第9話

 風が強い。髪は好きに遊ばれて絡まり、視界を妨げた。

 こんなに遠くまで来るのは、初めてだな。

 隣国との境を目の前に広がる様々な墓を見渡し、リアは目を細めた。これまで暮らしてきた娼婦街とは真逆の静けさが、風の冷たさと相まって身に染みる。耳が痛くなりそうだ。

「長らくご無沙汰しておりました。お久しぶりですね」

 目の前の墓へ微笑みかけ、リアはそう切り出した。

 ここへ来るまでに、一年の時間を要した。葬儀にも参加していない。だから彼と会うのは、あの日以来だった。道中で彼の為にと買った花束を墓前に供える。強風になぶられざわめくそれが、彼の言葉を代弁しているように感じた。

 膝を曲げ、鎮魂の念に瞼を下ろすと、彼と過ごした時間が眼裏に甦る。まだ鼓動を早めるその記憶に、瞼を上げて笑った。

「せっかく久しぶりに会えたので何か思い出話でもと思いましたが、あなた様との時間は、語るにはあまりにも短すぎましたね」

 同意は得られないままリアは、けれどと、言葉を繋ぐ。

「あなた様のことはきっと一生忘れられないでしょう。あなた様の残した傷も癒えることなく、私は生涯を終えるのです。……本当に、ひどい方です」

 彼以外誰も居ない墓地で、リアは話し続けた。風が、喋るそばから声を攫ってゆく。

「けれどあなた様は、出会ってからずっとそうでしたね。男娼と客として出会ったあの時からずっと」

 物思いに耽るようにリアはそこで口を噤み、視線を遠くへと移した。

「私ね、男娼を辞めたんですよ。あぁ、勘違いなさらないで下さい。嫌になった訳でも、辞めさせられた訳でもございませんから。……あの後しばらくは、心を遠くに置いたまま仕事をしておりました。上から、自分を観察しているような感覚で、ずっと」

 そう、あの騒動を起こしてなお杏華は彼を手放さなかった。最初の頃は、そうまでして奪いたい花があるのかと物見遊山で来た客や、何も知らない国外の客の相手を。次第に噂が薄れた頃からはまた通常の客をリアにあてがい続けた。そうしなければ、リアが壊れてしまうことを知っていたからだ。彼女は彼女なりに、リアを守ったのである。

「その時ようやく、自分が花だということに気が付いたのです」

 そのことに気づいてようやく、リアはあの夢を理解できた気がした。薄闇の中に延々と続く花畑。あの花全てが、リア自身だったのだ。ルドウィークの死後から始まった男娼生活の中で、誰かに求められるたびにその理想へと姿を変えた花。客の相手をすればするだけ増え続けるその上で、蝶は休めるはずがない。そこに咲く花で喉が潤うことなどなかったのだ。

 追憶に思考が散り散りとなり、今日ここにきた本来の目的を忘れかけてしまいそうだ。リアは慌てて首を振り、目の前の記憶をどこかへと飛ばした。

「あぁ、違う。そんな話をしにきたのではないのです」

 誰に対して言い訳をしているのだろう。冷静な思考に問われ、リアはひとり笑った。遠くへと投げていた視線を、目の前の彼へと戻す。

「遅くはなりましたが、ようやく足を開く以外の生き方を知りたいと思えるようになりました。大勢の誰かに求められる花ではなく、ただ一人に求められる人でありたいと。そう思えるように」

 蝶が安息できる場所はただひとつ。

「だからこれからは、隼人様の隣で生きてゆきます。すぐにでもあなた様に報告したいと思いここまで来たのですが、あの日から数えればずいぶんと時間が経ってしまいました。申し訳ございません」

 無意味な謝罪だ。深々と頭を下げながら、リアはそんな事を思った。本当に謝りたいことは、また別にあるのに。

 私も大概酷い奴だ。

 風が強く吹き荒れている。靡く髪を手で押さえながら頭を上げたリアは、今一度衛士那の墓に向き直り、やさしく微笑んだ。

「今日はもう帰ります。また、いつか」

 それでは、と踵を返したリアの動きに合わせて、黒蝶を模したピアスが光を弾いて輝いていた。

 所在なさげに墓所の入口で待っていた隼人は、リアの足音に気づいて顔を上げた。

「もういいのか?」

「えぇ。充分です」

 労わる声音にリアは笑って頷くと、小さく頭を下げた。

「あなた様を殺そうとした方の墓参りですのに、付き合わせて申し訳ございません」

「いや、俺も来たいとは思ってたからな。でも、まだしばらくは会えそうにない」

立ち並ぶ墓を見据え、隼人がひとりごちる。

「まだ許せないんだよ」

「あなた様を殺そうとしたことを、ですか」

「違う」

 当たり前だと返されると思っていた問いに、しかし隼人は首を横に振った。では何が? リアが問い直す前に、隼人は言葉を繋いでいた。

「あんたを傷つけた事を、許せないんだ」

「それならば私も同じです。あなた様を傷つけた衛士那様を、許せそうにありません」

「俺を殺そうとしたからか」

 先と似たような問いに、リアもまた首を横に振る。

「それも確かにそうですが。なにより、傷を見る度にあなた様が衛士那さまを思い出すことが嫌なのです。ほんのひと時でもあの方に隼人様を奪われるかと思うと、連れて行かれてしまうのではないかと恐ろしくなります」

