愛し児たちの胸

 赤い雨が止んでしばらく、磁翠はなにか物足りないような心持ちでホーンを徘徊した。欠けている、という感覚があったのだ。それは、磁翠がはじめて足を踏み入れたとき赤い雨が降っていたからかもしれない。磁翠のなかのホーンの原風景には、赤錆びの雨が欠かせないものとなっていたのかもしれない、知らぬ間に。アネモネの家で適当に見繕った誰のもとも知れぬシャツは少しだけ袖が長く、染みついた香水はすこし甘すぎた。袖を折り返して、ぶらぶらと歩いた。《時計地区》の魔術師の邸の、陰気な高塀を眺めながら……《槌地区》の知り合いの店や、通りかかる道々のショーウィンドウを習慣としてのぞいて……《指輪地区》で気がつけば、女に身を埋めていた。

「あれ……」

「なあにい、ジスイ」

「俺、名乗った?」

「名乗ったよ。名乗らなくても知ってる、あんた最近よくふらふらしてるでしょ。おかしいんじゃないかっていう娘もいるけど、あたしはあんたのこと好きよ。だって顔が綺麗だし、乱暴しないから」

「俺も好きだよ、おまえみたいなおんな。正直者はいつだって好きだ」

 金を放って不潔な娼窟を出た。昼間、アパートを出てきたと思ったが、月は中天にさしかかり、あたりは点された明かりと人波のせいで熱っぽかった。露店でピタにすり潰した豆と香辛料を混ぜて揚げたものを挟む。辛いソースをたっぷりとかけて、頬張った。さくさくとした衣の内側のペーストは熱く、湯気をたてている。豆の独特の臭みと香辛料がよくあっていた。黒っぽい麦酒を流し込み、引き寄せられるようにあたりの露店のちょっとしたものを買っては食べた。とろみのある汁には透明な麺が浸かり、たっぷりと青菜が乗っている。かりかりの甘い揚げをふりかければ、少し故国の料理と味が似通っていた。ホーンの料理はどれも香辛料がきつい。辛味のあるものがすきな磁翠の舌にはどれも魅力的だった。真っ赤な具が詰まった饅頭、胡椒をきかせた串焼き、たまには趣向を変えて揚げ菓子の糖蜜絡め……そして酒と、いくらかの虫たちの足音。

「ひとが消えるんだ。昼も夜もなく、ただひっそり、どんな痕跡もなく。どこどこの店のだれだれが見かけた、出てきてもせいぜいそんな証言だけで、死体も出て来やしない」

「ふん、この街じゃ知らない奴の死体だけがあるんだ」

「知ってるやつの死体が出たためしがない」

「いやある。俺は姉の死体を見たさ。《指輪地区》でな……」

 磁翠はぼんやりと口を開いた。

「じゃあその、ひとが消える噂っていったい何のためにあるの」

「やあ、磁翠じゃないか。珍しいな、クラブに来るのは」

 イザが恰幅のいい躰を揺らして笑う。髭に埋もれた口は本心からの笑みを湛えておらず、どこか不審げに磁翠を観察していた。それもそうだろう、磁翠はまるで身形に気を遣わず、露店のあらゆる食物の臭いを放ちながら、煙草を咥えてだらりと立っているのだから。

「何のためって……同じ場所でひとが消えるのさ、《指輪地区》と《槌地区》の境界にある通りでね」

「それって、《指輪地区》三番通り?」

 磁翠を見て顔をしかめながらも、イザの知り合いらしき男は口を開いた。

「ああそうだ。貸本屋があるところだよ、娼婦が読むようなくだらない小説ばかり置いたさ……」

「貸本屋? 少年が棲んでいるでしょう。凄いような美少年が」

 そう、禍々しいまでの美貌だと、初めて目にしたときに思ったはずだ。同時に、もののようだと。人を模した人形ですらない。何者でもないただの、もの、のようだと。それから、あまり少年の顔をはっきりと見た覚えがなかった。あったろうか。いや、いまは思い出せない。どうしても。ただ、白く捧げられる肉体の生まじめな媚態と、少年らしい骨格のぎこちない直線、つたない銀細工のような躰だけが、欲にべたりと張り付いている。

