闘いの地・綾瀬

南風禽種

闘いの地・綾瀬

 新宿から小田急線の急行に揺られ、およそ一時間。

 そろそろ尻が痛くなってきたなと思うころ、海老名駅に到着する。


 海老名の街は大きく変わった。開発がすすみ、若い人が多くなった。

 少なくとも二十年前は、ここまで繁栄していなかったと思う。田畑がひろがり、牧歌的な雰囲気が残る、いい意味での田舎だった。


 そうは言っても、繁栄することは街にとっていいことにちがいない。

 繁栄を肯定的に言いかえるならば、街の多様性が増した、というべきなのだろう。


 私はそんな若者の街をすり抜け、郊外へと歩をすすめる。向かうのは東の高台。そのむこうに、今回の目的地があるからだ。


 その高台は、南北につらなる山脈のようになっている。宅地化された急斜面を左手に見ながら、幹線道路を歩いていく私。

 途中に古墳跡がいくつか残っていることからして、はるか古代、ここが地方豪族支配地の辺縁だったのだと思わせてくれる。


 東名高速道路の高架をくぐり、さらに歩をすすめると、最後に私を待ちうけていたのは、かなりの急勾配だった。


 息を切らしながら、この急勾配を最後まで登りきったとき、私の視界は一気に開けた。

 眼前に見渡すかぎり、緑の地平線が飛びこんできたのだ。


 ここから先は、神奈川県内でもっとも新しい市である、綾瀬市に入る。


 高いビルが造られないよう、法律で低く抑えられた住宅街を切り裂くかのように、幹線道路がゆるやかなカーブを描いて、谷底へと斜面をくだっていく。

 谷底へとくだる道路には街路樹が植えられていて、それらが涼しげな木陰を作ってくれていた。


 その谷のむかい斜面に見えるのは、うっそうと茂る森林。ここにあるという史跡が、私の最初の目的地である。息を弾ませながらも、私は意気揚々と斜面をくだりはじめた。


 そのとき、けたたましい轟音を上げながら、大きな灰色の飛行機がゆっくりと低空を旋回していくのが見えた。どうやら米軍の軍用機らしい。

 おそらく、東の台地を占める米海軍厚木基地へ着陸するために、旋回しているのだろう。


 そう……。綾瀬は自然ゆたかでのどかな街だが、基地の街でもあるのだ。


 軍用機を見上げながら、並木道をくだり切った私は、新しく造られた道路から左に折れ、里山と田園風景が残る旧道へと、迷うことなく歩をすすめていく。


 里山はすでに住宅地として開発されていて、緑ゆたかだった往時の姿をしのぶことはできない。しかし川沿いの斜面には今でも森林が残っており、それがのどかな田園風景を、いじらしくも際立たせているかのようだ。


 そんな谷あいの田園地帯を抜けると、史跡へと続くと思われる急な坂道が、目の前にあらわれた。


 それを登っていくと、つい最近できたばかりの新しい家々が並んでいるが、そんな閑静な住宅街を抜けて数分も歩いたとき、広大な公園が姿をあらわす。


 その公園の名は、「城山公園」という。日本中どこにでもある、ありふれた名前の城跡公園だ。


 城跡というと、戦国時代のものを想像しがちだ。事実、戦国期の城郭跡を公園として整備し、市民に開放している例は枚挙にいとまがない。


 しかし、ここにある城山公園は、ほかの城山公園とはひと味ちがう。

 戦国時代ではなく、鎌倉時代の城郭跡なのだ。


 平成元年から六年にかけて行われた学術調査において、ここに存在した「早川城」が、鎌倉時代にまでさかのぼる中世城郭の典型的な例であり、さらにその遺構が非常によく残っていることがわかった。

 いまでは、県指定史跡にもなっている。


 私は公園に入り、花壇を回って石畳の通路を奥へ行こうとするところで、小さな橋を渡った。

 よく見ると、この橋は水路にかかっているのではない。古い時代の堀切(空堀)にかかっていたのだ。


 後世の本丸にあたる「主郭」はこの奥にあり、さっき登ってきた急斜面から突き出たような地形になっているという。

 つまりこの堀切は背後の台地と、崖っぷちにある主郭とを、分断していることになる。


 何かあれば橋を落とし、防御に徹するために――。

 ここは近世以降よくみられる「住む城」でも、一時的に手勢を派遣する「砦」でもない、武士がみずからの存亡をかけて立てこもる「闘う城」だったのだ。


 それを感じ取った私の足どりも、にわかに緊張した。


 綾瀬市の資料によると、この周辺は「渋谷荘」と呼ばれる荘園で、桓武平氏の流れをくむ一族である河崎重家がこの地を賜った。その際、彼も名字を渋谷に変え、一族で移り住んできたそうである。


 この城は、河崎重家の息子で、渋谷重国という武将が造営させた、という伝説が残る。


 彼は平安時代末期に源平の戦いで源氏側に立ち、のちに御家人として武家政権の成立にもかかわった、いわゆる鎌倉幕府の功臣のひとりでもある。


 ところがその後、幕府の実権が北条氏に移ると、有力御家人たちが次から次へと粛正される時代となった。


 幕府の功臣である渋谷氏もその例外ではなく、重国の次男高重が和田義盛の乱で義盛に味方したため、敗北後に所領を没収されるという憂き目に遭う。


 そんな緊張感に満ちた時代に、早川城は建てられたのだ。

 一族の存亡をかけた闘いの日々を思った私は、しばし瞑目した。


 そこに再びとどろく、軍用機のエンジン音。灰色の機体が空をかすめて消えていく。

 思えばここは、基地の街。有事の際には、国家の存亡をかけた闘いの地に変わるのだろう。


 さいわい没収された渋谷荘は、高重の兄である光重が懸命に名誉回復に動いたため、再び渋谷氏に安堵されたという。彼らはその後、薩摩国など全国へ広がっていった。


 渋谷氏が有事の際、闘うために整えたという城郭の跡でいま、闘う飛行機を見上げている私。

 数百年が隔たっても、人間はまだ、闘うことをやめようとしていない。

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