第10話

 ついさっき萌に渡された封筒からカルテを取り出して見る。病名の欄を見て九郎は押し黙った。

 そこに記されていた病名は”小児急性骨髄性白血病”だった。

「……白血病」

 九郎の息の漏れたような声が車内に落ちた。

 愕然とした。もっと、軽いものだと思っていた。病気というものをよく理解していないから、無知だから甘く見ていた。入院するほどの病気だとしても、投薬治療をするものだとしても、もっと、軽度なものなのだろうと想像していた。

 それに比べ、今口に出した白血病といえば”血液のガン”と呼ばれるそれで、治療が困難なイメージがある。目の前のカルテを読もうとしたが思わず目が泳いだ。

「治せる薬なんてあるのかよ」都中井が懐に手を入れた。

 煙草を取り出してくわえて火をつける。つうと紫煙が細く漂う。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 九郎が携帯を取り出して検索をかける。白血病について書かれたサイトを探して開いて記事を読んでいく。いくつかサイトを見て、少し安心した声をだした。

「治る病気と書いてありました。ほら」

 九郎が画面を都中井に見せる。

「つまり、治せる薬があるんです。きっと。よかった。真里ちゃん元気になれますね」

「そりゃ治るだろうさ。何人かに一人は」

「真里ちゃんもその一人になれますよ、きっと」

「どうだかな」フロントガラスに向かって紫煙を吐いた都中井を九郎が訝しんだ。

「なんです?」

「別に。薬があるなら早くそれ用意しとこうぜ。それで治るなら御の字、東野先生のほうで治るんならなお御の字だ」

「そうですね」

 九郎がエンジンをかけた。

「早く用意しましょう。来週にはあの子も元気になれます。また雪だるま作りますか」

 九郎が笑って言う。

「そうだな」

 どこか遠い目をして都中井が静かに笑った。

 駆動音が安定すると、アクセルを踏み込んでゆっくりと駐車場を抜けていく。少しずつ車が浮遊していく感覚ののち、白の軽ワゴンは空へむかった。

 車内では意気揚々とした九郎が鼻歌を歌っていた。

 その隣で都中井はじっとカルテを見続けていた。


——◇◇◇——◇◇◇——

 一方病室では、真里が検診に戻ってきた萌をじっと見ているところだった。

 萌が小首をかしげて真里のほうに直った。

「どうしたの?」

「クリスマス、まりはここにいる?」

 え、っと、と萌が言葉に詰まった。くるりと目を回して、「元気になったらお外で遊ぼう」と言って、それが精一杯だった。

「おそといける?」

 うん、と萌が頷いた。

「先生頑張るから。真里ちゃんがパパとママと一緒にクリスマスを過ごせるように頑張るからね」

 今度は真里が頷いた。病室を去りながら萌は考える。九郎達が言っていたことは事実なのだろうか。事実だとしたら、ぜひともその薬を譲り受けたい。

 医者になってまだ間もないが、あまりにも早く重篤な患者を受け持つことになった。先輩たちは今までどうやって生きてきたのだろうか。こんなに幼い子が死に直面していることを、どうして乗り越えてきたのだろうか。助けられるのだろうか。助けたい、という一心だけで助けられるのだろうか。それだけのことが自分にできるのだろうか。

 不安が募っていく。

 学生だったころからしっかりと学んできた。学術書も論文も読んできた。ずいぶんな数を読んだと思う。それほどまで知識をつけたつもりだった。けれども机上の空論は自分の頭の中にあった。

 初期治療で治ると思っていた真里の病気は予想だにしなかったほど根強くて、再発を重ねている。これならば効果はあるだろうと投薬したものは、確かに効果があったが、思っていたほどじゃなかった。小さいからだにどれだけ鞭を打ってやらなければいけないのだろう。

 治せる、治したい、治してみせる、そう自分を鼓舞しても、すぐに不安はやってきた。こんなんじゃいけない——真里のほうが不安だ——そう思っても、自分には真里の不安を取り除いてあげられている気がしなくて、心が痛む。

 なんて自分が可愛い愚者なんだ、と思う。

 助けたいのに、治療がうまく行かなくて、ドナーもいないものだから手術をしようにも手立てがない。

 助けてあげたい。なるべく、真里に負担がかからないように。

 遊ばせてあげたい。世間のほかの子供たちと同じように。

 視線を上げて窓の外を見る。遠くのほうに雪だるまが見えた。真里が九郎たちと一緒に作ったやつだ。あれは真里の病室からも見えるのだろうか。あれは真里の元気の源を形どったものに思えた。

 自分にやれることをしよう。決意を新たに資料を集める。一番、真里にあう薬を見つけよう。治療方法を探そう。この世の先輩たちはごまんといる。彼らが見つけ、編み出したものがあるはずだ。新例なのだとしても、何か手助けになるものはあるはずだ。まだ見つけられていないものがあるはずだ。

 萌が細い指でキーボードを叩き、手元に重ねた資料をはらりとめくった。


——◇◇◇——◇◇◇——


 空飛ぶ車内で都中井はじっとカルテを見ていた。

「ひとつ疑問なんですけど」

 九郎がハンドルを握りしめて言う。

「なんだ?」

「俺らで薬って作れないんですかね」

「……はあ?」

「あ、だから、その特効薬とか作れないんですかね。いろいろあるわけでしょ、薬って。それをいくつか取り出して混ぜ合わせてさらにすごい薬を作る、みたいな」

「俺らは魔法使いじゃねえっつうの」

「そう、ですよね」

「現実的じゃねえこと言ってねえで効く薬を探したほうが早えだろ。何が効くかなんて医者じゃねえからわかんねえし、高くて手が出なそうな薬をいくつか持って行って東野先生に渡したほうがいいんじゃねえの」