「白い髪と、銀色の目の……ひどく痩せた」

 何を言っているんだ、とばかりに白い目を向けられる。「薬でもやってるのか?」。三番通りは狭い通りというわけでもなく、地区間の境界線で移動も多い。貸本屋など見たこともない磁翠のほうこそ、疑問だらけだった。ごしごしと目元を擦る。視界が翳んでいた。頭がぼんやりとする。うまく焦点を結ばない目で、髭面のイザを判別する。

「あれ、俺……おかしいかな、イザ」

 首を傾げてちょっと笑うと、イザは席を立った。同席していた紳士の身形をしたおとこたちが、嫌そうに眉を寄せる。その様に、無性に腹が立った。くちびるを曲げて、笑みを作った。おとこたちが、不快そうに身じろぐ。

「どうせおまえたち、紳士でもなんでもないだろう、きっとあほうだな」

「磁翠。やめておけ」

「俺はね、国じゃ高級官僚の一族なんだ。でも俺は末っ子だし、放蕩息子ってわけ。遊ぶのは大好きだ、骰子を転がすのも、蟋蟀の声を聞くのも、ちいさな籠をつくるのもね。書画を愛して詩をうたい、俺は旅をして魔術を探した。どうか二親をぶち殺しても、怒らない神さまを探してた、死体くらい引き裂いていいだろうと思ってね……それがホーンじゃ紳士クラブで立派ななりのままごとをしてるってわけだよ、あほうめ、俺はおまえたちみたいな男が大嫌いだよ、だっておかしいだろう、おまえが紳士? なら俺は進士だっていうのに、うふ、おかしいなあ、ここじゃ、血なんて……血は……ひとの躰を流れてないんだ……雨が……」

 イザに腕を引かれ、クラブを出た。彼はそのままどんどん歩き、朦朧とするうち、目を覚ませば見知らぬ部屋で横たわっていた。身を起こすと、胃のあたりが切なかった。腹が空いているのだ。ほとんど泣きそうになって、磁翠は声を上げた。か細く弱々しい声だった。

「誰か……」

「磁翠? 起きたの?」

「サキ? 俺、」

「だいじょうぶよ、磁翠。ここはうち。あんた病気よ」

「頭の?」

「違うわよ。もの凄い熱。それから医者が言うには栄養が足りてないって。血もね」

「お腹空いた……」

「お粥を用意させてる。食べたら薬を飲むのよ。イザのクラブに行ったの?」

「わからない。迷惑をかけたかもしれない」

「だいじょうぶ。イザが心配してずっとうろうろしてるものだから、買い物にやらせたの。そのうちあんたの下着から髪粉までどっさり買ってくるわよ」

 化粧気のないさっぱりとした顔のサキは、いつもより十歳ほども若く見えた。イザとサキが何歳なのか知らないが、磁翠が想像していたよりもずっと若いのかもしれない。どんよりとした耳に、嫌な唸りが張り付いてた。蠅の羽音だ。丸々と肥った、青い蠅の……ゆるく頭を振ると、音は離れていった。今は。

「イザに会いたい」

「呼んだか?」

「あら、おかえりなさい。やっぱりね、ほら磁翠、見てよ。この量」

「ありがとう、イザ……」

「いいや。それより躰は大丈夫か。驚いた」

 大量の荷物を置いたイザが、サキの横に腰を下ろす。椅子が軋み、何故か背筋がぞっとした。

「ごめんね、イザ。君とクラブの友だちにひどい迷惑をかけた」

「なに。あれらはどうともない連中さ、気にするな。それより、なにか話があったんじゃないか」

「うん……」

 答えかけて、磁翠は奇妙な空白に行き当たった。

「あれ」

 なにも思い出せなかった。イザになにを聞こうと思っていたのか。あのクラブで……なにを聞いて……自分は……?

