氾濫/繁殖
トウランが駆けている。瓦礫だらけのホーン、つい先日の大騒動で不幸な幾つもの建築物は瓦解した。騒動を引き起こしたのも彼女で、解決したのも彼女だった。少女といっていいほどの年齢まで成長していたはずの彼女の肉体は元の通りの幼女へと退行し、中身のほうも、トウランという一人の人格として落ち着きを取り戻している。ように、ジュリアンには思えた。彼女をかたちづくる魂の複雑な分岐を、彼は到底理解しきることなどできないだろう。なにせ、彼女自身もわかっていない。彼女の殺したユーファル=ユーファレであったならば、呑み込むことができたのだろうか? 恐るべき魔女帝の、すべてを。
「ジュリアン! なにをぼうっとしている、はやくこちらへ来い」
「うろちょろ走り回るなよ。あちこち脆くなってるんだ、あんただって本調子じゃないだろ」
「ふん、ほんとうに危険があればヴィオラが来るだろうよ」
「あんたが許してるんだ」
「なに、嫉妬か。おまえも、それで案外けちなおとこだ」
「気に食わないだけだ。灰になって、消えてしまえばよかったものを」
「私はうつくしいものが好きだ。ヴィオラが消えなかったのも、さればこそ」
ようやっと彼女のそばへと歩み寄ると、声を低めた幼子が、遠いところを眺めていた。彼女が視線を向ける先に立つのは猫の眼塔、崩壊を免れたホーンの象徴とも言える黒い塔だった。だが、それだけだ。ジュリアンには、それだけしか見えない。
「ヴィオラを欠いて私たり得るほど、いまの私は堅固ではないのだ」
沈黙せざるを得なかった。そうジュリアンでは力にならないのだ。彼女が彼から吸い上げるものはない。踏み台にもならない。横にぼうっと突っ立っているだけの、お飾りなのはジュリアンのほうだ。強大な魔物であるヴィオラヴェルデのほうが、使いでがあるだろう……。
卑屈な考えだった。事実の一側面でもあった。それ以上の絆がトウランとヴィオラヴェルデのあいだに存在していることを知っていた。だからヴィオラを滅ぼしたかったが、同時に、彼女が魔物と結ぶ蜜よりもなお強いなにか――彼と彼女の師弟関係が、甘やかなだけでない特別な関係が、可視化されることを愉しんでいた。悦んでいた。
「師匠」
「なんだ」
「俺が死んだら、どうする?」
「さあ……おまえの死体で遊ぼうか」
「あんたのなかに入れろよ」
そう言うと、トウランは心底嬉しそうに笑った。我が子の成長をよろこぶように、奇妙なほど明るい笑い声をたてていた。そして頷いた。
「いいだろう。おまえにしては粋なことを言うものだ」
ジュリアンは安心したのだ。
(ああ、愛されている。このひとは俺を愛している。とても強く)
「もうすっかり雨が降らなくなった。陰気じゃなくなったわけじゃないけどね」
「そう」
トウランが訪れないこの地下室の意味とは?
どれほどの年月をここで過ごしている?
返事の来ない手紙を何通書いている、どうして便箋を手に入れる、インク、そしてペンも?
