こいいろは

向水そら

第一章…色は匂へど散りぬるを

色は匂えど

団地の間にある公園の中心に植えられた、齢の深い一本の桜が、淡色の花弁を風に飛ばされている。

季節は春。大人も子供も、おおよそこの四月から新しい生活を迎える者が多いことだろう。

「それじゃ、いってきまーす」

紋白(もんしろ)団地の七階、七〇三号室の扉から、少し眠たげな男の子の声がした。扉ががちゃりと開くと、そこから出てきたのは、ぽっちゃりとした体つきの、ショートヘアーの少年だった。紺色のブレザーにグレーのズボン、襟元には赤いネクタイを結んでいる。

胸ポケットの近く、ブレザーの襟には、桜の木を模した鈍色の校章が付けられている。これは、この辺りの小学生のほとんどが選ぶことになる進路である、公立中学校、桜ノ木中学校の校章である。

そんな出で立ちの、寝ぼけ頭に隈のついた目、相当に眠たげな彼こと、里中文人(さとなか ふみと)は実際のところ、とても眠たかった。昨晩から朝の自分のパソコンで延々とオンラインRPGで遊んでいたのだから、無理もない様子である。

今日は始業式ということもあり、結局一睡もせずして、現在、こうして学校への道のりを歩いている。嗚呼、小鳥の飛ぶ、青々とした空。春のやわらかな太陽の日差しの暖かさ。冬の名残を僅かに残した、涼しい風。季節の生み出す全ての感覚が心地よくて、文人はもう、歩きながら、ふらふらと夢の世界に行ってしまいそうだった。

ああうあ。いけないいけない。眠たい瞼を擦りながら、エレベーターに乗り、一階へと降りていく。薄暗く、古びたエントランスには、各階に住まう人々のポストがぎっしりと並んでいる。

エントランスを出ると、そこには団地に住む子供達が遊ぶための、小さな公園が作られている。その中央には、文人が生まれるよりも前に植えられた、大きな大きな桜の木が厳かに立っていて、満開の花弁を咲かせていた。

強い風が吹いた。桜の木はさらさらと音を立てて花弁を散らし、ふわふわと淡色の春吹雪が舞う。そんな桜の木に、少し茶色の掛かったボブヘアーの女の子が寄り添っている。紺のブレザーに赤いリボン、同色系の、明るいストライプの入ったスカート。女の子は、文人と同じ学校の制服を着ている。

文人が目を合わせると、その女の子は少し控えめに手を振ってきた。

「ふみちゃん、おはよう」

「あ、いろは。おはよ」

彼女は文人の幼馴染で、神野いろは(かんの いろは)という。いろはは近付いてくるや否や、文人の顔を見ると、心配そうな表情をして文人の頬に両手を添えた。

「いっ、いろは?」

咄嗟の事に、素っ頓狂な声を上げる文人。いろはは文人の目の下の隈をすりすりと親指でなぞると、ふふっと笑って、添えた手を離して文人の頬をつまむ。

「体調悪いのかなと思ったけど、これはまた夜更かしかな?」

「あいへへ……っ」

文人の両頬を軽くつねって引っ張っては戻してを繰り返すいろは。文人の頬肉の柔らかさを十分に堪能したようで、いろはは文人の顔から手を離した。

「ゲームは一日二時間まで!って、おばさんに叱ってもらわないとね」

「げっ、ゲームじゃないし……変なこと母さんに言うなよな!」

文人の苦し紛れの言い訳に、いろはは口を尖らせて、指をさして物申す。

「ふみちゃんが眠そうにしてるときって、大体ゲームでしょ?私、知ってるんだからね!」

「知ってるってなんだよ、見てるわけじゃあるまいし……」

「知ってるもん。ふみちゃんはゲームしてる印象以外ないよ。あとは、そうだなー。パソコンおたくって感じだから、暗い部屋でずっとパソコンの前にいる姿が言わずと浮かぶね」

「なんだよそれ。もうぼっこぼこじゃんか俺の印象。つらすぎて生きる気力がわかない」

「まぁまぁ。それもふみちゃんの個性なんだし。とりあえず、遅刻する前に学校へ向かいましょう!」

「……フォローかそれ?」


***


二人は、紋白町から桜ノ木中学校への道のりを進む。紋白団地から通りに出て、烏宿(からすやど)川にかかる通橋を渡り、揚羽町に続く道をまっすぐ行って、コンビニエンスストアを南へ曲がる。学校までの一本道となるこの道は、朝の時間帯は特に、桜ノ木中学校の制服を着ている子供が多い。

文人といろはもまた、そんな子供達のうちの一人だ。がやがやと賑やかな生徒達の列の中に入っていって、二人で談笑しながら、彼らに倣って歩いて行く。

「今年はクラス、どうなるだろうね?」

「んー、二年から三年って結構繰り越しが多いみたいだけど、一年から二年ってどうなんだろ。なんかクラス毎に特徴はある気はするよな」

「へー、例えば?」

「A組はなんか、こういうのもなんだけど、ちょっとやんちゃなヤツが多いかなー。でも、運動部も多いよな。体育会系クラスって感じかも。で、去年俺たちが一緒だったB組は、みんな大体なにかしら特別得意なものがハッキリしてるのが寄ってる。C組は始業式とかで表彰されてるヤツが多いから、なんか頭がいいヤツの集まりって感じで、D組はなんかまぁ、スクールライフエンジョイ勢が集まってるってイメージ。と、こんなところかな」