 助手席にもたれて都中井が言った。

「たしかに」

 九郎がひとつ頷いた。

「でも、それだったら、きっと効きますよね。お金が用意できなくて薬を手に入れられない。だから治療がままならない——そうだったとしたら、その問題は解決できますもんね」

「そういうこった。まったく、なんで知らねえガキのためにこれだけ無茶してんだかなあ」

「都中井さんがいい人だからじゃないですか?」

 都中井が鼻で笑った。

「俺じゃねえよ、おめえだ」

「俺ですか?」

「お前がやるって言ったんだろ。なんでここまでするんだよ」

 九郎がフロントガラスの向こうから視線を外さずに、首を傾けた。

「……なんででしょうね」

「血が繋がってるなり知り合いならまだしも何も知らねえガキだぞ」

「知り合いですよ」

「あ? 初耳だぞ」

「何言ってんですか。俺も都中井さんもこないだ公園であの子と知り合ったじゃないですか。だから知り合いだし、友達です。……俺、友達いないからその、せっかくできた友達だから助けたくて」

「何お前ぼっちなの?」

「失礼な! そういう言い方は嫌いだな。そもそもなんなんですか、ぼっちって。独りぼっちの略なんでしょうけど、なんで一人でいたら孤独だって、そういう風に馬鹿にされなくちゃいけないんだ」

「てかお前さっき友達の家でゲームしたって言ってたろ」

「小学生のころの話ですよ。もうそいつらとは中学のころから疎遠になりました」

「……いじめられたか」

「いや? 別にそういうわけじゃないですよ。ただ、中学になって、ほかの学区からも生徒が増えて、俺よりもっと馬の合うやつを見つけたんじゃないですかね」

「馬の合う、ねえ」

「そんなもんじゃないですか。だから、ああいう風に遊んだのすごく久しぶりだったんです。そりゃ、もう大人だから雪だるま作って遊ぶのはなかなかないですけど」九郎が苦笑した。

「高校も大学も、なんていうか、空気みたいなもんで、いてもいなくてもいいような、希薄な関係というか。高校は勉強で忙しかったし、大学はバイトもあったからなおのこと。レポート提出だーなんだーって言っても、自分でできるから。社会人になってみたら競争が激しくて友達なんて言ってらんないような状態だったし。とにかく、久しぶりにああやって遊んだんです。それが思いのほか楽しくて。だから、恩返しというか、なんというか」

「ロリコンか」

「違いますよ!! なんなんですさっきから。そもそもロリコンっぽいのはあんたのほうだろ!」

「ああ? 俺のどこがロリコンなんだよ!」

「だってそうでしょ? 真里ちゃんのことを見る目がいつも優しい。俺のことなんてそんな風に見たことないでしょ!」

「見てたらそれはそれでキモイだろうが!」

「たしかに。それはそれでぞっとしますね。まあいいですよ、俺はロリコンじゃないです」

「冗談だっつうの」都中井が吐き捨てる。

「冗談下手なんだよ」さらに九郎が小さく吐き捨てた。

「なんか言ったか」

「別に何も。真里ちゃんが元気になって、いつか俺らのことを忘れてしまうかもしれないけれど、でも、知り合った事実は変わりませんから。俺が小学生のときに友達の家でゲームして遊んだのも、その時は友達だったことも変わらないように。あと少しで着きますから。真里ちゃんの薬について調べましょう。持屋さんのとこのパソコンなら調べやすかったりするかもですよ。サンタクロースのパソコンですからね」

「いやそれはダメだろ」

「なんでです?」

 都中井が困った顔をしてため息をついた。

「サンタクロースの規約に違反するんだぞ。それをなんでサンタクロースの拠点で堂々として調べなきゃならねえんだ」

「逆に、ですよ。木を隠すなら森の中って言うでしょ」

「隠れてねえし」

「灯台下暗しですよ」

「それなら納得だが、危険に変わりねえだろうよ」

「危険は承知の上です。でも多分大丈夫ですよ」

「なんでそう思う」

「親父が昨日言ってました。これから一週間、俺ら以外のサンタクロースは準備作業で忙しいんですって。それで基本的に外回りして経路確認するか、もしくは工場のほうでプレゼントの詰め込みするらしいんです。だからあそこの持屋さんが使ってたあたりのデスクに人がいるのはまずないっぽいです」

 九郎がにやりと笑った。

「ばれたらぶっ殺す」

「サンタクロースがそんなこと言っていいんですか」

「知るか。俺は俺だ」

「今度からサンタクロースの規約に暴言禁止って追加したほうがいいですね」

 都中井がもう一本煙草を取り出して口にくわえた。フィルターを噛んでぎろりと九郎をにらんだ。九郎は楽しそうにアクセルから足を離していく。眼下にはサンタクロース事務所の駐車場入り口が近づいてきていた。

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サンタクロースになっちゃった 久環紫久 @sozaisanzx

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