ミッション・イン・オレンジ

RAY

ミッション・イン・オレンジ


 足下から電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてくる。

 長いエスカレーターの途中で立ち止まっていた私は、商売道具がぎっしり詰まったショルダーバッグを持ち上げると、き立てられるように歩き始めた。


 地下鉄千代田線の国会議事堂前駅――プラットホームは地下六階にあり地上からの深さは約三十八メートル。東京の地下鉄では二番目に深い駅で、ホームへ行くには九十九折つづらおりのエスカレーターを何度も乗り換えなければならない。


 右手で手すりをつかんで一段一段を注意深く踏みしめる。高さが高さだけに足を踏み外そうものなら大怪我は免れられない。ヒールの高いパンプスを履いている私はリスクが高いと言える。

 構内のところどころに、「エスカレーターでの歩行は危険です」と大きな赤い文字で書かれたポスターが貼られているのは、伊達ではない。


 やっとのことでホームへ辿り着くと銀色の地に緑色のラインが入った電車が止まっていた。間髪を容れず、発車を告げるベルが鳴る。

 慌てて一番前の車両に飛び乗った私は、息を整えながら二つ目の車両へと移動する。周りに人がいないシートを選んで腰を下ろした。


 都心といえども、午後二時過ぎの地下鉄は座れるのが普通だ。ラッシュ時の殺人的な混み具合を考えるととても同じ電車とは思えない。


 バッグの中から飲み掛けのペットボトルを取り出して喉を潤す。十月も終わりに差し掛かり暑さも和らいできたが、外回りが多い私にはペットボトルは必需品。冬であっても手放すことはできない。


 ふと良い香りが鼻をつく。

 甘酸っぱくて爽やか香り。俗に言う「柑橘系」。


 目の前にいる、OL風の女性がつけているコロン?

 それとも、騒がしい親子連れが飲んでいるジュース?

 はたまた、どこかの企業が仕掛けた広報ツール?

 ひょっとしたら、地球侵略を企む異星人の催眠ガスによる攻撃?


 瞬時に様々な考えが脳裏をよぎる。

 雑誌記者という職業柄、発想が豊か過ぎるのは否めない。


「昼下がりの地下鉄メトロにミステリアスな香り――果たしてその正体は?」


 脳内では、既に記事の骨子が構成されつつある。

 一種の職業病なのかもしれない。


 しかし、そんな大袈裟なタイトルをよそに、謎はすんなり解けてしまう。

 向い側のシートの真ん中あたりに、ちょこんと座っている。それが香りの正体。

 ダークブルーのシートに明るいオレンジ色が鮮やかに映る。小さな身体に似合わずしっかりと存在感を示している。


 見た感じ、スーパーで普通に売られているようなミカンが、なぜこんなところにいるのだろう? 自ら運賃を払って乗り込んできたとは思えない。皮だけの状態でないところを見ると落し物の可能性が高い。


 品の良さそうな老婦人が、シートに座ろうとしてミカンの存在に気づく。メガネをずらしながら顔を近づけてにこやかに頷く。


 後ろの車両から移動してきた、大学生風のカップルがミカンの前で足を止める。両手でつり革をつかんで「ミカンがそこに存在する理由」を真面目に議論し始める。


 ヘッドフォンを耳に当てた、髪を黄色と赤色に染めた若者がミカンをチラ見しながらリズミカルに身体を動かす。


 何の前触れもなく、都心の地下に出現した「小さな訪問者」は、持ち前の素朴な外観と爽やかな香りにより乗客を魅了する。そして、殺風景な車内を明るい雰囲気へと変える。


 地上で都会の喧騒に身を置く者は、直下でこのような「オレンジ劇場」が展開されているとは夢にも思わないだろう。


 私が地下鉄に乗ったのは新お茶ノ水駅までの十分足らずの時間。運賃は初乗りの百六十五円。地下鉄の運賃を安いと感じたのは初めてのこと――心地良いサプライズを楽しむことができたのだから。


★★


 地上に出ると、そこにはがあった。

 秋とは思えないような太陽が照り付け、行き交う車のクラクションと街頭演説の濁声だみごえが耳につく。

 都会特有の喧騒が私を憂鬱な気分にさせ、会社へ向かう歩を鈍らせる。


 スクランブル交差点の歩行者信号が青に変わると、歩道を埋め尽くす、スーツ姿のビジネスマンが一斉に動き出す。交錯する人波に流されるように私も横断歩道を進む。


 不意に足が止まった――どこからか柑橘系の香りがしたから。

 気のせいかと思い鼻をきかせてみたが、やはり微かに匂っている。


 歩行者信号が点滅しているのに気づいて、高いヒールのパンプスを履いていることも忘れて慌てて走り出した。

 歩道に達した瞬間、笑みがこぼれた。気持ちが穏やかになり、弾む息が心地良く感じられる――にすべきことが決まった。あのミカンのことを文章にしようと思った。


 私はさながら大深度地下から遣わされた伝道師。ミッションは「オレンジ劇場」のことを世間に伝えること。もちろん、その香りもいっしょに。


「ミカンはどこで降りたの?」

「駅員に回収されてしまったの?」

「落し物として登録されたの?」


 文章が活字になったとき、問い合わせが殺到するかもしれない。

 そのときには、ミカンは誰かのお腹かごみ箱に収まった後だろう。

 ひょっとしたら、ミイラのようになって落し物置き場にひっそりと残っているかもしれない。


 私の妄想は終わりそうにない。

 たかがミカンのことなのに。足下の世界にミカンが一つ存在しただけなのに。


 ちっぽけなミカンによる壮大な物語――それは、いつまでものまま。

 私の中で。そして、文章を目にした、すべての人の中で。


 

 RAY

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