純潔の少年

「ジュリアン」

 朝も夜もわからぬ閉じきりの地下室での覚醒は、呼ばれた、という確信とともに訪れ、意識の回復(正気であるかどうかはもはやジュリアンには判断がつかなかった)につれて幻聴であったと気がつき、未だ彼女の声を覚えているという深い安堵と未だ彼女は迎えに来ないという暗い怨み、そしてつぎの微睡みを破ったときにこそ彼女のすがたがあるのだという強烈な希望が……混然一体となってジュリアンの意識を侵す。

「師匠」

 目蓋を持ち上げると、ぼんやりと黒い天井が視界を占める。

 寝台の端、ほとんど落ちかけの位置で眠っていた。夢を探すことのない、淀んで重い眠りはあまりにも遠い記憶のうちにしか残っていなかった。

「嘘をつけ。浅ましいことだ」

 手ゆびのさきに力をいれると、ぴくりと動く。ゆっくりと時間を掛けながら肉体の感覚を取り戻してゆく。手のひらで敷布を掻き混ぜれば、不快な湿り気を感じた。天井は未だ茫洋として黒い。この地下室のうえにあるはずのどんな営みも信じることは出来なかった。瞬く。首を横に向ければ、書架の壁……反対に向ければ、先ず目に入ったのは黒い亀裂だ。吸い込まれそうな黒の不吉さは天井の比ではなく、胸が詰まる。息が弾む。目を逸らして、膝を抱き寄せ丸くなる。硬く冷たい自らの膝、尖った骨の痛々しいまでの孤独が薄い肉と相食んでじりじりと器官を持たない心を蝕んでいった。

「腹が満ちれば自省する体力も湧いてきたか? 肝心なことはひとつも視ていないというのに、おまえというやつは……」

 胎から薄らと熱がめぐる。滑らかにゆびさきが動く、躰を解いて半身を起こす。頭がぐらりと揺れて、一瞬意識が遠のきかける。ひどく痛むような気もしたが、触れても異常はなかった。重たく永い眠りに陥っていたせいだろう。顎で鎖骨のあたりを擦る。膚の感覚がある。熱が高い。滾るほど血が熱く、躰じゅうでどくどくと脈打っている。つまさきを床に下ろすと、ざらついていた。目を凝らしてもいったいどんなごみの類かはわからない(ジュリアンはずいぶん掃除をしていなかったのだろうと思った)。もう一歩踏み出して、

「目を開けろ、愚か者」

 ふと思いとどまり、振り向く。乱れた敷布の黄ばんだ色みが恋しくなった。もう一度眠ってしまいたい、だってここには。

「ジュリアン」

 高い耳鳴りが頭蓋を貫く。

 頭を抱えて仰け反る。

 細い鋸で頭をゆっくりと、けれど絶え間なく責められている。ここは――ここはどこで――あのひとが――熱い。目の奥から何かが溢れ出る。頬を焼く熱水、酸の、薬の、呼び覚まそうとしている狼がトウランが吼えた――遠く、いやほど近く、いる、のだ、ジュリアンを呼ぶ、獣の、もの悲しい、己への、失われた記憶、否、移植された、《だから、この僕の》頭のなかにはそう、朧げな影、継ぎ接ぎの怪物しか……棲んでいない……、「目を開けろ」、銀色の眸は未だ眠っている、地下室、濁り闇、瓦礫と小さな黒い靴、躰を真っ二つに引き裂いた惨い傷痕が、荒々しく縫い綴じられ、褐色に染まった太い糸、ここに――。

「ジュリアン」

「どうしてですか」――「どうしてですか……」

 子どものように泣きじゃくっていた。ぼろぼろと涙が落ちていった。青白く透き通らない膚は静かだった。いかな傷も存在してはいなかった。どんな痛みも孕んではいなかった。記憶はここにはなかった。廃墟のように崩れかけた無人の荒んだ肉体だけが、やがて朽ちるときを病み疲れやつれ果てて待望していた。なににも脅かされなかった。眠っていた。夢は甘かった。地下室の淀んだ空気の抱く様々の汚臭が、吐き気を催すほどの悪臭が、ジュリアンの痩せた肩にまつわりついて離れない。

「ジュリアン……磁翠……」

 かすかな、ほんのかすかな、飢えの果てのほんのひと欠片の肉、ひと粒の麦が、腹のうちにおさめられてゆく。

 目蓋をゆるやかに持ち上げる。

 濃闇の真中にぼうっと浮かびあがる斑の狼、鼻づらを暗いところに埋めて、尾をだらりと垂らしている。なにかを食らっている。雨音ではない。赤錆びた雨は止んだと聞いた。誰に。ぴちゃぴちゃと淫靡な音が狭い室でジュリアンを追い回す。

「吼え……吼えないでくれ、頼むから……」

「吼えてなどいないではないか」「よく見ろよ、ジュリアン。耳を澄ましてみろ……」「おまえはうつくしいものが好きだったな。いつも白い服を着て……、潔癖症の気があった」「本当は私に触れるのが嫌で嫌で仕方なかっただろう」

