第8話
娼婦街の中でも奥まった場所に建つ徒花の店先には、今日も一輪の花が飾られていた。看板を表に出さないのは男娼の店と女郎の店を一目で区別する為に作られた決まりだそうだ。看板の無い店の前に花が飾られていれば営業中、無ければ休業日の合図である。
毎日これだけの為に仕入れているのだろうか。瑞々しい白の花弁を指先でそっとなぞる。そんな、らしくない自分の行動に、隼人は思っていた以上に店へ入ることに躊躇いを感じていることを自覚した。
たぶんそれは、夢の所為。いつもの蝶の悪夢では無い。延々と続く花畑を背景に、リアがひとり佇んでいる夢だった。美しい景色の前で彼は笑いながら涙をこぼし、震える声で告げてきたのだ。
あなたなど、愛さなければ良かったと。
呼吸を乱して跳ね起きたのは明け方のことである。悪い夢が直接現実に影響を及ぼすことはもうひとつの悪夢のお陰で身をもって知っていた。だから、長兄に徒花へ行ってこいと言われた時、胸に巣食っていた不安が重みを増したような気がしたのだ。何があった。食いつくように問いただした弟に、璃一はただ同じ言葉を繰り返しただけだった。そのころにはもう心臓に住み着いてしまった不安が、血液循環を悪くさせる。うまく酸素が回らない所為で鈍る頭に苦笑いを零し、これ以上ここで立っていても仕方がないとようやく店の入り口をくぐった。
「いらっしゃい、隼人。待ってたよ」
出迎えた赤毛の店主は、疲労を色濃く滲ませた笑顔で隼人を迎えた。何があった。繰り返す問いに彼女は笑う。
「あんたに、頼みがあるんだ」
彼の付き人であるユナに案内されたのは、いつもの客室ではなくリアの自室だった。ベッドへ腰かけ外を眺める彼の首には、昨日の出来事を伺わせる赤い痕が今もなお付いている。淡い光に包まれた彼の姿は一枚絵のようで、皮肉にもその赤が指し色の役目を果たしていた。
「リア。入っていいか」
声を掛けて振り向いた瞳は霞み、本来の輝きを失っていた。それでも微笑みを作るのは娼婦としての習慣か、意地か、隼人には判別がつかない。
「隼人様、どうしてここに」
動揺を含まない平坦な声音だった。穏やかとはまた違う、感情を忘れてしまったようなそんな声だ。
「杏華に頼まれてな」
「お館様に……そうですか」
続く会話を入室の許可と判断し、彼の隣へと腰かける。微笑んだまま俯いた彼は今にも泣きだしてしまいそうだ。
「らしくないな」
店先で花弁に触れた時のように、隼人はリアの首元に触れた。
「男娼風情が、身の程を弁えなかったその報いです」
「杏華は、本当にそんな風に思って言った訳じゃない」
「存じ上げております。けれど私自身が、そう感じているのです」
笑いながら顔を上げたリアの向こうに、花畑が見えた気がして隼人は目眩を覚えた。なんでこうも自分の夢は、ただの夢であってくれないのだろうか。花の匂いさえも感じられるのではと思うほどに悪夢と現実が重なる視界に、思わず尋ねずにはいられなかった。
「俺のこと、愛さなければ良かったと思ってるか」
見開かれた眼に、しまったと後悔が襲う。しかし一度発してしまった言葉はもう戻すことはできない。みるみる内に彼の瞳は輝きを戻し、それと同じ速度で涙を溢れさせた。その光景を美しいと思ってしまう自身に苦笑する。心が彼の中に戻ってきたことを喜ぶべきか、彼を泣かせてしまったことを反省するべきか、隼人は他人事のように彼の言葉を待っていた。
「なぜ、そんな事をおっしゃるのですか。私は……私は、あなた様を愛して後悔したことなど一度もございません。なのに、どうして」
「でも俺を愛さなければ、こんな事にはならなかっただろう」
「誰を愛していようと、あの部屋の中では変わらず娼婦でいられると過信していた自身のふがいなさに嘆いてはおります。あなた様のことをけなされたとしても、あの部屋の中でだけは平静を保てると思っていたのに、我慢ならなかった。あまつさえ痕を残して仕事もさせて貰えないのですから……自分が、嫌になります」
私には、これしかないのに。続けられた言葉が、隼人には良く理解できた。それしか生きる術を知らない者が、それを取り上げられそうになった時に感じる恐怖は計り知れない。自身に照らし合わせて想像しただけで身体に震えが走る程だ。それでもなお自分を愛していると告げるリアが愛しくて、隼人は頬を流れる涙に口づけた。温かくしょっぱいそれをいくつもいくつも舌に転がす。やがて瞼へ、唇へとその場所を移動させ舌を絡ませた。やはり上手い。自然と熱を上げそうになるキスに隼人は名残惜しさを感じながら距離をとった。
