幼女と狐と陰陽師
だから俺は、
今日も腹が減っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
春になった。
長く居座っていた冬将軍もようやく重い腰をあげ、佐保姫に後任を譲り渡そうとしている。可憐なる春の姫は花の香だけでなく、花粉までもを供として引き連れてきた。ガッデム。お前らに繁殖の権利は認めねぇ。
暖かくはなってきたものの、未だに片付け難い炬燵の中でぬくぬくとまどろみつつ、春明はもう何度目になるか分からない独り言を呟いた。
「あー……腹減った」
「またですか。つい先日、鬼を一匹食べたばかりではないですかあなた」
狐が素っ気なく言い放つ。
復活した狐はあいも変わらず冷淡だった。だいたい先日とか言っているが、春明が日向氏に憑いた鬼を食らったのは、もう一ヶ月以上も前のことである。齢三千年にもなると、一、二カ月程度の時間は『つい先日』ということになるらしい。これだから年寄りは困る。
春明はしっかり炬燵に潜り込んだまま、片手だけで日課の周回バトルをこなしつつ反論した。
「あんなもん、もうとっくに消化しちったよ。食ったのがいつだと思ってんだよ。あー、腹減った腹減ったはーらへったー! またなーんか依頼こないかなー。俺が飢え死にする前に」
「そんなに空腹ならば、また病院で適当な地縛霊でも食べてくればいいじゃないですか。風邪で病院に行くぐらいなら、口煩い宗家の方々とてさすがに咎めはしないでしょう」
「やっだよ。あれ食っても殆ど腹膨れねーんだもん。ふよふよしやがって、綿アメみたいなもんですよ。空気食ってるみたいなもんですよ。その癖、やたらしつこく付きまとってくるしさー。お前、アライグマが綿アメ洗ってる動画見たことある? 一瞬で消えた手の中を呆然とした顔で見てたよ? いやアライグマだから表情なんて見てもよく分かんねーんだけど」
「ならばやはり我慢するしかありますまい……そういえば、ご同輩に憑いていた鬼とやらはどうなったのです?」
「あー、あれはねー……」
思い出して一瞬言いよどむ。が、狐の追究の眼差しに、彼は努めて平然と言った。
「お祓い用にさりげなくメモ帳に偽装したお手製の呪符束をあげたら、ドン引きされたあげく精神病院を紹介された」
「うわぁ」
なるべく感情をこめず淡々と事実だけを述べてみたら、式神があからさまにドン引きした眼差しを向けてきた。
金の眼に物凄く軽蔑の色が浮かんでいた。
え、なんなの正気? 本気でそんな阿呆みたいな真似しでかしてしまったんですかあなたは? とでも言いたげな眼差しだ。
「え、なんなの正気? 本気でそんな阿呆みたいな真似しでかしてしまったんですかあなたは? 待って待ってあまりの愚かさに理解が出来ない。脳の理解が追いつかない。一体全体どうしてそこまで馬鹿なのですかあなたは」
「ちょっとはオブラートに包めよお前も! せっかく純粋な善意で人助けのためにやったことなのに、どうしてそこまでボロクソに言われなきゃならねぇんだ!?」
「いやだって。専門家でもない一般女性が、和紙に墨で晴明桔梗と梵字が綴られてる呪符なんて見たら、ドン引きするに決まってるじゃないですか。それで純粋に喜べる人間がいたら逆に怖いですよ嫌ですよ」
「ちゃんとメモ帳に偽装したっつったろ! 俺だってそのままの状態で渡すほど馬鹿じゃねえよ!」
「……一応、参考までにお聞きしますが、その偽装というのはどんな風に?」
「白紙の方が表になるようにして、裏面に目立たないようにびっしりと呪印を書いた」
「うっわ」
狐の表情がドン引きを通り越して恐怖に染まった。
いや、狐だから細かい表情とかはよく分からないのだが。
金色の毛皮に包まれた顔面を恐怖で青ざめさせながら(色が分からない)、ガタガタと慄くように呟く。
「こわい……同僚からの贈り物に、一見バレないように小細工されて意味不明な呪印が書いてあるとかハッキリ言って怖い……というか正直、そんな杜撰な方法で偽装とか言ってる主殿の知能の低さが何より怖い……」
