エピローグ
事件の後
胸の辺りが細かく震えている。
ブレザーの内ポケットに仕舞っておいた、音を消したスマホの振動。
眠りの世界から呼び戻され、机の上で小さく伸びをする。首の下で発せられた、短剣の鍔と布地による不快な摩擦音は気にしないことにした。
「……鎧かろげに着なし、小具足つまやかにして、弓脇にはさみ……」
念仏じみた古典教師の朗読を馬の如く聞き流し、また寝入るか暫し思案したのち、そっとスマホを取り出した。
新学期。クラス替え。学年は上がれど俺は相変わらず独りだ。
手許の液晶に浮かび上がる、〈事件発生〉の文字。送り主は見なくても判る。
窓を向く。
いた。開いている窓枠に腹這いになった化け猫が、今頃気づいたかと言いたげに欠伸しながらこっちを見ていた。
授業中だというのに、いつもながら勝手気儘な御仁である。化け猫もさぞや呆れ返っているだろう。しかし主人の命令は絶対だ。教師にバレないよう静かに席を立つ。
と、机の脚にぶつかった靴先が音を立て、机上を滑ったスマホが床に落下しもっと大きな音を立てた。
「そこ、大丈夫?」冷ややかな教師の声。「何か落ちたけども」
ケースに入ったスマホの無事を確認する俺を、同級生らと教師の無情な視線が捉えていた。
「ああ、君か」途端に教師の口調が和らいだ。「また事件?」
「あ、はい」
「君も大変だねえ。スマホは落としても、単位は落とさないようにね」
教師の軽口が生徒たちの笑いを誘った。
「頑張れよ」
後ろの男子に背中を叩かれた。
「天照先輩によろしくね」
隣の女子にブレザーの裾を引っ張られた。
「ほれ、今日はマグロの缶詰だぞ」
窓際の生徒が化け猫にエサを与えていた。
後方のドアから出るつもりだったが、全員に知られた以上、こそこそする必要はない。
「気をつけてな!」
相次ぐ激励の言葉を背に受け、俺は口の周りをツナだらけにした化け猫を追って三階の窓から飛び降りた。何度やっても無様な着地だが、恐怖心は克服したので記憶はちゃんと残っている。
地上で待っていた犬飼宵子と合流し、春風薫る校舎を後にする。
事件現場に一足早く駆けつけている、我らが名探偵の許へこれから向かうのだ。
「お前、それ胸に刺したままよく突っ伏して眠れるな」
「まあね。俺の腕力じゃ抜けないし、こればっかりはしょうがない」
「矢と鎌がなくなったからですのねっ」
「かもね。肩も軽いし」
〈不死の聖剣〉の効能のおかげで、不可能と思われていた首の矢と頭の鎌が除去できたのは、大いなる皮肉でもある。色々な関節が痛むのさえ我慢すれば、三階の窓から飛び降りても無傷だし。
「んで、今日はどこだよ」
スマホを見て場所を伝える。
「大学ってのはよっぽど暇なんだろうな。前に呼ばれたの先週だろ。週一ペェスじゃねえか」
「宵子も二年後は女神先輩と同じ大学に入ってっ探偵研に所属するですのっそしてそしていつか契りをっ……」
無事地元の私大に入学した先輩は、所属したミステリ研を次の週には名探偵活躍の場たる名探偵研究会に改変してしまったらしい。どんな手を用いたかは未だ以て謎のまま。その上あれだけ所持に拘泥していた〈無傷の秘剣〉をあっさり封印し、一度は集めた残り三つの〈小アルカナ〉もこれまたあっさり手放した。元の持ち主である少女と化け猫、そして円卓家の後継者の許へ。聖杯のほうはサイズが合わなくなって相当難儀したと思うけれど。
魔術師は負傷した躰を引き摺って姿を消した。その行方は誰も知らない。
凡ては元に戻った。
たまに先輩好みの事件が起きるほかは、極めて平穏な春の日々。
俺は思う。四つ揃った〈小アルカナ〉は、あのとき魔術師が語った〈鬼を超えるもの〉を結局創り出さなかったのか。
否。俺はそれを否定する。
鬼を超えるもの……それは名探偵なんじゃないか。
先輩は、それになれたんじゃないだろうか。
新たなメッセージを受け取ったスマホが、手の中で
〈鞘としての職務を失いながら、それでも刃に愛される。
取り柄とは正にこのことか〉
初めて見る先輩の一行超えの文面に、破顔せずにいられない。
「何独りでニヤニヤしてんだ気色悪い」
「きっ気持ち悪いですのっ阿呆みたいですのっ」
「いや、ごめんごめん」
今日はなんと呼ばれるのだろう。愚か者だろうか。たわけかうつけか、はたまた間抜けか大バカ者か。
ま、どれでもいいや。いつか名前で呼んでくれるその日まで、俺は先輩を追い続けるだけだ。俺の思いを、本心を伝えるのは、そのときでいい。
名探偵に、一人前の助手として認められるその日まで、俺の本名は預けておこう。
(了)
『』 空っ手 @discordance
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