「ごめん、イザ。忘れちゃった」

 へらりと笑うと、サキが氷嚢を額に当てた。

「あんたほんとうに大丈夫? 無理に頭を使うのはいまはやめておいたほうがいいわよ。しばらくうちにいなさいよ」

「ああ。そうするといい、磁翠。たらふく飯も食わせるからな。なにか思い出したらそのときに聞けばいいんだ」

「そうよ。イザもあたしも、いつだって会えるでしょ」

「そうだね。ありがとう」

「気にしないで」

「少し眠るよ。ふたりも休んで」

 イザとサキは、顔を曇らせたまま出て行った。磁翠はそれほど、奇妙な顔をしていただろうか。わからなかった。サキの言っていた通り、ひどい熱があるようだ。頭が重く、息をするのも苦しいほどだ。胸に濁った水が満ちているような感じがある。なにも食べたくない、そう思うのと同時に、痛いほどの餓えが思考を蝕んでいた。だがこのふたりの前で、いまそれを口にすることは憚られた。これ以上失態を晒すことはできない。いまは好意に甘えることにして、せめてこの熱が下がったら、出てゆこうと決める。病弱だったのは昔だけだ。幼少期を過ぎれば磁翠は頑健な肉体に育った。それ以降、ろくに病気をすることもなかったのに。ホーンの水が合わなかった? 今更だろう。

「磁翠」

 誰かに呼ばれた気がしたが、記憶にない声だった。

「ああ、腹減ったな」

 ひとりごちて、磁翠はきつく目を瞑った。愉快な夢でも見よう。



 彼にもたらされたのは泥のようなひどく重苦しい眠りだけだった。起きればいくらか頭が整理されたように感じる。熱は下がっていた。餓えはなりをひそめ、ただ喉が渇く。枕辺に置かれた水差しの中身を干す。鉄のような味がした。口中が乾燥して、血が滲んでいるらしかった。ホーンの水が汚染されているというわけではない。夕暮れ前、昼過ぎだろうか。

「イザ? サキ?」

 寝台を下りて扉から頭を出し、控えめに家主を呼ぶ。だが陽気に応えるはずの声はなく、家中はひっそりと静まり返っていた。部屋に戻り窓を開く。濁り硝子の嵌められた窓は、開くと同時に生臭いホーンの息を運んだ。空気は淀み、汚臭が蔓延っている。イザとサキのこの家がどのあたりにあるのかは知らないが、これほどのにおいがするなら、間違っても《時計地区》ではないだろう。実のところ正体も定かではないふたりだ。磁翠は聞かなかったし、興味もなかった。腐るほど金を持っていて、なぜかいつも不味い飯を食らい、磁翠のようなおとこを愛する一方で、ホーンなりに高級な交際をしている。確信はないが、彼らはおそらく《指輪地区》でおんなを売り買いする仕事をしているのだろう。この悪臭は、おんなとおとこの躰から発されるものだ。汚らわしく、魅力的で、金の沈んだ汚物の泥沼だ。顔をしかめず、その汚泥に深々と手を突っ込める人間だけが、目当てのものを得ることが出来る。引きずり込まれなければいいだけの話だ。

 磁翠は窓枠から身を乗り出した。二階の部屋だが、さして高くもない。そのまま窓枠に足をかけて、猫の額のように狭い前庭に着地した。どうせホーンで和める庭が確保できるのは《時計地区》くらいだ。余計な空間をつくるくらいなら、住居を広げるほうが賢い。どんなにおいも、音も、遮ることのできる壁こそが大切だ。

 塀も乗り越えて、しばらく歩けばすぐに自分のいる場所が理解できた。《指輪地区》でも安い界隈だ。そんなところに好んで住むイザとサキの気は知れないが、と思いつつも、磁翠はこのあたりが嫌いではなかった。九番通りと呼ばれるここは、元締めがおんなをはたらかせているわけではない。ここらでは、どんなひどい店からも追いやられた、子持ちであったり病であったりする様々のおんなが路肩に座って汚い身形で、物乞いと売春を同時にやっているような場所だ。おそらくこのホーンで、人死にが最も多い場所でもあった。ほとんど寝巻の磁翠は、やわらかい布の室内履きがどんどん湿っていくのを足裏に感じていた。どんな水で汚れたものかわかったものではない。昼過ぎの路地は死んだよう。

