望郷、遠き
「まーた、ぼんやりしてるよお」
輪郭が徐々にはっきりとしてゆく。焦点があう。黄色い歯、それから斑に赤いくちびる、口の周りの膚は塗りこめた白粉が落ちて、浅黒く、吹き出物が目立っていた。卵型の……輪郭だけは見事なおんなだ。縮れた黒い髪が見事な輪郭を取り巻いている。細く吊り上がった目も黒い、同郷のおんなのようにも見えたし、そうでない気もした。おんなは小さな乳房をしていた。磁翠はごしごしと手で顔を擦り、あくびをした。
「ぼんやりしてたんじゃなくて、寝てたんだよ」
「えーでも目ぇ開いてたって」
「そう?」
たしかに、この狭く空ろな娼窟で、磁翠が眠ることはあり得なかった。おんなのように、情事のあとに眠るようなことはない。しかし頭にもやがかかっていることも事実で、磁翠は煙草入れを探った。
「あれ……?」
煙草入れがない。
「どうしたの? 煙草なくしちゃったの? あたし、買ってきたげよっか」
「いや……いい。忘れたんだよ、きっと、どっか」
「ほかのおんなのひとのとこでしょ」
「どうかな」
おんなはなにか卑屈な笑いを唇に乗せる。磁翠は仕方なく起き上がり、シャツを払った。ぼりぼりと首筋を掻く。嫌な虫がいそうな、湿って不潔な娼窟だった。
「じゃあね」
「煙草入れ?」
「うん、そう。きみたちの家に忘れていかなかったかなと思って」
「毎日掃除させてるけど、聞かないわね」
「そうだな。ふむ、見つけたらすぐに届けよう」
「ありがとう」
イザとサキと、いつもの居酒屋でもう何時間も過ごしていた。夕暮れ時から、いまは真夜中。ふと思い出して煙草入れのことを聞いたが、ふたりとも首を傾げるばかりだ。
(べつに、取り戻したいわけじゃない……)
そう本心から思っても、どうしてだか故郷の品が恋しかった。パイを平らげて、幾杯目か、麦酒を空ける。気が付けばテーブルには空の杯と皿が山と積まれている。自分の腹もはちきれそうだった。いつの間にこんなに食べたろうか、と黙り込むと、イザが安心したように息を吐いた。
「さすがに腹が重いんだろう」
「うん。なんか、こんなに食べたっけ? って思った」
「いつにもましてぼんやりよ、磁翠」
「そうかな」
と、また自然に酢漬けをひとつ口に放って、不意に吐き気がした。
顔をしかめて、麦酒で流し込む。
「……まだ、万全ではないのではないか?」
「そうかもしれない」
「お帰りなさいよ。また倒れたら困るわ、送らせるから」
「うん。いや、歩いて帰るよ。ほんとうに、腹が重くてね、うん……」
のろのろと立ち上がり、店を出た。《指輪地区》のほうへと、惹き寄せられるように歩いてゆく。光りのほうへ。光のほうへ。ふらふらと、粉……にまみれた重たい翅で、傷ついた翅で蛾が飛ぶ。その重さというのは、到底言葉にできない嫌悪感を伴って、おんなたちに道を譲らせる。いまや《指輪地区》でもっとも忌まわしい虫と化して、どんなおんなより、どんな子どもより、どんな老人よりも厭わしい存在と化して、亡霊と化して、故郷を探し歩くよに、竹藪を掻き分けて、結合した男女の死骸を見つけたあの日のよに、時雨れた夜に、子どものように小さなおんなを、小さな足を、引きずって犯す、絶頂のよに。
様々の憂鬱の記憶が、棚から落ちるがごとく、頭のなかを散らかしていた。乱雑に床に落ちたそれらの欠片は、もう二度と継ぎ合わせることはできないだろう。正しいかたちに帰ることがなくなった。頭のどこかが壊れた音がした。
磁翠の気が狂ったのではなかった。強烈な街の磁場に吸い寄せられたのだ、正しい記憶、正しい郷愁、正しい磁翠の在り方を奪われて、享楽という火酒に漬けられる、死んだ蜂のごとく。誰がこの酒を飲むのか? ホーンという街なのか、それとも、街に巣食った、街を侵した、街の肉体に取り憑いた寄生虫なのか? 尽きせぬ疑問、この街とはなんなのか、死体に住まった「我々」が動かしているだけの、幻ではないのか? ホーンの愛し児たちは、誰の寵を享けているのか? 誰も幸福ではないのか? 誰が幸福になれるのか? この街で?
この薄汚い街……なんて魅力に欠ける、堕落した街だろう。故郷の黄色い砂、乾いた空気、あの閉鎖的でいてなにもかもが開け広げな、大きな声で喋る人間たち、悪意も善意もなにもかもが同じ鉄鍋のなかで、熱い油で炒められていた国! 大きく、そして大きく、大きかった。とても広かった。強かった……。戦火はきっとすぐに止んだはずだ、そうしてあの国は、何千年と肥えつづけていたのだから。あの豊かな脂のなかで、貧しい農村の汚いひとびとと煙草を喫いながら、ときに金と宴がだいすきな役人たちと唾を飛ばして喋りながら、妓女の詩に頷きながら、絹の肌触りを感じながら、あの国で、同じ血の通ったたくさんの人間に囲まれていた時間のほうが、いくらも健康的だったはずだ。磁翠の感性は瑞瑞しかったはずだ。飢餓はあっても、こんな精神の渇きを覚えるはずはなかった。いったいなにに渇いているのかわからぬまま、誰かの意志――そうそれは誰かの意志――に、踊らされるような、滑稽は、なかった。歯がすべて抜け落ちるまで生きるはずだ。歳経ただけで偉そうにする老人たちを敬うことにうんざりしながらも、磁翠は自分が歳を重ねたときに、その椅子にでっぷりと座ることを疑いはしなかった。恋しいのだ、故郷、大陸の華たる故郷、いまは遠い東方の、山査子の赤い実が。頬をかすめる領巾が、小さな足のおんなたちが。生きることが好きなものたちが。
「磁翠、磁翠!」
そんな発音ではない。磁翠の名前は、そんな音ではない。
けれど呼ばれれば抗うことはもはや出来なかった。
腹が減っていた。
「ジュリアン」
腕に抱えたたくさんの果実が、ざらつく床にぶちまけられる。転げた林檎の鮮烈な赤が、暗がりでみるみるうちに色褪せる。寝台の、湿った敷布に落ちたのはもげた葡萄の実、それを背中で押し潰す。あっけなく潰れて、紫色の染みをつくる。引きずり込まれた。裸の少年が、輝く頬をした少年が、昏い焦燥に眸を淀ませて、磁翠の腕を驚くほどの力で引いた。噛みつくように唇を奪われた。手肢を奪われた。なにもかもを奪われた。
金色の大地に、金色の稲穂が揺れる、金色のすだれの向こうの、この世で最も貴い人の影――。
広い庭の、東屋に腰かけた足の小さなうつくしいおんな、そして弄ばれていた百合の、巨大な花がぶわりと開き崩れ果てる。龍が激しく身悶えながら、乾いた黄色の大空へと、昇ってゆく。
苦しげなうねりが、あまりにも淫らだった。
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