「杏華からは、あんたを使い物になるようにしてくれって頼まれてたんだけどな」
隼人自身も、リアが辞めると言わない限りは彼に娼婦を続けて欲しいと願っていた。だから店先で杏華から事情を聞きこの部屋へ着くまでは、彼がもう一度仕事が出来るように尽力するつもりでいたのだ。実際、その瞳に輝きを戻した時点で彼女との約束は果たしたと言えよう。しかしもう一度彼を娼婦に戻すことに、今はためらいを感じていた。
「これ以上あんたが俺を想って傷つくくらいなら、仕事はさせたくないよ」
「隼人様……」
そっと胸を押され離された瞳には、強い光が浮かんでいる。唇は弧を描き、綺麗な娼婦の表情を作っていた。まずいな。隼人は再度後悔する。これは、怒らせた。
「お気持ちは大変嬉しく思います。けれど、引き際は私が決めます」
「そうだな。余計なこと言った」
素直に謝れば、彼は怒りを納めもう一度隼人の胸に額を押し付ける。
「今はまだ、これ以外の生き方が見えないのです。申し訳ございません。けれど、いつだってあなた様の隣にいたいと、そう願っていることも事実です」
「だったら、俺のものだって公言しとくか?」
「それこそ仕事に支障をきたします。隼人様に買われる決心がつくまで、どうかご辛抱ください」
どうやらこの黒蝶は、まだ捕まってはくれないらしい。髪を梳くように頭を撫で、隼人は分かったと返事をした。
「いいよ、あんたの好きにして。でも、俺の前では娼婦でいないで。ただの、リアでいて」
「努力いたします」
この建物の中に居る限り、隼人の願いを果たすことは難しいだろう。それでも、他の人には見せない顔をもっと見せて欲しいと思った。泣いた顔でも、怒った顔でもいい。自分しかしらない表情を、もっともっとこれから隣で知っていきたい。小さな幸福の願いを込めて、口づけをした。もう誰も、彼を傷つけないようにと祈りを込めて。
それから一週間が過ぎた。婚儀の準備が進むにつれて、人々の口からカヤノの名を聞く機会が増えたように感じる。噂によれば、指輪のデザイン画はすでに完成しており、制作の段階に進んでいるそうだ。聞かずとも耳に入る情報に臍を噛む。デザインの優劣ではなく、自身の身体的特徴の所為で逃した仕事であるのだから悔しさは消えてはくれない。瞳の色ひとつで、多大な時間をかけて作り上げたデザイン画がまたひとつゴミとなったのだ。
デザイン画を描き進めていた手が止まる。集中力の途切れに滑り込んできた思考が指先の動きを鈍くさせたのだ。普段は考えないようにしているが、時々思い出したように破棄されたデザイン画たちが脳裏に浮かんでくる。生みの親がふがいないばかりに日の目を見ることが叶わなかったそれらは、いつまでも隼人を苦しめ続けていた。思い出し、後悔の念に駆られている時は、描き続けていることを虚しく感じてしまう。目の前の作品を愛せなくなってしまうのだ。
「ダメだな」
こうなってしまっては筆を置くしかない。スランプとまでは行かない停滞期は、ただ単に集中力が途切れたことが原因のことが多いことは経験上知っていた。だから再び集中力が戻るまで気分転換をすれば、また筆は滑らかに動き出す。大丈夫だ。と自分に言い聞かせ、隼人はうんと伸びをした。
「隼人、まだそこに居たの」
タイミングよくかけられた長兄の声に振り向く。長い襟足をそのまま広げた姿はいつもより彼を華やかに見せていた。
「まだって何で」
「お前が自分で、今日出かける用事があるって言っていたじゃないか」
呆れた声に時計を見やれば、体感時間よりもはるかに時が進んでいることを告げている。見間違いではないかと瞬きを繰り返すが、時計の針はその位置を劇的に変えることは無かった。
「その顔だと、すっかりのめり込んで時間のことを忘れていたみたいだね」
「まずいな。すぐ出るけど、何か用事でもあった?」
「こんなことになってるんじゃないかと思って様子を見に来ただけだよ。あぁ、隼人」
慌てて身支度を整えていた弟の顔右半分にかかった前髪を、璃一は指先で耳へかける。現れた瞳の色を確認すると、安心したように頷いた。
「璃一?」
一回り年が離れているからだろう、璃一は隼人に対して過保護な一面を持っている。こうして様子を見に来たのもその表れだ。しかし今の表情はそれとは違う。呼びかけに疑問を混ぜれば兄はそれだけで察して答えを用意した。
「嫌な感じがするんだ」
「嫌な感じ?」