「うむ、言われてみれば。ふみちゃんって意外と、人のこと見てないようで見てるんだねぇ。第二の趣味は人間観察かな?」

「人間観察なんて気味の悪い趣味持ってねーし。特徴のあるヤツと、その周りのヤツがぽっと頭に浮かぶだけだって」

「特徴のあるヤツ?」

「例えば、勝利なんかA組だったけど、もろ体育会系だろ?」

「あぁ、かっくんはそうだね。今年は一緒になれるといいね」

「そうだなー」

「じゃあ、かっくんの他には?」

「C組で思い浮かぶのはやっぱり、学級委員の如月(きさらぎ)さんでしょ。剣道部の。如月さんはあのインテリ学級でもなんか特別な存在って感じ。文武両道を姿で表したような人だよなあ」

「うん。女子の憧れって感じ。凛としてて、かっこいいよね」

「話したこと一回もないけど、良いイメージしかないな」

「D組は、ふみちゃんの言う、特徴のあるヤツっていうの、なんとなくわかるなあ」

「じゃあ、言ってみ?」

「えっと、吉原(よしはら)君でしょ」

「ははっ、さすがにわかるか」

「だってすごいなんていうか……」

「チャラい?」

「……そう、かな」

苦笑いを浮かべるいろは。文人も、つられて笑った。

「いろは、去年はさんざんアタックされてきたもんな」

「もー、事ある毎に断るの、本当に大変だったんだよ?」

「いろはにその気はなかったりするん?」

「全っ然!」

「ちなみになんだけど……今好きなヤツとかいたりするわけ?」

「な、なに、ふみちゃん、いきなり」

「い……いや、いるのかなーって気になっただけ」

「えっ、えっと……」

ゆでだこになったいろはによって、二人のやりとりが息詰まる。

「おっす」

そんな時であった。名を呼ばれたと思えば、文人の頭に大きな手が下されて、文人は「わふっ」と、なんとも素っ頓狂な声を上げる。文人が振り返ると、そこには文人よりも背が高く、恰幅の良い男子がいた。彼は、文人といろはの小学校からの幼馴染で、先ほど二人の会話で名前も出た、香原勝利(こうはら かつとし)その人である。

「はっ、あっ、かっくん。お、おはよ」

いろははうろたえながら勝利に言った。勝利は文人の頭から手を離して、そのまま手釈でいろはに返事をする。

「おう。おはよう。どしたいろは、そんなにキョドって。つか、ふみ目のくますげーな。またゲームか?」

「ち、違うって」

「ははっ、違わねーだろ。体に悪いぞ?」

勝利は笑いながら、文人の肩をぽんぽんと叩く。

幼馴染も揃ったところで、三人はあらためて学校への道を歩き始めた。その道中ではやはり、新しいクラス編成や如何に、という話題で賑わっていた三人なのであった。


***


八時も過ぎ、満開の桜が彩る春の色に囲まれた桜ノ木中学校には、続々と学生達が集ってきていた。文人、いろは、勝利もまた、生徒達に続いて行く。

校門から昇降口への道を進んでいくと、校舎の壁に向かって人だかりが出来ていた。同じクラスになったと喜ぶ男子のグループ。友達と離れ離れになってしまってどんよりとしている女子。どうやら今年も、外にクラス編成の紙が張られたホワイトボードが掲示されているようだ。

「緊張するね……!」

「そうだな……なんだかんだ、一年の友が決まる瞬間だもんな……」

「今年はお前らと一緒だといいなあ。どれどれ……」

三人ははけていく人だかりに割って入っていって、二年のホワイトボードへとずいずい進んでいく。いろはを先頭に、三人それぞれ、まずは前学年で自分の居たクラスのところから、自分の名前を探した。

「あれ、俺の名前Aにないな」

「あ、あー!」「お、おー!」

いろはと文人が、大きな声を揃える。二人の声に、少しびっくりする勝利。

「うぉ、お前らどした?」

「勝利、三人一緒!B組だ!」

「今年はよろしくね!かっくん!」

「え、お、マジだ。二人とも、よろしくなー!」

今年は勝利も一緒だと、嬉しがる文人といろは。勝利も表情を綻ばせて、三人集まれる事を喜んだ。

「ふみちゃんとも一緒だね。もうここまでくると腐れ縁だあ」

「おま、腐れ縁いうな!」

「ふふっ、うそうそ。今年もよろしくね。ふみちゃん」

いろはは文人に微笑む。文人はいろはの嬉しそうな顔を見ると、どきりと心臓を高鳴らせた。勝利と一緒のクラスになれたことは勿論嬉しい。しかし、それ以上に文人は、いろはとまた一緒のクラスになれたことに安心していたのだった。今年一年、またチャンスがあるのだと。

「……あぁ。今年もよろしくな、いろは」

そう言って、文人はいろはに微笑み返した。いろはは自分が友達以上に想われていることなんて、きっと知らないだろうな。文人は微笑みの中に、すこしの寂しさを隠した。

――彼、里中文人は、『あの日』からずっと、神野いろはに恋をしている。

幼馴染という、近くて遠い距離の間で、文人はいろはのことを想い続けていた。

しかし、それを今も告白できないでいるのは、幼馴染としてのいろはがいなくなってしまうかも知れない、という怖さがあるからに他ならなかった。

幼馴染としてのいろは。そして、恋の相手としてのいろは。

二人のいろはの間で、文人の心は今もなお、ゆらゆらと揺れているのだった。

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こいいろは 向水そら @mukoumizusora

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