「馬鹿言うな。ようやくずっと隣にいられるのに、そう簡単に離れるかよ」

 隼斗はリアの言葉を否定すると苦く笑った。

「衛士那様の想いを侮ってはなりません。私との最中でさえずっと、あの方はあなた様しか見ていなかったのですから」

「それは、酷い奴だな」

「えぇ、本当に」

 口元を手で隠して一緒になって笑う。それだけで、優しい幸福に包まれたような高揚感を覚えた。しかしリアは、すぐに笑みを消して乾いた地面に視線を落としてしまう。

「けれど私は、それ以上に許されないことを衛士那様にしてしまった」

 太陽が、雲の後ろに隠れてしまった。傾きかけた日差しの無くなった空気はとたんに冷え込み、風が頬を切り裂いてゆく。影は、なかなか動かない。

「リア」

 隼人に強く名を呼ばれる。どんな時でも惹きつけられるその声音に、リアは神妙な面持ちで次の言葉を待った。

「あんたが衛士那を殺したんじゃない。あいつが自分の手で、あいつ自身を殺したんだ」

 言い聞かせるつもりではっきりと口にした彼に、リアは何度も首を振る。

「けれどやはり、引き金を引いたのは私でした。本当はそのことを謝らねばならなかったのに、私は、来ることが遅くなったことしか謝れなかった」

「もういい」

 声が聞こえなかったわけではない。自分を止められなかっただけだ。

「私は、彼を殺した自分の罪から逃げだした――」

「もういい!」

 謝ったところで、死者が生者に許しを与えてはくれないことはもう分かっている。忘れてと言った彼の言葉を覚えていないわけでもない。それらすべてを理解した上で、あの日消えた命を罪として背負うことを決めたのだ。なのに、罪の形を目の前に自分は、それから目を逸らしてしまった。そんな自分が許せないのだ。

「……この話は、終わりにしよう」

 互いに、ここへ来れば辛い思いをするだけだと分かっていた。それほどまでにあの日の傷はまだ生々しく、癒えてなどいない。だから、帰ろうという隼人の言葉に、リアは素直に頷いた。

「隼人様」

「なに」

「手を繋いでもいいですか」

 墓所を離れてしばらく。何度も先程の事を謝ろうと開いたり閉じたりを繰り返していた口は、全く別の言葉を吐き出していた。そんな自分の弱さに歯噛みするリアの左手を、隼人の右手が絡めとる。伝わってくる温かさに、リアは肩の力を抜いていた。

「あんたの手、冷たいな。このまま手袋でも買いに行くか」

「買ってくださるのですか」

「手袋くらいなら、いくらでも」

 おどけた口調に、くすくすと笑声を鳴らす。

「ありがとうございます。けれど私にはこれで十分です」

「欲がないな」

「そんなことございませんが……今は」

「ん?」

 途切れさせた言葉に、隼人は歩みを止めた。つられて立ち止まったリアは、俯いた顔を上げて不器用に笑ってみせる。

「ずっとこうしてあなた様の隣に居させて欲しい。それしか思い付かないのです」

 言い終わるやいなや、隼人は繋いだ手を強く引いて顔を近づけた。そして目を閉じる間もなく、触れるだけのキスを交わす。

「さんざん人のアイデアやら石の輝きやらを喰い散らかしてきた蝶を、やっと捕まえたんだ。そう簡単に手放すかよ。……けど、あんたを縛るつもりはないから、隣に居たいなら勝手に居ればいい」

「逃げ出したら、どうするのですか」

「求めてんのはあんたなのに、逃げ出すの?」

 甘い目線で問いかけ、隼人はまた歩き出した。

 身体の奥から温もりが広がってゆく。まだ慣れないその感覚はこそばゆく、リアは溢れる想いのままに隼人の名を呼んだ。

「隼人様」

 それだけで、この想いは伝わっているだろう。しかし、振り返った視線が、優しく言葉の続きを促していた。言葉にして、その想いを形にしてと音にならなかった声が脳裏に響く。

 男娼の頃ならば、ためらわずに口をついていた言葉に、何度もまごつく。言って、と再度視線が促した。

「愛しております、隼人様」

 溢れた想いに隼人は目を細め、言葉にならなかったものも全てを受け取った。

「あぁ」

 遠く空を眺めて応えた彼の視線を追って、リアもまた蒼穹を見上げる。澄んだ空気の中を落ちてくる光が二人を包んでいるようで、眩しさに目を細めた。

 ようやくこの手に掴むことが出来たのは、リアも同じだった。だから、繋いだ手を強く握りしめる。無くさないように、二度と探すことのないように。


 地平線の先へ、太陽が沈んでゆく。青い空を赤く染め直しながら、その身を隠そうとしている太陽。闇を引きつれ、最後の瞬間までその存在を主張する光に、世界の全てが赤く色づいてゆく。そんな一抹の寂しさを覚える美しい景色の中で、二人寄り添った影がひとつ、長く長く伸びていた。

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黒蝶 雨月 日日兎 @hiduki

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