「さっきジョゼにお前の居場所を聞かれて、もうすぐ出かけることを伝えたんだ。なんでもない会話だと思っていたんだけど、何か重要な情報を漏らしてしまったような感覚がしてね」
「情報屋のクセに、管理が甘いんじゃないのか?」
ジョゼは石を磨く職人の一人だ。身内の一人に隼人の行動予定を教えることで支障をきたすことはまずないはずである。璃一が伝えたとしても問題があるとは思えなかった。
「以後、気を付けるよ。……何もなければいいんだけど。お前が慌ててガラスレンズをせずに外へ出ていってしまったのかと思ってみたりしてね」
「自分から仕事をつぶすような真似はしないよ」
「けどこの間は忘れていただろう」
初めてリアと会った日のことだろう。しばらくは前髪で隠れていたお陰で付けていないことを気づかれずに済んだが、見つかった後にはさんざん口うるさく言われたものだ。
「忘れたんじゃない。目が痛くて入らなかったんだ」
また小言が始まるのかとうんざりした目線で璃一と時計とを交互に見やった。時間がないと言外に告げれば彼はため息ひとつで納め、ほつれて落ちてきた前髪をもう一度耳にかけられる。
「分かったよ。気を付けていってらっしゃい」
「あぁ、行ってくる」
互いの仕事の都合により久方ぶりの逢瀬となる今日。足取りは軽く、心も浮ついてしまうのは仕方がないだろう。逸る心のままに辿り着いた徒花の店先には、今日も花が一輪飾られていた。そしてその花を眺めている男がひとり。
「衛士那?」
「あぁ、隼人」
いつもと変わらぬ笑みを刷いた唇に、空洞のようなヘーゼルの瞳。本能的な恐怖を感じ取った隼人は衛士那の数歩手前で歩みを止めていた。
「待ってたんだ。ここに来るんじゃないかと思ってね」
「待ってたって、俺をか?」
あぁ、と一言。衛士那が右足を前へ動かした。
「会いたかったんだ、君に」
体は動かない。ゆらゆらと近づいてくる彼から、目を逸らすことも出来ずに立ち尽くしたままだ。今の彼に近づいてはいけないという感情と、なぜ彼から逃げなければならないのかという疑問が、足を不自由にさせていた。心臓は正直だ。耳の奥をつんざく鼓動が鳴り響いている。
「隼人」
囁く優しい声音。緩慢な動きで上がった左腕に抱きしめられる。同時に感じる、腹部への違和感。
「え?」
冷たい、熱い、熱い、熱い、熱い熱い熱い。皮膚を突き破り肉を裂く鉄の塊を中心に、激痛が全身を支配した。
「衛士那、なんで」
「君を、彼に奪われない為に」
入り込んでいたものが抜かれる感触に無意識に手が動き、抜き出ないように押し留める。頭の中はやけに冷静で襲い来る痛みはどこか遠くのことのように感じていた。
誰かが悲鳴を上げる声、ざわめく空気。歪んだ唇が、落ちてくる。
「隼人……。――。」
鼓膜に刻み込まれた言葉が合図だったように、身体の感覚が甦った。神経を焼き切る激痛に立ち続けることなど叶わない。意識は薄れ視界が狭まる中で、背を向け徒花へと入ってゆく彼へと手を伸ばした。
「リア」
声は、届かない。
表の喧騒も、裏店までは届かない。いつも通りの静けさの中で、リアはその人を待っていた。
「こんにちは、失礼するよ」
ノックの音に返答する前に、件の人物がリアの自室へと足を踏み入れる。
「こんにちは、衛士那様」
お互いに薄く刷いた笑みを張り付けての挨拶だった。リアは衛士那と顔を合わせると素早く案内役を請け負ってくれた同僚へ目配せをする。二人きりでいい、戻れと。
「驚かないんだね」
去ってゆく姿を確認したあと向き直った衛士那は、一見普段と変わらない様子にも見えた。口調もいたって平静である。
「もう聞いておりますから」
唯一、彼に温もりを与えていたヘーゼルだけが違った。濁り、輝きを失った双対が彼の心が壊れてしまったことを教えている。
「それなのに落ち着いていられるんだ」
「えぇ。すぐに追いますから」
自分でも驚くほどに感情は凪いでいた。身体の真中に空洞が空き、そこに感情がすべて落ちてしまったのだろう。衛士那の手を染める赤に対しても、何も感じることは無かった。
「けれどその前に、少しお話がしたかったものですから」
「うん、俺も」
同意を示した衛士那に、椅子の代わりにとベッドを勧める。遠慮なく隣に腰をかけた彼の方へ身体を開いて、目を合わせた。その瞳に映った眼もまた、虚のようだ。
「ここまであなた様が隼人様のことを憎んでいるとは、思いもしておりませんでした」
会話の出だしに、しかし衛士那は首を振る。
「違うよ、リア。憎んでいるから殺そうとしたんじゃない」
