花鳥風月を銀に染め

ネロヴィア (Nero Bianco)

花鳥風月を銀に染め

 11月下旬のとある日に私は友人に連れられて小さな温泉街にやってきた。生憎の雨模様ではあったが、それがまた宿の独特な情緒をより引き立たせているような気がしてならなかった。ここは山形県の尾花沢、今もなお大正ロマンの趣を残す湯治場。

 その名を銀山温泉と云った。


 「ここへ来たらぜひ見て貰いたい物があるんだ。」そう告げた彼女の眼は遠い昔の幼き日と変わらず、曇り一つ無い透き通った檜皮色のままであった。日々都会の喧騒と雑踏に揉まれ、代わり映えしないスレート・グレイのビル群の檻に閉ざされたままだった私の眼はきっと泥炭のように酷い物だったろう。そんな私にとってはこの通りが呈す栗皮と小町鼠色のコントラストと、彼女の姿がどれだけ羨ましく思えたのかは言うまでもない。広義で示される所の地元に入るようなこの場所でさえ、十数年経って来てみればこんなにも素晴らしい物をただただ日常としてでしか受け入れる事しか出来なかったあの時の自分が少しばかり奇妙で、それと同じくらいにどこか風変りだったのではと心配になってしまう程だった。私は彼女が進むままに後をゆったりと歩き続けた。靴裏に当たる度に聞こえるコツンコツンとした足音が煉瓦道らしく、傾斜のある山道も全く以って苦にはならなかった。それよりかはこの先に、私の見知らぬもう一つの銀山温泉の姿があると考えるとどうしてもその胸の高鳴りが響いてくる。初めのうちは足元と同期していた心音も強く早く変化していた。


 しろがね湯を起点として滝の不動尊を左手に見ながら更に進むこと数十分、河鹿橋を超えたその先で彼女はふと立ち止まり、後ろを振り返ると

 「はい、お疲れ様!ここだよ!」

とはち切れんばかりの笑顔で威勢良く呼びかける。傍の案内板には【銀鉱洞北口】の文字が並んでいた。手招きをする姿に乗せられて駆け足で入り口を潜ると、歩道橋がずっと奥まで続いていた。中腹あたりまで進んで見ると、眼下には幾つかのスポットライトが天上を照らし、反射した橙色に包まれた〈延沢銀山廃坑洞〉の全容は息を飲むほどに美しく、ごつごつとした岩石が一定の秩序の元に存在する姿に、私は圧巻だとしか云う術を持つ事が出来なかった。それからどれだけ私はその場所を眺めていたのだろうか?「もう日が暮れる、早く戻ろう」と急かす彼女に「お願いだからあと少し、あと少しだけここに居させてくれ」と何度頼み込んだだろうか?それほどまでに私はこの場所に魅入られたのだろう。言葉では書き表す事の叶わなかった何かに。


 宿への帰り際に、私はふと心にもないことを口走ってしまった。

「確かに良い所だけれど、肝心の銀山も閉鎖されてしまっているのなら、ここはもうただの≪山温泉≫じゃないか。」

しかし彼女はそれに何か言い返す訳でもなく、ただ落ち着いた口調で

「そうかなぁ?そんなに思っているのなら明日の朝にもっともっと良い物を見せてあげる。だから早起きしてよね?」と意味有り気な表情で続けた。

 その時の私には、彼女の言っている事がさっぱり理解できないでいた。名所ならば今からでも無理やり回れるだろうし、きっと何か策があって言ったに違いないが、その内包する本当の意味までは見当もつかなった。

温泉街に戻った二人の背中を淡いガス灯の光がそっと押していく。昼に見た景色とは打って変わって、もう一つの燈の光に彩られた通路は変わらなかったままの時代を切り取ったようで心底驚く程に暖かく、懐かしさや忘れ去っていた気持ちがふつふつと無尽蔵に湧き出して来るように思えた。人心を喜ばせるそれはまるで、この川を流れる大元の源泉とどこか似ている。その晩に泊まった一室の露天風呂の中で私はずっと

温泉とは必ずしも物質的な温かさだけを伝播するのではなく、体をその外から、そして心までもを内から潤して癒し続ける事が出来る希有なものであると考えた。そうしてこの日本という国の長い歴史と国民に愛され守り続けられてきた理由がそこに残されていたのだろうと、他愛もない話に一人想いふけっていた。


 翌朝まだ早いうちに彼女に半ば強引に叩き起こされて布団から引きずり出された。枕元のデジタル時計は午前6時を示している。あと五分だけでもと懇願する私を尻目にそそくさとダウンジャケット姿に着替えた彼女は「もう時間がないんだから」と言いながら着替えを促す。やっとの思いで準備を終えたと思っていると、すぐに二人はまだ暗いままの外へと向かう。旅館入口のベンチに座っていること数分、急に周りが明るくなり始めたかと思うと、朝焼けが強く差し一面が真っ白に煌めいた。

昨日の真夜中に降り積もった初雪に染まったこの場所は夢に見た銀世界そのもので、大きくあいた口が塞がらぬままの私の手を彼女はぎゅっと握り

「ほら?ちゃんとあったでしょ?もう一つの銀色が…ね?」

と、したり顔で微笑んだ。我々が記憶や過去に置き去りにしたままの郷愁の想いは今もここにある。

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花鳥風月を銀に染め ネロヴィア (Nero Bianco) @yasou

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