「てめぇは俺に喧嘩売ってんだなそうなんだな!?」
どこまでも果てしなく失礼極まりない式神だった。
「まあ、既に崩壊してしまい、今更どんな手を尽くしたところでもはや修復が不可能そうな主殿の職場における評判は置いといてですね」
「いや待てよ勝手に置いとくなよ……ていうか、え? 俺の評判、そんな悪いことになっちゃってんの? そんなにまずいことしちゃったの俺?」
「まずいというか、もはや致命傷というか、お前は既に死んでいるというか。けれど、これで悩みが一つ解決したのは喜ばしいことではありませんか。仕事中、ずっと傍にいた鬼がいなくなって。四六時中目のつくところにいられると、ただでさえ空腹なのに気になって仕方なかったのでしょう?」
「それはそうなんだけど、今は職場での俺の評判の方が気になって仕方ない……」
春明は盛大に溜息をつくと、がっくりとうつぶせた。せっかく悩みが解決したと思ったのに、ここにきてまた新たなる悩みが生まれてしまったのである。まったくもって、とかくに人の世は住みづらい。こんなにも頑張っているのだから、もっと癒しがあってもいいと思う。
「あー。最近、癒しが足りない癒しが。腹も減ってるけど心も飢えてる。サヤは家に帰っちまったし、うちにいる小動物は外見だけはモフモフなのに、肝心の中身がアンチ癒し系だし」
「そちらが獣型を指定してるくせに文句をつけるとは失敬な。大体、動物に癒しを求めるというその発想が安易です。人間であるならば同種である人間に癒しを求めなさい」
「つまり今の俺に必要なのは嫁だ!」
極めて合理的かつ論理的な結論に達した春明は、ここぞとばかりにびしっと力強く狐に向かって指をつきつけた。
「あーあー! 霊能なんか持ってなくてもいいいから、どっかにおっぱいがでかくて程よく淫乱で可愛い奥さんとかいないかなー!」
もちろん、二次元ではなく三次元のだ。己の立場も顧みず、大概図々しいことをほざく主君に、式神が呆れきった溜息をつく。
「癒しが欲しいのならせいぜいお友達程度で我慢なさい。大体まだ子供のくせに嫁御を欲しがるなど生意気というものですよ」
言われた春明が一瞬硬直し――すぐにふて腐れた調子で反論する。
「……ちげーし。俺もう二十七歳だし」
憮然となる春明を、しかし狐はばっさりと切り捨てた。
「それはあくまで外見年齢だけの話でしょう? 依童というのは文字通り童であることが必須条件なのですから。呪術によって七歳の時から時間を停止され、人間社会から隔離されて育ってきた子供が実年齢通りの中身とは到底いえませんよ」
いつまでもゲームに夢中になったり。
一人では部屋の片づけもできないぐらいにだらしない。
まるでまだ成長しきっていない子供のように。
「いや、止められてたのは肉体成長だけなんスけど」
「とんだお笑い草ですね。人の成長というものは、時間経過だけに限ったことではありません。誰かと触れあい、誰かに怒り、誰かを許し、誰かを愛する。人と人との関わりによって様々な経験を積み重ね、その過程で人格というものが形成されていくのです。ロクな経験も詰まぬままに、ただ悪戯に時を過ごしてきただけの存在を一体どうして年齢相応に成長したと言えるでしょう?」
「ぐぬぬぬぬ……」
狐の容赦ない正論に、陰陽師の青年は悔しげに呻いた。
「しかしそう考えると、年齢的な意味でもサヤカ嬢はまさしく主殿にぴったりだったのですけれどねぇ」
「馬鹿こけ。干支が一回り以上離れてんだぞ?」
「そうは仰いますけれどね。主殿の成長はまたすぐに止まると思いますよ」
「え? うっそ、そうなの?」
「ええ。もともとその阿呆みたいな急成長は、長期間の時間停止による反動みたいなものですからね。一度年相応にまで肉体が成長した以上、今度はその急激な成長負荷を補うために老いがゆるやかになるはずです。恐らくですけれど、二、三十年くらいはそのままでしょうねあなたは」
