郷土史研の平坂さん

mikio@暗黒青春ミステリー書く人

島田市~中條影昭の像

 秒針が時を刻む音を意識して、心の中で「まずい」と呟いた。

 背中を伝う脂汗。刻一刻と減っていく残り時間。

 ギリギリまで追い詰められた時、盤上に光明が見えた。

 パチンと気持ちの良い音を立てて、王の喉元に歩を突きつける。

 対極の相手はまず驚き、そして悲しそうにこちらを見た。

「二歩です」

 それで、ぼくの夏は終わった。



「日曜日に島田しまだ市に行こう」


 郷土史研究部の平坂ひらさかさんに誘われたのは、九月の終わりのことだった。

 部室にはぼくと平坂さんだけ。郷土史研は幽霊部員ばかり――ぼくもその一人だけど――で、唯一の例外が平坂有紀さんだった。

 平坂さんはおとなしそうな見た目に反して活動的な人で、週末はいつも史跡めぐりや遺跡発掘のバイトに出かけている。放課後は部室で古書を読んでいることが多いけど、歴史だけでなく、都市伝説や怪談の類いにも興味があるようで、この間は我らがF東高に出る幽霊のことをあれこれ調べていた。


「島田のどこに行くんです?」


「ちょっと、初倉はつくらのあたりに」



 日曜――東高の正門で待ち合わせたぼくらは、旧国一を西に進み、島田市に入った。

 地銀の交差点を左に折れ、ショッピングモールの脇を通り抜けると、大井川おおいがわに出る。

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた大河には、全長九百メートル近い木造橋が掛かっている。蓬莱橋ほうらいばし。木造歩道橋としては世界一の長さで、東北地方の小藩が超高速で参勤交代した帰りに何故か通った橋としても有名だ。有名か? 何にしてもこの橋を渡った先が、茶どころとして知られる島田市初倉地区である。

 平坂さんは橋の側の小屋まで走り、木箱に百円玉を落とした。

 何とこの橋、渡し賃が掛かる。


「振り返るの禁止ね。どうせ帰るときに見られるんだから」


 大井川の河原のただ中を突き抜ける木の橋――その向こうに、鬱蒼とした森と澄み渡る秋晴れの空とが、広がっている。


「結構、風、強い」


 平坂さんは意識して前に視線を固定して、言った。


「そう言えば高所恐怖症でしたね」


「そそ、そんなことないよっ」


 欄干が低く、橋板と橋板の隙間から下が透けて見えるので、平坂さんには苦しいのだろう。こういう時は、何か熱中できる話を振った方が良い。


「どうして初倉に行こうと?」


中條ちゅうじょう景昭かげあき像のところにでも行こう、と思って」


「……ええと、誰でしたっけ」


「中條金之助きんのすけ影昭。不毛の台地を切り開いた旧幕臣のリーダー」


 それから平坂さんは中條景昭らの業績について、ちょっと早口、ちょっと舌っ足らずな語り口で解説をしてくれた。

 曰く、明治維新により慶喜公とともに静岡に移り住んだ幕臣の中に、大井川以西の台地の開墾を願い出た一団がいたこと。この辺りの気候風土に適した作物として、また、新政府の外貨獲得戦略に合致した作物として、茶の樹を選択したこと。明治十年頃には五百ヘクタール程まで農地を拡大したこと――実はこれらの話は以前にも聞いたことがあったけれど、そこはそれ。ぼくは時々相づちを打ちながら、平坂さんの話に聞き惚れる。


「そろそろだね」


 橋を渡りきると辺りが薄暗くなった。木々に囲まれたお社があるのだ。ぼくらはお社の脇を通り抜けて一気に坂を駆け上がる。急に視界が開け、丘の斜面に蒲鉾状の緑が並ぶいかにも静岡な景色が出現した。


「おー、見えた。あそこだ」


 平坂さんが一際見晴らしの良い場所に佇立する像の背中を指さして言った。


「――どうして棋道部に入らなかったの?」


 茶畑の間を歩く道すがら、平坂さんはふいにそんな話を振ってきた。


「部活に入ってなくても大会には出られましたし……多分、バカにしてたんだと思います」


「バカにしてた?」


「ええ。勝つことに真剣じゃない連中と一緒にいたって何にもならないって」


 勝ちに拘って、結局負けて、何にもならなかったのがぼくなわけだけど。


「ふうん」


 それきりぼくらは目的地まで黙々と歩き続けた。

 中條氏は牧之原まきのはら市まで続く広大な茶園にまなざしを向けるためだろう、大井川に背を向けて立っていた。彼の死後百年以上が経過した今も、牧之原台地は県内随一の大茶園地帯だった。


「郷土の英雄ですね」


「けど、彼らは成功者ではなかった。明治十年頃には五百ヘクタール程まで拡大した農地も、借金の形にとられてしまったり地元の農家に売り払ったりで、彼らの手からは離れていった」


「そうなんですか?」


「慣れない仕事だもの。思うようにはいかなかったんだろうね。明治半ばにはほとんどがここを離れてしまったそうだよ」


「結局何にもならなかったということでしょうか」


「――ちょっと残酷なことを言う」


 平坂さんは中条影昭と同じに茶園を見つめて、続けた。


「不毛の台地はついに何も与えてくれなかった。そう嘆いた侍もいたかもしれない」


「いたでしょうね。きっと」


 ぼくは手のひらを強く握りしめながら応えた。


「でも、茶畑は残った。今もまだ、ここにある」


「本当に残酷なことを言いますね」


「ごめん」


 その謝り方が可愛らしくて、ぼくは思わず微笑む。


「そろそろ後ろを向いても良いですか?」


 平坂さんは小声で「良い」と言って、ぐすんと鼻をすすった。


「――将棋はついに、何も与えてくれなかった。ずっと、そう思っていました」


 遠くを見つめながら、ぼくは続けた。


「もう少し楽しめば良かった。棋道部に入ってみんなでワイワイ指すだとか、やっぱり棋道部には入らずに郷土史研の美人さんをミュージアムに誘うだとか――」


「また、いつでも来てよ。


 そうしたいのは山々だけど、難しいだろう。何故ならぼくは平坂さんの言葉でもう、随分と救われていたのだから――。



 少女は一人きり立ち尽くしていた。


 あの少年は――将棋大会の翌日に部室棟で首を吊った彼は、無事にあちらへと旅立てたのだろうか。そうあって欲しい。さっきまで少年がそうしていたように、像とは反対の方を見つめて、少女は祈る。


 大井川のはるか向こうに佇む悠久の芙蓉――富士山はその日も美しかった。

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