「ではどうして」
「この間君が言っただろう、男の嫉妬は醜いって。その時ようやく気が付いたんだ。なんで君を隼人から奪いたかったのか」
リアは無言で話の続きを促した。
「俺はね、リア。あいつのことが好きなんだ。あのウルフアイも全て含めて、美しいと思ったんだ。でも、そんなこと俺自身が許せなかった」
虚の瞳が揺らめき、僅かに光を宿す。身体の奥底で燃え盛る炎の先が見え隠れしているのだ。醜く美しい愛憎の炎が、彼を呑み込んでゆく。笑みが歪んだ。
「だから憎んだ、自分自身を。でもそれを彼への憎しみだと勘違いしてたんだから、滑稽な話だろ? そんな勘違いを正してくれたのが、君。でも気づいた時にはもう遅かった。君と隼人はもう互いに想い合い、強く結ばれた後だったんだから」
「そんなお話をした覚えがございませんが。そんなにも色に出ていたでしょうか」
くつくつくつ、彼は楽しそうに笑った。
「この指輪に見惚れていたのを見たからだよ。覚えてる?」
右の薬指に嵌められた指輪を、衛士那は高く上げて示す。思い当たるその造形に、えぇと返答を返した。
「これ、隼人の作品なんだ。知らずに惹かれていただろう?」
確かに知らなかった。しかし、見惚れていた時間はほんの僅かだったはずだ。
「それだけでの事でお分かりになる程に、隼人様のことを想っていらっしゃるのですね」
「そうだね。気づかない間もきっと、分からず求めてきた。無意識に、無頓着に、不格好に彼を愛していたんだと思うよ」
彼の声音は変わらない。凪いで静かな口調は、どこか優しくさえ聞こえた。
「愛しているのならばどうして、殺そうなどと思ったのですか」
「君から隼人を奪う唯一の方法だと思ったからだよ、リア」
呼吸を置く間もなく、衛士那は答える。まるでそれが当たり前の事であるかのように。
どんな理由があろうと人の命は奪ってはいけない、と説教じみたことは言えなかった。なにせこの手でもう一人、人を殺しているのだから。だから笑ってしまった。やはり人殺しが幸せになることなど、望んではいけなかったのだと。
「そう、ですか」
それが、一旦の会話の終わりを告げた。
ゆらり、リアは重い脚を動かして大きなタンスの前へ立つ。右側上から三つ目の引き出し。音も抵抗もなく開けたそこから、懐かしい鉄の塊を取り出した。
「用意がいいね」
感心した声を出す彼と、詰め込む鉛球を確認しながら再び会話を続ける。
「えぇ。いつか自分で自分の命を終わらせる時がきたら、拳銃で死にたいと思っておりましたので」
「理由でもあるの?」
「ございますが、語る程のものではありません」
「そう。聞いてみたかったな」
指先は震えていた。これから起きる惨劇に慄いているようなのに、相変わらず心は空っぽだ。誰か他人の手を見ているみたいだな。どうでもいいことを思った。
「長々とお引き留めして申し訳ございません」
「いいよ、謝らなくて」
カチャカチャと金属同士が触れる音が耳の横で鳴っている。揺れて目標が外れては敵わないから、しっかりとこめかみに銃口を押し付けた。まだ冷たいそれが、小さく頭を冷やす。
「君に隼人をあげるつもりはないんだから」
一歩で距離を詰めた衛士那に、拳銃ごと手を掴まれた。突然の出来事に抵抗は少ない。下がる銃口に押し当てられた腹部。人差し指にかかる彼の細い指。自分の意志とは関係なしに、引き金が引かれる。
乾いた破裂音に手のひらの熱。朱に染まった部屋に漂う、鉄の匂い。
「どうして……」
「言っただろ、君から、隼人を奪うって」
激痛がその身に襲い掛かっているはずにも関わらず、衛士那は楽し気に喉の奥を鳴らしていた。
「後なんか、追わせるかよ」
それは、壮絶なほどに美しい笑みだった。彼の造形美は、この瞬間の為に神が創ったのだと聞かされれば納得してしまうほどの美しさで笑った彼の身体は、次の瞬間糸が切れたように床へと落ちてゆく。
「衛士那様!」
赤に染まったその身は、どんなに手を尽くしたところで、きっと助かることはない。見る間に広がってゆく血の海が、それを教えていた。それでも抗いたくて、今も血を流し続ける傷口を強く抑えつける。指の隙間から流れ出すそれは、彼の命そのものだ。あぁ、零れてゆく……。
「どうして、どうして……どうして!!」
目の前で命を失う恐怖に、穴の底へ落ちていた感情が突如爆発を起こした。
どうして彼が死ななくてはならない。どうしてこの命は救えない。どうしてこの手は命を取り零す。どうして自分に関わった人ばかりが――どうして!!