 斑の、斑に染まった白狼が、ひどくゆっくりとその鼻面を上げる。

 黒い血に汚れた毛皮から、ほたほたと滴る、唾液まじりの死んだ水……白狼がぐわりと牙を剥き、呆けるジュリアンに向かって唸った。

「おまえ……」

 暗い淀みに醜くぬめる血肉と、骨、黄色いなにか……咀嚼音、噛み千切らんと白狼が首を振れば、ぴしゃりと頬に汁が飛ぶ。ゆびさきで拭う。重く鈍い液体の感触が尾を引いた。黒い。赤い。嫌なにおいがする。

「きたな、い。なに、これは」

 震える。躰ががたがたと瘧のように震えだす。

 止められなかった。自らの手ゆびを口に含む。

 舌が痺れた。背筋に走り抜ける白い光、「ジュリアン」、甘かった。磁翠、そうだ、磁翠の血だ。東の血の味だ、彼がジュリアンを呼んだのだ。この血が、トウランと同じ、故郷に焦がれ、なお逃れた者の血が!

「東爛」

 喉が渇いていた。声が掠れる。

「東爛……貴方が、そうしろと……、言ったんだ。俺に、ひとを、喰ってでも、貴方を……あんたを待てと命じたんだ!」

 寝台から飛び出して、白狼を薙ぎ払う。切なく鳴いて狼は書架の壁にぶつかり、尾を巻いて蹲る。その上に、幾冊もの本が落ちた――そんなことはどうだっていい、ばらばらの欠片になって小山をなすおとこを喰う。なんだって口に放り込み噛み砕き飲み下す。渇けば床を舐めて血を啜り、骨の髄までしゃぶり尽くした! ジュリアンは!

 ふうふうと獣のような息をする。がたつく背骨を丸めた斑の少年は腕で口を拭い、再び泣きじゃくりはじめた。そろりと白狼が彼に歩み寄り、ぺろぺろと血に汚れた膚を舐めた。肩を揺らして、ほとんど呼吸困難のような有様で、息絶えそうに泣いていた。

「師匠ぉ……」

 ぎゅうと、いつの間にか近くにある狼の首に抱きつく。混乱が極った頭は、満たされた腹の意味をはやくも忘却しはじめていた。忘れるのだ、不都合なこと、取るに足らないことはすべて、ほんのひと欠片でも彼女の記憶を留めるために、夢に見るだけでいい、継ぎ接ぎの怪物でもいい、なんでもいいただ、トウラン、師匠、東爛、貴方でありさえすれば。

 滂沱と流れる涙も必要ではない。熱を逃してはならない。狼を抱く腕に力を籠めるほど息が苦しくなる。汚れてなど、いない。生きているだけだ。ジュリアンは潔いままだ。

「助けろよ、俺を……はやく……あんたを愛せるのは俺だけなんだ。あんたが愛したものはみんな死んじまっただろう。あとには俺と、このホーンしか、残ってないじゃないか……ここまで来ても、まだ、なにが足りないんだ? 俺はあんたに手紙を書いているじゃないか。どうしてあんたは……ひとつも、ひと言だって、返事をくれない」

 拾われた命だった。

 勝手に棄てることなど出来ない。

 いかな痛苦に責め苛まれようと、いかな時間が過ぎようと、いかなものを喰ってでもジュリアンは、彼女が「いま戻った」と、そう言う日まで、その日の先までの永遠、彼女の生ある限りの最期まで、彼女を待ち、彼女の為に生き続ける。

 死したのだ。みな死した。彼女を愛していないから!

 死など!

 トウランの孤独を、躰を引き裂くあの傷を、知るものならば。たとい彼女に殺されようと、死ぬことなど選べるはずもない。狂おうと、憎もうと、愛そうと、もはや意味などない。生ある限り生きている。生きている。生きているのだ。「あんたは俺に、必ず戻ると、必ず迎えに来ると言った」、獣でもかまわない。とうの昔から、ジュリアンは彼女の犬だった。人間だろうが、魔物だろうが、彼女の前ではなにもかもが卑小だ。

 地下室での狂乱ごとの痕を、這いずる。躰じゅうにこびりついた液体に、灰や塵や、あらゆる汚物が付着する。乾いて痛む顔をあげて、気力を振り絞り寝台へとのぼる。気遣わしげな白狼が、傍近くに伏す。湿った敷布にくるまって、不快にざらつく、汚穢に塗れた己を忘れる。

「目を開けろ」

 目蓋をゆっくりと下ろす安楽。

 きっとまた夢をみる。

 貴方の夢をみる。

 犬はあんたの夢をみる。

 幻のあんたの呼び声で目を醒ますだろう。昼も夜もないこの部屋で、つぎに空腹を覚えるときに。黒い亀裂は、感知出来ないほどのゆるやかさで小さくなりつづける。眠りのように、命のように細ってゆく。白狼が、尾で床を打つ。超克する。

 書架に蔵められた数多の書物を、少年は繙かない。物語のように無変の記憶の断片の実を繰り返しつづけ、やがて溢れ出す幻が彼を喰らい尽くそうとしたときにまた、一冊、もはや物語にもならない畸形の児が殖えるだろう。

 そして少年は純潔を守り細い息をする。

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病める白百合 跳世ひつじ @fried_sheepgoat

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