まろうど

早瀬史啓

まろうど

 その日はとても寒く、雪がちらほらと舞う夜の事でしたか。

 昨日から降る雪は多く、野辺のべはすっかり深雪みゆきで覆い隠されていました。この十和田の町は、毎年大層な雪が積もるので、冬はどんな店も、ぱったりと客足が途絶えてしまうのでございます。


 この日も、わたくしめは早々に店じまいをしようと、旅籠はたごの玄関口にある暖簾のれんを畳んでいた時のことでございます。丁度、あの奇妙な客人が、わたくしめの旅籠はたごへいらしたのは。


「ごめんなさいよ」


 雪のついた竹笠たけがさを目深にかぶり、使い古しのみのまとった、六十くらいの御仁ごじんが声をかけてきたのでございます。あまりにも古い時代の―――すみませんね、でも、今はそんな古びた格好をする人なんていらっしゃらないものだから、心の内では、大層驚いたものでございます。

 そして、奇妙にも思ったのですけれど。この大雪の中わざわざおたなを訊ねていらっしゃった以上、わたくしたちにとっては大切なお客様でございますから、追い返すのも失礼な話でございましょう?

 ですから、二つ返事で、招き入れたのでございます。


「さあさ、お入りになってくださいまし。お荷物のほう、お預かりさせて頂いてもよろしゅうございますか」


 お客人は玄関先で雪を払うと、竹笠たけがさみのわたくしめに預け、藁靴わらぐつを脱いで玄関傍の囲炉裏いろりに座られました。格好からして奇妙な御仁ではありましたけれど、竹笠たけがさみのの中は、それはそれは普通の、赤ら顔の人好きそうな、小太りの御仁ごじんでございました。


「いやあ、凄い雪だねえ」


 赤ら顔をくしゃりとするものですから、わたくしもつい口を滑らせて。


「ほんに、今年も大層な雪が降りました。去年なんてわたくしの背丈を軽く超すくらいの雪で。雪かきがもう、それはそれは大変だったのでございますよ。おたなの皆で雪下ろしをして、軒下に溜まった雪の量に途方に暮れて。あの時ほど困ったことはございませんでした」


「は。は。は。そりゃあ難儀だったねえ。しかし雪は悪鬼を封じ込めるというからね。積もれば積もるほど悪い奴は地面の下から出てこられない。良いことですよ」


「あら、十和田の昔語りでございますね」


 わたくしもようく覚えてございます。それは十和田に伝わる童語わらべがたり。昔々あるところに村人を食い殺す鬼がおりましたそうで。冬の寒い時期になると村にやってきては、家の中で過ごしている村人を襲って腹を満たしていたそうでございます。外は雪が酷く、逃げる事も出来ず、ただただ、襲われては食い殺されるという有様だったとか。

村人は困り果てて、村の社に祀られている大神様に鬼を懲らしめて欲しいと願いました。大神様はこれを聞き入れ、大神様がおられぬ冬の間だけ、鬼を雪の下に封じ込めたのでございます。


「春を引き連れた大神様が雪を溶かすまで、鬼は雪の下に封じられ、冬の間家の中で過ごす村人を襲うことも無くなったとか」


「春になれば、大神様がいらっしゃるからねえ。鬼も悪さが出来ないね」


「ほんに。子供の頃は祖母からよく聞かされて、雪の夜が怖くて仕方ありませんでした……あら、いけない」


 丁度、囲炉裏いろりにかけていた鉄瓶から湯気が立ち上ったので、わたくしめは心づくばかりのお茶でもと、用意を始めました。湯で器を暖めていると、お客人は慌てたようにわたくしめを呼び止め、


「茶は、いい。酒を一杯くださらんか」


 と、お客人は指先で猪口をつくると、それをぐいっと飲む仕草をし、笑んだのでございます。そのどうの入り方といったら。まるで飲み慣れているようでございました。


「熱燗でよろしゅうございましたか?」


「雪冷えで、たのむ」


 その言葉を聞いたとき、わたくしは大層驚いたものです。こんな雪の降り積もる寒い日に、そんな冷たいものを飲むなんてと。雪冷えといえば、冷やよりも冷たい温度の事を云うのでございます。そんなものをこの寒い時期にお飲みになられたらお腹を壊してしまいます。ですから、やんわりと、お伝えしたのでございますけれども、お客人はそれが良いと。


 ふと、わたくしはかつて旅籠はたごを訪れたお客人のお話を思い出しました。なんでも露西亜ロシアでは、度の強い酒を飲んで身体を温めるという文化があるらしく、温かいお茶をよりも酒を好まれると。ひょっとしたら、こちらのお客人もお茶よりも酒で身体を温めたいのかとも思いました。

 

 けれど―――次にお客人が取られた行動に、わたくしめは目を疑ってしまいました。

 

 お客人は赤ら顔をさらに赤く染めて、暑い暑いと言い、上着を脱ぎ始めたのでございます。そして遂には、肌着一枚になっておしまいになられたのです。そして、更に顔を赤くして、沢山の汗をかき始めたではありませんか。その汗の出方といったら。まるで真夏の炎天下で立ち尽くした時のような滝のような汗で。段々と心配になってきて、ついにわたくしめは訊ねてしまったのでございます。


「どこか、お身体でも悪うございますか?」


 赤ら顔のお客人は、平気のへいさで、首を横に振りました。


「なんてこたぁない。悪いが、手ぬぐいも貸していただけないかね。それから、早く冷たいものを」


「いま、お持ちいたします」


 今しばらくお待ちくださいと言いながら、逃げるようにして手ぬぐいを取りに、店の奥へ行きました。あまりにも酷い表情をしていたらしく、すれ違った仲居のお嬢さんが目を剥いてこちらを見ておりました。店の奥から慌てて手ぬぐいの二、三枚、いいえ、五、六枚をひっつかんで戻りますと、あのお客人の姿がふたまわりなっておりました。