初めて聞かされた唐突な事実に、春明は改めてまじまじと自分の手を見下ろした。突然そんなことを言われても実感が湧かない。
「……なんだかなぁ。俺、意外と数奇な人生送ってない? 主人公でもねーのに」
「ああ、モブ顔ですもんね」
「ほんっと一言うるさいねお前」
どこまでもつくづく余計な一言の多い式神を険悪に睨みつける。いっそ暴言禁止の勅令でも下してやろうかと思ったところで、不意に呼び鈴が鳴った。
ピーンポーン、と。
古い日本家屋に響く電子音に、陰陽師ははてなと首を傾げた。時計を見れば時刻は二十時。夜更けというほどでもないが、尋ね人が来るにはやや遅い時間である。
「こんな時間に……客? 宗家連中からの指示とか別に来てなかったよな?」
不思議そうに首を捻る陰陽師に対し、式神の方には心当りがあったらしく、てしっと前足で床を打った。肉球があるのであまりいい音はしなかったが。
「ああ。きっと私が先日ゾゾタウンで注文した主殿のスプリングコートですよ。一足早い八十%オフのセールが始まっていたので、買っておいたのです」
「お前なんでそうやって、ぽんぽんぽんぽんコートばっかやたら買いたがるの!? この間も冬物買ったばかりじゃん!?」
「ええ。ですから今度は春物を。だんだん暖かくなってきたのに、いつまでも分厚い冬物を着ていてはみっともないでしょう。それに、仕立のいい羽織りものは実に便利ですよ。ほら、なんというか上から一枚着るだけで、主殿のセンス悪い私服をうまく隠すことが出来ますし」
「なぁ。やっぱお前俺に恨みでもあんだろそうだろ。口ではなんだかんだ言いながら、実は大妖から式神にまで落とされたこと根に持ってんだろそうだろ」
「馬鹿なこと言ってないで早く玄関にお行きなさい。配達員さんを待たせるのは気の毒ですよ」
「お前が行けばいいじゃん。お前が勝手に頼んだんだし」
「私、しゃれこうべがないと人化できませんので」
「前に兄貴から人化の呪符貰ったのが残ってるだろ!?」
口ばかりは達者な式神を怒鳴りつつ、諦めて玄関へと向かう。段差の高い上り框から三和土に下り、扉ではなく引き戸を開けながら――
「はいはーい。今開けまーす……」
――がらがらがら。
「……あれ?」
開いた扉の前には、予想していた配達員の姿はいなかった。
代わりに、予想もしていなかった存在がいた。
「こーんばーんわっ!」
春といってもまだ夜は肌寒い。だが冬場のように肌を突き刺すような容赦ない寒さではなく、どこか柔らかさを感じる春の宵。
夜天には薄い雲がかかり、その奥から白金の月が僅かに顔を見せている。梅は散り、代わりに桜が花開き始めたのか、夜風に混じって仄かに甘い香りが漂っていた。
少しだけ伸びたのか、以前は肩のラインで切りそろえていた綺麗な黒髪を、ツインテールにして結っている。ふっくらとした頬は桃のように愛くるしく、月明かりの下でもはっきりと分かるほどに肌は瑞々しくすべらかだ。ほんの少し見ない間に背も大きくなったのか、淡い緑に白い水玉模様のジャケットは見覚えのないものだった。新しく買い替えたか、あるいは衣替えでもしたのかもしれない。
「――……――」
花香る春の夜。春の雪のようにひらひらと舞い散る花びらが、夜の蒼闇を薄紅に染め上げる中で。見覚えのある存在に心当りしかない幼女は、にっこりと元気一杯に微笑んだ。
「……サヤ?」
「うん! さやだよー!」
名を呼ばれた幼女は、大層威勢のいい声で頷いた。ひとけのない住宅街に、一際元気よく響き渡る。
「おま、ちょっと声が大きい。夜なんだからもうちょい小さい声で……ていうか、え? なになに? どしたん急に――まさかまた、彩華さんの身になんかあったのか!?」
ざっ、と一瞬で緊張が走る。日向老人に憑いていた鬼は全て自分が食い尽くした。その上あれだけ脅したのだ。滅多なことではもうこの母娘に手を出さないだろうと高をくくっていたが、まさかまた懲りずに手出しを始めたのだろうか?
