嘆
幼子の白くちいさな手が、身悶える蝶のように宙を掻く。掠れた声が部屋にわずかな響きを与え、淀んだ空気を弱々しく蠕動させた。毬のような小さな肉体、引き裂かれた傷痕(運命)に、まろい曲線を描く顎から、はたはたと汗が落ちた。短い首、なだらかな肩、ふっくらとした幼子の躰は、たっぷりの腸が詰まった繭だった。内から彼女を喘がせる、他者の血肉はしかしてすべて敗者の血肉であった、のだ。そう、恨みを抱いてなどいない。ただ愛されていることを感じる。胎、皮膚の下、荒く縫い閉じたこの傷痕が、彼女――私自身愛おしくさえある、愛おしいと、思っている、たしかに。
自らの肩にそっと触れた。感覚が遠い。私はいつも自分の肉体を自分のものと思えないためだった。真実、自分の肉体が自分のものであったことはない。他のものはどうなのだろう。この肉体を、完全に自分のものにしてしまえたらば。きっとあらゆることが自由であろう。そして心細いはずだ。だが、焦がれることもたしかだった。肉体。ただの器ではないもの。愛着と憎悪を繰り返して熟された、肉体は私の誇りだった。似つかわしくもない魂の揺籃として、この幼い躰を選んだとき、母のすがたを思い出し――思い出さない。私はトウラン。私は統べるもの、私は、私は、私は、母は、私の母は。
「あれ……?」
そう、知らないだろう。
「おまえは知らないだろう? ジュリアン」
「え?」
「知らないはずだ。なぜならおまえには話していないからな。おまえが私に関して知らぬことなど山ほどある。そのうちのたったひとつであるというだけだ、いちいち悲しむ必要もない。おまえは私に与えられるものを悦べ。それだけでいい。奪おうなどと思うな。欲をかくな。ただ待って居ろ、股のあいだに尾を隠して、私に与えられることを待って居ろ。おまえが従順なうち、私はおまえを裏切らない。おまえが待っているならば、私は必ずおまえのもとへ帰る。おまえに適切に与え、おまえを愛してやろう」
喉を掻き毟って、ジュリアンは寝台から転げ落ちた。
悶絶するほどの痒みと、灼けるような渇き、そして肉体から離れた痛苦が同時に彼を苛む。
「ぅ、あ、ああああぁ……」
ほとんど割れた呻き声に、白狼が落ち着きを失って眸を揺らす。
転げてばたつかせた足が寝台にぶつかった。苦しい、息が出来ない、したくない、思い出したくない、もう待ちたくない。ただこのまま死んでしまいたい、この病で、そう、薬が切れて久しい、あの人の書いてくれる処方がなければジュリアンは生き延びることが出来ない、のではなかったか、肉体を弄繰り回して欲しかった、彼女の蚕の指先で。片手で床を掻く。がたついた板目の隙間に爪が引っかかり、みしりと嫌な音をたてて肉から剥がれた。耳鳴りがしていた。
「血が」
げほげほと咳きこみ、やがて嘔吐く。
血混じりの唾液と痰、わずかな苦しみも混じらないただの体液だけが排泄された。
しばらくそうしていた。
「俺はいつから、トウランじゃない……」
「どうして師匠は帰ってこない」
「俺の病は治らないのか」
「死にたくない」
「死にたい」
「死んでしまいたい」
「死にたい」
「死にたくないまだ」
「あのひとに会うまでは」
「死にたい」
「死んでしまいたい殺してほしい」
「あのひとに殺されたい」
「師匠、殺してくれよ」
「殺せよ」
「死にたいんだ」
病など。
肉体に取り憑いただけの病魔になど。
「病なんかに殺されてたまるか!!」
は、はは、は、はは、ははは。
白狼。
黒い亀裂。
師匠の夢。を、昼と夜とにかかわらず見続ける。同じ記憶をもとにして、継ぎ接ぎで生まれた異形の怪物に成り果てたトウラン、自分は彼女を冒涜しているのか、それとも尊崇しているのか。そんなことは問題ではない、問題はただ、彼女がいまこの瞬間ここにいないということだけではなかったろうか。病。恋しかった、彼女の小さな温もり、人間らしい哄笑、ひとをいたぶって嬉しげに細められた眸は冷たく底知れないドアノブと同じ色をしていた。愛していたか、是か否で答えよ、是、是、是、是、是、是、是、是、是……。どうして? 彼女を愛さねばならなかったのだろう。彼女しかいなかったからだ……あの雪原で、ジュリアンという名ですらなかった赤子を抱き上げたのは彼女だけだった。彼女のみが彼に気が付き、抱き上げ、名づけ、育てた、いまこの十四歳という年齢まで。それが長いのか短いのか、わからない。はるかに永いときを生きるトウランからすれば、それこそ彼は未だに赤子のようなものかもしれない。おとことしてはおろか、ただひとりの人間としてさえ求められたことはなかった。犬だった。あるいは赤子だった。無垢で従順で、与えられなければ死んでしまう弱きものを彼女は偏愛した。人間を、小さきものを。自らの肉体を。彼を。うつくしく脆く儚いものも愛した。ジュリアンはうつくしい少年に成長した、病を得、死の影の張りついた未発達な彼の面差しを、師匠は愛おしげに見つめる。ドアノブ色の眸が、渦を巻いて思案げに彼を見つめる。彼をどのようにすべきか苦悩している。どのように? どうして? 是。是。否。是。否。是。是。是。否を殺した。そんなものはふざけただけ、彼女を悦ばせるための演技だった。いつでも、魂のすべてをかけてジュリアンは。
ああ! うつくしくありたかった。赤子のままでいたかった!