 三番通りも、静かだった。

 店の前を掃き清めるような殊勝な働き手がいるわけでもなし。

 覚えのある軒下。赤毛の女を抱いた娼窟、そしてまた軒下、赤錆びの雨に濡れまいと身を寄せた。そして呼ばれた。

「え……」

 貸本屋があった。昼だったが開店している。娼婦は夜が忙しいためだろう。かろん、と空しいドアベルがかすれ声で鳴り、店主らしきおとこは安楽椅子のうえで眠っていた。両脚とも、膝から下がない。鼻眼鏡がいまにも落ちそうだ。震える手で書棚を探る。くだらない、とあのクラブでおとこが言っていたような、恋愛小説や官能小説が並んでいた。学術書の一冊も見えず、どれも安くぼろい簡易な紙束ばかりだ。

「ここ、地下室はある?」

 店主は目を覚まさず、乾いた寝息が耳障りに吐き出されていた。磁翠は彼につかつかと歩み寄ると、鼻眼鏡を取り去り、胸ぐらをつかんだ。慌てるでもなく、店主がゆっくりと目蓋を持ち上げる。

「ここ、地下室はある?」

 しばらく、質問を吟味するような、磁翠を苛立たせるに十分な間があった。もう一度問おうと口を開きかけると、もぐもぐと口が動く。

「いや、ないよ……」

 おとこを放り出して、磁翠は店を出た。

 ひどく空疎な感じがした。いくらも歩かないうちに息が切れて、自分がほとんど逃げるように走っていたのだと知った。無意識に辿り着いたのは《お砂糖三杯》で、夕暮れに差し掛かろうというこの時間に開いているかは疑わしい。それでも、磁翠は縋りつくように扉を開いていた。アネモネの顔が見たかった。あけすけで親切なおんなは、まだエプロンをつけていなかった。

「磁翠? どうしたの? 顔色悪いわよ」

 彼女のぬくもりに溢れた声を聞いて、磁翠は身を投げ出していた。やわらかな胸に受け止められて、安堵の息を吐く。深く呼吸をすれば、ほのかに甘い香水がにおった。女性的なかおりだった。母を探すように、彼女の胸に額を預ける。

「ごめん、アネモネ」

「いいけど……ひとまず座ってよ、ココアを作ってあげる」

「ありがとう」

 自分はなにを恐れていたのだろうか。アネモネの後姿をじっと見つめていると、店主のおとこがこちらを見ていた。目礼して、カウンターに身を滑り込ませる。アネモネは小さな鍋を火にかけて、牛乳と黒い粉と、チョコレートの欠片を放り込む。ゆっくりと、砂糖を少しだけ加えて練っている。

「どうしたの? 物盗りにでも遭った?」

 こちらに背を向けたまま問われて、首を傾げた。だが、自らを見下ろせば納得もいく。磁翠は寝巻のようなものだし、おまけに泥まみれの室内履きだ。強盗が押し入ってきたところから逃げてきたようにも見えるし、寝たおんなが実はひと殺しだったようにも見えるだろう。

「ちがうんだ。倒れて……友だちに助けてもらってた。どうしても気になることがあって出てきたら、気分が悪くなって……ここに来てた」

「倒れた?」

「熱が高かったみたい。でももう下がったよ」

 手渡されたマグカップは熱く、凍えた手には痺れるほどだった。甘すぎないココアには、軽くホイップした生クリームが浮かべてある。ちびちびと口をつけるうち、気持ちが穏やかになった。

「あんたって、ほんとよくわからないおとこ。甘えたと思ったら、もうひとりで平気って顔してる」

「そう?」

「あたしに抱き着いたんだから、そのココア高くつくわよ」

「見ればわかるでしょ、俺いま無一文だよ」

「呆れるわ。でも病人だから特別よ。顔色はあんまり戻ってないみたい。部屋に帰って寝たら?」

「そうだね……」

 まだ開店する気配はない。店主は大鍋で、なにかを煮込んでいた。シチューだろうか。いいにおいがする。そう言えば、腹が減っていたような気もした。だがいまは、満たされている。不思議なほど、アネモネは彼を満たした。やわらかな胸と腹、甘いかすかな香水、清潔で簡素なドレスと、ココア……まるで子どもだ。テーブルに肘をついて、顎を支えた。軽く目を閉じて、笑う。

「俺、末っ子なんだよ」

「わかるわ。あんたって甘え上手。あたしもつい絆されそうになっちゃうもの」

 アネモネは呆れた風にそう言って、エプロンを着けた。

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