第9話

 無邪気なきらきらと光る瞳を頭に思い浮かべて、握り締めた拳をゆっくり解いた。掌の中には、すっかり油紙のように草臥れている紙切れが入っている。あの日、最後に百合子と別れたあの放課後、僕の下駄箱には一枚のノートの切れ端が残されていたのだ。

 彼女の細く、不安気な小さな文字が走り書きされている。


 百合は日本ではずっと食用だったの。

 どんなに綺麗な花を咲かせても、

 根から引き抜かれてすぐ食べられる。

 わたしの人生は、この名前の通りよ。


 彼女がどういうつもりでこの遺書めいたメモを残したのかはわからない。いや、わからなくて良いのだ。もう何もくだらない深読みはしない。全ては遅過ぎたが、まだやれる事は残っている。


 くぐもった呻き声が足元から這い上がり、床に寝転んだ男は助けを求めるように口をぱくぱくと開いていた。金槌で思い切り頭を殴ったので、脳震盪を起こしているのかもしれない。

 用意していた縄を首に巻き付けて、首元を踏みつけながら力一杯締め上げる。身体が痙攣し、口の端を汚く泡立てて踠いていた。苦しみに歪む顔は、百合子に全く似ていない。


 とある深夜。あの百合子の立派な自宅で僕は彼女の父親を絞め殺した。いまや一人しか住んでいない屋敷は酷く寒々しい。早く終わらせてあげなければ。

 娘との関係を本人から聞いて知っているとインターホン越しに伝えれば、呆気なく門は開かれた。最初に金かと聞かれ、眉をしかめてそうだと嘘を吐く。もしかしたら逆に口封じされる所だったのかもしれない。室内に促されてドアが閉まった瞬間金槌を振るったので、確かな事は最早わからないが。

 橋田も同じような内容の脅し文句を手紙に書き、百合子の自宅の近くへと呼び出した。写真を持っていると嘘を足せば、自ら人目に付かぬよう用心して訪れてくれた。今は百合子の父親と仲良く床に転がっている。橋田には同情するが、百合子が愛した人物の一人である。死んでもらうより他はない。


 考えたのだ、百合子の為に今の僕が出来る事を。何週間も悩み抜いて、ある日天命を受けた。病院で百合子の母親が舌を噛み千切って死んだらしい。

 壮絶な最期であったそうだ。いまや舌を噛むだけでは死ねないのが通説であるが、処置を拒否して暴れどす黒い紫色に染まった顔に苦悶の表情を浮かべながら医者に結構な怪我を負わせたらしい。そして鎮静剤を打たれたショックで、結局はそのまま憤死したそうだ。あくまで噂でしかないが、多分その通りなのだろう。

 百合子が呼んだのだ。愛する者を躊躇いなく連れて行った。ならば、それを手伝おう。神には生贄が必要だ。彼女の愛する残りのあの二人を殺して、天に捧げよう。


 裏庭に苦労して運んだ二体の亡骸に古新聞を被せ、その上からジェルの着火剤をふりかける。本当は百合子の部屋で焼いてやりたかったのだが、スプリンクラーでも発動したら台無しだ。月が雲に隠れ、次第に辺りは完全な闇になる。良い夜だ。まるで百合子が手伝ってくれているようである。早く早くと急かされる幻聴を聞き、マッチを擦って小さな火を灯す。

 ぱちぱちと空気に触れて僅かな破裂音を上げながら、ゆらりと細い木の棒の先が明るく揺らめく。暗い場所で見る炎のなんと綺麗な事か。新聞の塊にそれを投げると、光の筋が弧を描いて流れ星のように吸い込まれていく。


 目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛くなった。百合子は、あの学園では正しく高嶺の花であった。いまや本当に手の届かない、僕にとっての大切な神様である。矮小な人間に何をされても穢れなく高潔で、ひと時の気紛れで人を愛しも壊しもする唯一無二の残酷な存在だ。僕のようなちっぽけな人間は、そんな彼女を崇めてひれ伏すしかできない。無力なのだ。そんな僕が彼女の為にできた唯一の慰めが、めらめらと舐めるような炎を這わせ燃え始めている。

 彼女の秘密の断片を知る者は多くいた。いや、秘密ですらないのか。彼女にとってとるに足らない話を知り、皆愚かにも勝手に踊らされていた。けれど、今こうして彼女の愛した人達を彼女の元に送ってやったのは僕だけだ。他の誰でもない、僕が自ら手をかけた。


「……百合子の、為に」


 脂の焼ける酷い臭いが鼻をつく。煤けた煙が、不恰好に天へ登っていく。熱い液体がぼろぼろと頬を撫でた。あの日の彼女の冷たい指先の感触を思い出し、やっと僕は、彼女の人間としての死を悲しんで泣く事ができた。



[続]

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百合子の為に 麻之助 @marima

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