いや、あるいは彩華の仕事絡みのトラブルかもしれない。いやいやあるいは――
思考が急速に駆け巡る。次々と浮かぶ最悪の予想はしかし、当の幼女によってあっさりと否定された。
「ちがうよ。ママげんきだよ。はい、これママからのおてがみ」
「手紙? 彩華さんから? 俺に?」
「うん。サヤ、ゆうびんやさんね」
どうぞ、と差し出された封筒に既視感を覚えつつ、どうもと受け取る。もちろん、受け取りのスタンプは忘れない。実物はないけど架空のスタンプは忘れない。
少し厚手の白い封筒には、女性らしい流麗な字体で『間宮春明様』と書かれていた。中身を取り出すと、いつぞやで見覚えのある小夜香の保険証と医療証に加えて、見た事のない奇妙な真っ黒なカード。そして綺麗に折られた三枚の便箋が入っている。
一見ごく普通の手紙っぽいそれに記されていたのは――果たして。驚愕にして驚嘆の物語だった
秘匿されていた世界の神秘と、刻一刻と近づく世界の破滅。未来は全て断絶され、救いの道はもはやなく、絶望の鐘の音が鳴り響く。そんな破綻しかけた世界の中でただ一人、来る破滅の運命に真っ向から立ち向かおうとする、偉大にして孤高なる英雄の物語。
ていうか、端的にいうと彩華さんの近況だった。
何やってんだよあの人類の到達点……。
あんた、結構つい最近まで入院してたはずだろうが。
退院したばっかのはずだろうが。
呆然となりながら読み進む。丁寧な時節の挨拶から始まるそれは、冒頭部分は間違いなく普通の手紙なのに、読めば読むほど中身が壮大なる英雄譚となっていく。
切欠は些細な出来事だった。違和感の正体を探るうちに、彼女の前に次々と奇妙な障害が立ちはだかる。散りばめられた世界の謎。立ちふさがる強大な敵。胸が熱くなり、同時に胸がすくような爽快な物語。様々な伏線は蜘蛛の糸のように緻密かつ繊細に要所要所に張り巡らされており、一つの神秘を解き明かす度に、敵もまた強さを増してゆく。時に裏切られ、時に意外な人物に助けられながらも、彼女は決して前に進むことを諦めない。
やがて全ての謎を解き明かし――あらゆる神秘が白日のもとに詳らかにされた時、彼女たちはようやく『その』事実を知るのだ。様々な事件の裏に隠された、巨大なる陰謀を。
間近に迫った古の超魔術の復活と、それを目論む古代種の末裔たち。その野望を阻止するために、彼女は全ての伏線が収束する先にある約束の地へと向かわなくてはならない。これは、世界を守る戦いである――と。
読み終わって。
春明は感動のあまりおいおいと泣いた。たった三枚の手紙なのに、間違いなく今まで人生で読んだ中で最高の物語だった。ウェブにでも掲載すればたちまちの大ヒットとなり書籍化待った無し、各種のメディアミックス待った無し、映画にすれば歴史に残る一大叙事詩となるだろう。それは流行り廃りに流される一過性の娯楽などではない。かつて人々が詩に歌い、歴史の中で黎明と語り継がれてきた神話の英雄の物語だ。
余りに内容が壮大すぎるため盛大に脱線してしまったが、つまるところ手紙の中身を要約すると『これからちょっくら世界を救ってくるから、その間に小夜香の面倒をよろしくね!』という内容だった。
世界を救いに行ってしまわれた……。
もの凄く軽く書かれている割に、もの凄く重い内容だった。
ていうか、世界ってそんなインスタント感覚で救ってしまえるものなのかよ。
絶対にそれ、子育ての片手間にやっていい内容じゃねえだろ。
多分だけど、百万字くらい費やした巨大長編の終盤あたりで、ようやく達成されるべきエンディングのはずだろ。
「オムツ買い忘れたから薬局行ってくる! その間にちょっと子供みててね!」みたいなノリで託していいことじゃねえだろ。
人がたまーに物語の裏側で陰陽師らしいことやってる間に、どんな一大スペクタルの主人公になってるんだあの人。
まったく、これだから本物の主人公には敵わない。