無垢なままで、純潔のままで、気高く愚かしく、彼女の犬として!
永遠に彼女を! 永遠に彼女の!
永遠に彼女と!
「ううぅ、ぁぃあああ、あ、い、あ、ああ、あ」
「欲しいんです」
のたくる白い芋虫のように、躰を這い回った手に興奮したことはない。幼い手だった。幼くなくとも。彼女の手。興奮したことはなかった。純潔だった。トウランは浄い存在だった。「かみさま」だった。時に彼の肉体を切り裂いて、痛みを与えた。様々な薬物の投与は彼女自身の気まぐれな好奇心のためだった。けれどいつでも彼を助けた。彼女は彼に決して死を与えることはない。どんな痛みを、苦しみを与えたとしても。慈しまれているのだ。愛されている。だって彼女は彼を殺していないから。いつしかそう思い始めた。この永い時間のはじめは特にそう思っていた。ような気がする。違ったかもしれない。でも、殺さないのだから、愛しているといえるでしょう。憎いのだったら殺すでしょう。苦しめるために生かすのではなく、いずれ掬いあげるために生かすのでしょう。彼女は気まぐれだ。誰よりもそれを知っている。好奇心のままに、あちらこちらを向いては、手を伸ばす。欲したものを欲したままに得て、飽きては捨てるの繰り返し……。だが彼は捨てられていない。それがどれだけ重要な意味を孕んでいるのか、きっとわからないでしょう。蛆のように這いまわった……。彼女は彼の肉体を探った……。爪を立てた……。喉ぼとけから、真直ぐに蛇が伝う。胸のあいだ、肋骨の隙間のくぼみ、へそでぐるりと蜷局を巻いて、憩うてから下腹を目指した。性器に戯れるように絡み、すぐに離れた。肢のあいだを這っていった……。蛆、いや、白い蛇だった。蚕だったかもしれない。白い鼬だったかもしれない。だが、おんなの指ではなかった。純潔だった。きわめて浄い彼女の手。血濡れようと侵されざる聖性、似合わぬように思えるその薄衣は、反して彼女をいびつな神へと高めた。
「蛇がいたか? 師匠は俺に触れたか?」
「もうわからないんだ。なにもかもが定かじゃない。俺は……どうして俺には……」
傷痕がないんですか。
躰を縦に引き裂いたはずだった。どうして、ないのだろう。ないのですか。
自らの手で、躰を探した。ただ乾いた感触の、遠い膚があるだけで、じぐざぐと蛇行し、褐色に染まった糸がなお残る荒い縫い目がどこにもなかった。目を落とす。青白い沈黙の、骨と皮とのなにかもののような躰があった。自分のものではないような気がした。躰を探しても見つからない。蛇のように、蚕のように、鼬のように探した。けれど手もなかった。どこにも、どうして、と思って。はたり、という音を聞いた。
はたり、はたり、と尾で床を打つ。
白狼に飛びついていた。
狼は抵抗を見せず、鳴き声も漏らさない。感情の見えない銀色の眸が、ただ凪いでいた。噴き上がった怒りに任せて、ジュリアンは狼に噛みついた。肉の上の皮膚、毛皮がぬるりと蠢いて、やはり感触が遠いのだ。近づきたい。ただ近づきたい。噛み締めた。両手で狼の毛皮を掴み、動かぬように押さえつけて、噛みついた。自らの荒い息だけが「はっあっはっはあっ」と聞こえていた。誰かの荒い息かもしれなかった。別の。遠い。近づきたかったのだ。口中に血が滲み、とろとろと溢れた。必死でそれを飲み下す。やがて異様な味に気が付いた。腐っている。吐き戻す。赤くない、黒かった。粘ついている。獣の腐った血が嫌で、幾、度も幾度も唾を、反吐を、吐き出したふらつきかけて、身を、起こした白狼に支えられた。蹴り飛ばした。狼は容易く壁の書架に叩き付けられる。暗い愉悦を感じた。非力な己でも、犬なら蹴飛ばすことも出来る。本当に? 蹴り飛ばした。唸りを上げて組み付いて、噛んで、叩いて、毛を毟る。その両目に手を伸ばして、指を突きいれた。球の表面をすべるような感触、それから眼窩の縁の硬い骨があり、粘つく液体がある……液体は嫌だった。耐え難い悪臭だった。狼の舌に噛みつく。悪臭。えぐみ。腐り果てている、ここでは何もかもが!
「だめだ、失敗だ、だめなんだ、まだ足りないんだ」
白狼は息絶えない。
彼が生きているからだ。
「失敗だ」
そう失敗作だった。
別々のものにはならなかった。同じものにもなれなかった。穿たれた楔が彼を苛むというのに、鎖の行方は知れず、膿をこぼすじぐざぐの傷痕もない。
不治の病も。記憶もない。捏造された様々、怪物の影が彼自身をいたずらに脅かしていた。侵されてしまう。
「どうしてですか」
あんたが憎くてたまらない。
俺から、あんたを待つこと以外のすべての苦しみを奪ったあんたが。
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