が台無しにした。

 天体観測のため、お泊まり会までさせてもらったのに。

 星を観ることができなかったのか――と知って、恵の母親が機嫌を損ねるのではないかと、おれはひやひやしていた。が、

「あら、そうなの」

 どうやら杞憂だったらしい。恵の母親はあっさりと引き下がった。

 おや、と、珍しいものを見て、おれの思考はストップする。

「やっぱり、ペルセウス流星群は対地速度がなぁ」

「お母さんはよく知らないけど、望遠鏡でもわからないものなの?」

「おれ、設定いじれねーもん。父さんがいたらよかったのに」

「せっかく友達が来てくれてるのに、邪魔したら悪い、って、言ってたわよ」

「眠かっただけだろー」

 リズミカルに進む会話のノリについていけずに、しかしひとり黙々と食うのもはばかられて、視線が一周した挙句、恵の祖母とぶつかる。不器用な愛想笑いを浮かべてみた。祖母はなぜ、と不審そうな目でじっと見返してくる。世話はない。

「な、章、またリベンジしような!」

 おれに会話のボールが戻って来たので、こころもち唇を持ち上げる。

「……ばかだな、これから必死で受験の追い込みだろ」

「だから泊まりに来て、勉強も教えてくれればいーじゃん」

「うちはいつでも、大歓迎よ。章くん」

 ――ホームドラマの台詞みたいなやり取りを当たり前にする母子を見て、変なの、と思うのは、多分おれが歪んでいて。

 こんな、手間暇のかかった朝食を用意してくれて(そういえば昨日の夕食のカレーも、おれの知ってるカレーじゃなかった)、他にも布団の準備や掃除、洗濯など、いろいろ労力がかかっただろうに、社交辞令じゃない雰囲気で「いつでも大歓迎」と言える目の前のひとは、それこそおれの知ってる母親じゃなくて。

 ババア、と母親のことを呼ばない恵も、おれの知ってるツレじゃない。

 おれの目が「違う」んだろうなあ。少なくともこの家においては。思うからなにも言えなくなる。黙ったところできっと、おれが異物なのはお見通しなんだろうに、うちの子とは付き合わないで、みたいなことも言わないし。態度にも出さないし。

「あ、甲子園のニュースよ。……章くん、見たくない?」

「いや、平気です」

「そう。惜しかったわね。すごくカッコよかったのに」

 同級生が腫れ物みたいに避けて通っていた話すら、恵の母親は、上手に痛くなく、触って。

「章くん、一年生の時から、エースとして活躍してて。成績も優秀だなんて。恵にも、ちょっとだけ見習ってほしい」

「しょうがないじゃん。母さん。章は、特別すげえんだよ。一緒にすんなし」

 おれはすごくなんかない。すごいのは――。

 その言葉を、おれはなんとか喉元で、こらえた。



 夏休みに入る前の授業の、理科教師の戯言を発端に発足したお泊まり会は、恵宅の屋上で、動きの少ない藍空をぼんやり見上げて喋るだけという、わりと不毛な一夜となって、終わった。

 見てみたいと確かに思った流星群は、意外に、さほど印象深いものではなく。

 自家製野菜のプランターの並ぶ屋上で、恵の父親の立派な望遠鏡を飾りのように置いたまま、眠さをこらえて、コンクリの床に、転がって。

 したくもない話を、たくさん、……してしまった。



「まだ決まったわけじゃないだろ」

 無冠の王にかけられた、同級生の励ましとやらは、どこまでも明るく、薄っぺらだった。

 こいつのこと、やっぱ、好きになれない、と、おれは思った。

「まだ決まっていない。全部これからじゃん。大学でリベンジしたらいい」

 決まったんだよ、と、おれは思ったけれど、恵には言わなかった。

 この夏とともに、なにもかも決まって、終わった。

 おれの下にはまだ弟や妹がいるし、金のかかる野球を高三の夏まで続けさせてもらっただけで、親には感謝してもしきれないくらいだ。

 母親はそのために、パート先をひとつ増やした。

 朝起きれない母親の代わりに、おれがみんなの弁当を作る。とは言え、朝練までの時間にさっと作れるものなんて、たくわんを添えたおにぎりと卵焼きとウィンナー焼きくらい。朝メシはそこに、昨日の晩メシの残りの味噌汁がつく。

 古い社宅のそこかしこは足の踏み場なく散らかって、同級生をさくっとお泊まり会に招けるような家じゃなかった。

 大学だって、公立に落ちたら進学しないつもりだ。

 でもそんなことは、言わない。

 きっと恵には、なにひとつわからないし、わかって欲しいとは思わないから。

 高校卒業を境に、きっともう二度と、会うこともないだろう。

 野球部のエースとして、成績のよかった同級生として、うっすらと記憶していてくれたら、それでいい。

 おれの方はと言えば、恵と過ごした一夜のこと、そして朝食の時に嗅いだなんとも言えない香りは、折に触れて思い返すのだと思う。

 名付けられない、焦燥とともに。




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