そもそも、この世界がそんな致命的な危機に陥っているだなんてちっとも知らなかった。それどころかこちとら、来月から実装される(という噂の)新キャラをワクワクしながら待っていたというのに。このままだとピックアップどころか、ガチャが実装される前に世界が終わってしまうらしい。なんということだ。
だが不思議と、手紙の内容が嘘だとはちっとも思わなかった。
普通であれば信じるに値しない、荒唐無稽にもほどがある話ではあるが、相手が彩華だと思うとなんとなく納得してしまう。それ以前に、彼女がそんな嘘をつくわけがないという奇妙な信頼感があった。
だってそもそも、彼女だけなら別に世界が崩壊しようが破滅しようが問題ないはずなのだ。異界の存在は召喚術によって、既に実証されている。もしもこの世界が滅びても、彼女であれば鼻歌交じりに平気の平左で異次元にでも異世界にでも旅立つことだろう。最愛の娘と二人、文字通りにどんな世界でも暮らしていけることだろう。
だけど彼女はその道を選ばない。
最愛の娘と一時的に離れることになっても、一番安易で安全な道を選ばない。世界のために、運命に抗ってみせる。その理由は手紙の末尾に記されていた。
『この子の生きていく世界を、私が諦めるわけにはいかない』
「……っとーに、なにやってもかっこいいんだよなぁ。あの人は……」
たとえばの話。自分と関係ない相手であっても、目の前に困っている誰かがいたら、人は手を差し伸べようとするだろう。その時に、余裕があればの話だが。彩華の場合、それが人より少し(かなり)大きいだけ。
春明が手を伸ばせるのは、目の前にいる小さな女の子一人と狐と、ついでにほんの少しの身の回りの人ぐらいなものだけど。彩華の手は世界丸ごと救いとってしまえるだけ。
しかしそれを躊躇いなく実行してしまえる様は。簡単なようで難しい、だけど本当は誰にとっても当たり前のことを平然としてみせる、その在り方は本当に。
なんて格好いいんだろう。
こんな大人になりたいと。憧れを抱かずにはいられないほどに。
彼女に頼られたという事実が、この上なく名誉に感じるほどに。
「おてがみ、なんてかいてあったの? さやいいこってかいてあった?」
「うん。書いてあった書いてあった。ついでにママはしばらくお仕事で忙しくなるから、その間にうちでサヤのこと預かってくれってさ」
「あずかる?」
「お泊り。つまりまた俺ん家で、識とかと一緒に暮らすってこと」
「そうなんだー」
分かっているのかいないのか、したり顔でふんふんと頷いてみせる。その動きに合わせて、上手に結われたツインテールがぴょこぴょこと揺れる。
「ママね。いってたよ。ママいないとき、子供が一人でいたら危ないからって。わるいひとがくるから、ちゃんと大人に守ってもらわないとって」
「守ってって……あー、まあそうだな……」
サヤカが実家の後継者騒動で誘拐されかけたのは、それほど昔のことではない。確かに、赤の他人に預けるより多少なりと事情の知っている相手に預けた方が安心だろう。
と、納得した時だった。
春の宵を切り裂いて。突如として現れた冷酷な殺意が、春明の全身の血を泡立たせた。
「――見つけたぞ! 貴様があの偽典英雄の娘だな!?」
「何ィ――!?」
何の前触れもなく唐突に始まったバトル展開に思わず悲鳴を上げる。以前のお家騒動のような可愛らしい相手ではない。日常の生活の中で命のやり取りを平然と行っているような、春明とはまた違う意味で正真正銘の専門家だ。
「……くっ!」
迷う暇はなかった。咄嗟に自分の中に眠る獣性を解放。黄金に染まった漆黒の瞳で、偽りの世界を幻視する。自らの望む世界を現実に重ね、観測者たる証明を成すことで事象を幻想へとすりかえる……。
時と空。時間と空間さえも無視して発動した招眼は、春明の願いに従って眼前の敵を強制転移させた。場所はどこだか知らない。地球の裏側かもしれないし、北極かもしれないし、あるいは下水道の中かもしれない。だがこれでひとまずは安全だろう。再び襲われたときに、同じ手が通用するかは分からないが。