「いやあ、悪いねえ」


 お客人は手ぬぐいを受け取ると、顔に首にと拭い始めました。五、六枚もあれば足りるだろうと思っておりました手ぬぐいは、あっという間に濡れ雑巾のようになってゆき、しまいには足りなくなってしまったのでございます。


「もう少し持って参りましょうか」


「うん。あと、手桶があると良い。それから冷たいものを」


「あい、今しばらく」


 拭っても、拭っても噴き出してくるお客人の汗に、わたくしは大慌てで。お客人の変化など見も考えもしなかったのでございます。そのお客人が、目の前でまたもうひとまわり小さくなっていたなんて。


 わたくしは大急ぎで戻ると、炊事場の若人わこうどに冷たい水を頼み、その足で奥からありったけの手ぬぐいと手桶をもってお客人の下へ向かったのでございます。したら、そこには半分服の脱げかかった子供のような成りのお客人が、じっとこちらを見つめているのでございます。黒玉のような虚ろな目で、一言。


「冷たいものは、まだかねえ」


 訪れた時と同じような、すこうし間延びしたような声色でわたくしに訊ねてきたのでございます。束の間、私は言葉を失いました。だって、奥から手ぬぐいを持ってくる間に、大人から子供の姿に変わるなんてねえ。おかしな話でしょう。束の間、息を吸うことすら忘れたわたくしへ、お客人は見上げてこう続けたのでございます。


「ここは熱い。まるで煉獄のようだよ。だから、ねえ。はやく冷たいものをくださらんかね」


 焦れるようなが。

 カチカチと鳴るが。

 何を考えているか分からぬ闇のようなが。

 額からほんのりと突き出たが。

 汗を流すたびにどんどん小さくなってゆくそのお客人が。

 わたくしには得体のしれぬものに映っておりました。


 まるで、十和田の童語わらべがたりに登場するのような。


 手から、手桶がからりころりと転げ落ちて、漸く我に返ったわたくしが、まろぶようにして奥への戸口にたどり着いたとき。冷たい水を持ってきたばかりの若人わこうどが湯呑を持ちながら暖簾越しに何事かと覗いておりました。


「ねえあのお客人、何か変だよ」


 すがるようなわたくしの姿に若人わこうどが眉をしかめ、暖簾から身を乗り出して玄関端を伺うと、首を傾げました。


「子供ではないかね」


「子供じゃなかったんですよ。さっきまでは大人で」


「そんな莫迦ばかな」


「決して嘘じゃございませんよ」


 だってさっきまで、小太りの御仁ごじんだったのだから。玄関口にかけられた大人用のみのと大きな藁靴わらぐつを指す私を、若人わこうどは訝しがっておりました。

 ふと、若人が視線を下げて屈んだかと思うと、そっと忍び寄ってきた気配に湯呑を差し出しました。坊やこれで良いかねと訊ねるその姿を、わたくしは息をつめてみつめました。

 お客人は湯飲みを奪い取るようにして受け取ると、喉を鳴らして飲み始めたのでございます。口角から流れ伝う水を袖口で拭うと、お客人はお代わりを催促いたしました。


「もうすこうし欲しい」


「ちょいと待ちなすって」


 若人わこうどはほらなという顔つきでわたくしへちらりとほほ笑むと、そそくさと湯呑を片手に共に奥へ引っ込んでゆきました。声も無いまま呆然とするわたくしに、お客人はふいごのような笑い声を漏らし、


「驚きなすった」


 してやったりと、笑うのでございます。


「雪はあやしきものを封じ込めますでな」


 あの真白く冷たき雪の下へ。善きものも悪しきものも全部全部封じ込め、十和田の大神様が春告げにやってくるまで、あやしきものも獣も、共に仲良く冬の間眠りにつく。冷たい土の下で、暖かな風とともにやってくる目覚めの時を待ちわびながら。

 お客人は笑みを引っ込め、虚ろな眼をわたくしに向けますと、耳まで裂けた口を開き、こうおっしゃられました。


「水を飲んだら、腹が減ったわい」


 あんぐりと開いた口に、ぞろりと並んだ白い歯はまるで鬼の牙のよう。生臭い息はまるで腐敗した肉のような臭いがいたしました。わたくしは這う這うの体で逃げようと致しましたけれど、そんな時に限って身体はいう事を聞かぬもの。足をもつれさせて尻もちをついた時、お客人は待ちわびたかのような息を吐かれました。



 唐突にやってきた生温い闇の中に、わたくしの心は、助けを乞う叫びも空しく途絶えてしまったのでございます。




 さて、おたなはその後どうなったのか。わたくしめにはとんと。なにぶん一人はあやしき鬼。もう一人は喰われてあやしき鬼の腹の中とくれば、その後を知るなんて出来ようはずもなく。伝え聞くには、一人の子供と仲居が連れだって行方をくらましたのだとか神隠しだのと言う噂が巷で流れたようでございますが。真偽のほどは、はてさて。なにぶん誰一人知る者のいない物語でございますゆえ。

 それをどうしてわたくしが知っているのかって。ふふ。語り部たるわたくしは、一体何者でございましょうねぇ。


 ああ、沢山話したものだから、ちょいと

 なにか、冷たい飲み物はございませんか。




当サイトに掲載されている写真、イラスト、文章の著作権は早瀬史啓に帰属します。無断での複製・製造・使用を全面的に禁止します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まろうど 早瀬史啓 @hayase_p

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