「もう誰も、失いたくないのに……」
目が溶けているのだろうか。ひどく熱くて、前が良く見えない。
「君は、本当に綺麗だな……」
瞬きの直後だけ鮮明になる視界は、穏やかに笑う彼を映した。
「ごめんね、リア」
優しい声にもう狂気はない。ごめん。もう一度彼は繰り返す。伸ばされた指先を染める赤は、愛した男のものなのか自身のものなのか。ぬめり帯びたそれをなすりつけるように、衛士那が頬に触れた。
「これで、隼人を奪えなかったら、もう……諦めるからさ。……そうなったら、俺の事、なんかさ。……忘れていいから、だから」
掠れた声が、途切れ途切れに言葉を綴る。
「これで隼人が死んだら、俺にちょうだい」
「衛士那様」
滑り落ちそうになるその手を摑まえた。もう力もろくに入らない冷たい手に、また涙があふれだす。
「獲られたく……ないんなら、早く、あいつのとこ行って……繋ぎ止めてきな」
「しかし」
「早く!!」
最後の力を振り絞っただろう慟哭に、体が跳ねる。
「醜い最期なんて、見られたくないから」
冗談のように続けられた言葉を背中に聞きながら、リアは走った。ただ一人愛する彼の元へ。視界は鈍ったままで、脳みそも動くことを止めてしまったようだ。真っ白い景色の中で、早まる鼓動を耳に、ただひたすらに彼を求める。
隼人様、隼人様、隼人様……。
こんなに早く足を動かしたのはきっと、あの日以来だ。置いてきぼりの思考と体。感情だけが先走り、何度も足をもつれさせる。やっとの思いで辿り着いたその世界は全てが歪み、けぶっていた。そんな中でさえ鮮やかに、赤い色と、くすんだ金、それから深い緑が視界を染め上げる。
「隼人様」
細く弱くではあったが、まだ彼は命の灯火を燃やしていた。それにひとつ安堵を覚え、膝が崩れる。良かった、間に合った。しかし彼の瞳にもまた、光は宿っていない。薄く開かれ焦点の合っていないそれらは、真上から覗き込んだリアに気づいていないようだ。
「隼人様、こっちを見てください。ねぇ、隼人様」
幾度も幾度もその名を呼ぶ。届くように、繋ぎ止めるように、祈るように、何度もリアは名前を呼んだ。
「隼人様……」
リア?
しばらくしてようやく、隼人は声の主の名を呼んだ。音を紡ぐことなく、唇の形だけであったが、それだけで十分だった。
「えぇ、隼人様。リアです」
「リア」
今度ははっきりと名前が音を成す。はい。応える声が震えた。
「あぁ……ピアスだな」
空気ばかりの声は聞き辛いはずなのに、リアの耳には一語一語はっきりと聞こえている。最後の瞬間に灯火が燃え盛ろうとしているのだろうか、隼人の瞳がわずかに光を取り戻していた。
「ピアス、ですか」
伸ばされた指先に既視感を覚える。赤に染まった指先が、今度は耳朶をなぞった。
「あんたに、あう、デザイン……きっと…………ピアスが。いい」
「でしたら、作ってください。この手で、私の為に……」
伸ばされた手のひらを包み、頬に押し当てる。温もりを分けるように、こぼれ落ちる命を留めるように、強く強く握りしめた。心臓が、狂ったように早鐘を打っている。
「連れて行かれないで……私を選んで、お願いですから……隼人様」
あぁ、こんな目に合わせるのならば、隼人様。あなたなど、愛さなければ良かった。
変わらない日常が、壊れていく音が聞こえた。足元から地面が崩れ、光は遠のき、闇が広がる。
この先に、二度目の再生はあるのだろうか。
黒蝶はまだ、花を探していた。
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