「な、なんだったんだ一体……」
ばくばくとヒートアップする鼓動を服の上から押さえつけてぼやく。まるで全力疾走した後のようだ。小夜香は意外と修羅場慣れしているのか、突然の刺客と人体消失にもビビることなく大きな瞳を興奮にキラキラさせている。
「すっごーい! おじちゃんすごい! いまのどうやったの? てじな? まほう?」
四歳児のメンタルが強すぎる。
「あー……いや、手品ではないけど……」
「じゃあまほう? まほうなのね? おじちゃんまほう使いだったの?」
「俺はー……陰陽師かな」
ある意味では和製魔法使いみたいなものかもしれないが。カテゴリとしては別ものだ。
「ていうかサヤ、一体なんだったんだ今の……?」
いくら当事者とはいえ、四歳児に聞いても無駄かもしれないが。念のため尋ねてみると、小夜香はきょとんとした顔で、当然のように言ってきた。
「え? あれはわるいひとだよ。いっつもさやを連れていこうとするの」
「大事件じゃねえか」
いっつも狙われてるのかようちになんぞ来てないでとっとと警察に行けと言いかけたところで、そういえばこの子の母が警察だったなと思いだす。
いや、でもまあそりゃそうか。
世界を救う大英雄なんだから、敵対勢力の一つや二つや百ぐらいあっても当然か。
「だからね。さや、いまはママがいないから、大人にまもってもわらないといけないの。じゃないとわるい人が来て、さや連れてかれちゃうんだって!」
「守るってそういう意味だったの……?」
おーのー! とかわいらしく手で自分のほっぺたを挟む幼女の愛らしさに一瞬惑わされそうになるが、事態が重すぎて素直に和むことも出来なかった。半泣きになりながら顔面を覆う。
世間一般的な危険ではなく、超具体的な敵対存在からの護衛だった。
子守のハードルが一気に上がった。
「けどまぁ……しゃーねぇか」
これがパチンコに行ってる間に子守しててとか頼んでくるような相手だったら、説教のついでに呪詛でもしかけて断るが、救世の大英雄から託された依頼ともなれば、さすがに断るわけにもいかない。だって仮に断って、じゃあ仕方ないやって彩華さんに世界を諦められたら困るし。世界が滅びて困るのとかむしろこっちの方だし。それに。
それに――弟子を守るのは、やはり師匠の仕事だし。
不甲斐ないこの身ではあるけれど。せっかく頼ってもらえたならば、出来る限りをしようじゃないか。
「ねえねえおじちゃん。さっきのまほう、おっきくなったらさやにもできる? さやもまほうつかいになりたい!」
「出来るよ。サヤが真面目に一生懸命練習すればの話だけどな。うん……そうだな。しばらくまたうちに居ることになるわけだし、この際せっかくだから、見鬼眼の練習をもうちょっとしっかりやるか。オンオフ機能の他に、せめて瞳術の一つでも使えるようになっておけばいざというとき身を守るにも使えるし」
この子が日常的に刺客に襲われているというならば、護衛術の一つや二つは必要だろう。
「その代わり、これからは俺の言うことはちゃんと素直に聞くんだぞ。俺はお前の師匠なんだからな。今日はもう遅いから、とりあえず識と一緒に早く寝ること。寝る前にちゃんとトイレにいって、きちんと歯も磨くこと。布団に入ってからはいつまでもおしゃべりしないこと。いいな」
次々と出される細かな指示に。
しかし小夜香は無垢に無邪気ににっこりと笑い、元気にいい子の返事をした
「はーい、おじちゃん! わかったー!」
それに対し。
青年陰陽師は皮肉にシニカルにニヤリと笑い、肩をすくめて言い返す。
「俺はお兄ちゃんだ」
〜第一部 完〜
これにて一部完結です。ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。続きはそのうち書く予定ですが、まだ先のことなので一度完結にしておきます。
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