「おまえも食うか?」
「なにを」
師は何でもかんでもをジュリアンに買いに行かせていた。ように記憶している。ホーンの外歩きはたいてい危険だ。咄嗟に身を守ることが苦手なわけではなかったが、手加減というのはごちゃついた狭い路地では非常に困難なものだった。襲ってくるようなろくでもない人間を殺したところでいちいち罪悪感を抱いていればホーンで暮らすことはできない。だが、発作が出たり、吐いている最中だったりすれば話は別だ。ろくに魔術も使えず、げえげえとやりながら、悪漢やときに悪女を退けるのには骨を折ったものだ。相手が魔術師のことだってあった。命を取られなかったのはただの幸運と、トウランが彼を守ったからだった。どれほどジュリアンの体調が悪かろうが使い走りにするくせに、いざ殺されようという場面になればいつの間にか現れて彼を救い、そして痛罵する。やれ情けないだの、修行が足りないだの、或は帰りが遅い、品物がそろってないと喚き散らして地団駄を踏み、抱いて帰れと騒ぐのだ。
「昼飯。アネモネ……俺の居候先のおんながくれたんだ。店の食事の余りだってさ」
「いらない」
「あ、そう。痩せてるし、おまえが飯食ってんのも水飲んでんのも見たこと無いから」
幼子のすがたをした師匠の、ちいさくやわらかな手が、彼の頬を叩く。なんの容赦も躊躇もなく、平手のときもあれば拳のときもあった。彼女に殴られるときは、彼が間違えたときと決まっていた。彼はたびたび間違いを犯していた。不出来な弟子だった。彼女を満足させるのはとても難しかったのだ。彼女はどの魔術師よりも優れた癇癪もちの魔術師だった。あらゆる難題を、泥臭い努力の痕跡などすべて消し去って解決せねば彼女は満足しない。汗にまみれたすがたなど、彼女にはばかばかしい限りだったのだ。平静な顔で、完璧に、やらねばならなかった。どんなことも。ただ愉しいことを愉しみ、悦ばしいことを悦び、不満足に不満足して殺した。彼女は孤独だった。魔物をそばに置き始めてからもずっと孤独だった。彼女が要求するのはジュリアンに対してだけだ。これほど厳しく要求するのは、ジュリアンに対してだけだった。どんな他人も、どんな魔物も、彼女に叩かれ罵られるジュリアンよりもなお、彼女を満足させることができない愚鈍なものだったのだ。
ジュリアンにとってトウランが特別であるように、トウランにとってジュリアンは特別だった。特別というのは自惚れがすぎるかもしれない。ただほかとは違った。そう思ってもいいだろう。いいだろう、と重ねて確認してしまう。ジュリアンは切実に願っていた。どうか他と自分は、トウランにとって違うものでありますようにと。そうでなければ意味がない。どんなことにも。まったく、少しも、意味がないのだ。
「腹減った」
「あの奇病も、何となく終息しはじめたらしい。まったくばからしいね。街が魔術師を選んでいるって聞いたけど、ここじゃそんなことも有り得そうだよ」
「腹、減ってるんだ、すごく……」
「そのうち魔術師だけじゃなくて、俺みたいな異邦人を狩り始めたりするかな。どう思う、ジュリアン?」
「餓えてるんだ、ずっと」
「ホーンに生まれた愛し児と、ホーンに根付いたもと異邦人、そして塔を恐れるままの異邦人、いったいどこにどう違いが生まれるんだろう。俺は愛し児にはなれないし、ホーンを愛することは出来そうにない。そこなのかな。でもロザモンド氏は街を愛している風だったのに、未だに俺の感覚を理解できる……」
「ん、臭い……臭い、おとこのにおいだ……それと食べ物のにおい……」
混乱する。混交する。
掻き混ぜられている。
有限の回顧録が、有限の材料が、幾百幾千もの試行のなかで書き換えられてゆく。あるはずもない、さりとて覚えがないわけではない、記憶に酷似した何かが頭のなかで無限に繁殖する。ただし増えないのだ、材料はすこしも増えない。このホーンのように、もはや生産の手立てがない。トウランが消えた時を境に、ジュリアンの情報は停滞しつづけている。ただ使古しの素材をこね回し、所在なく怪物を生みだしている。これは遊戯だった。
(貴方がいないのがいけない。あんたが。あんたがいないのがいけないんだ。いけないんです)
異臭が鼻先にまつわりついて離れない。おとこのにおい。食べ物のにおい。耐え難く刺激的な悪臭が、ジュリアンの吐き気を誘う。だが、いまさら胃の腑から出すものなど、真実などひとつもないのだ。もうどんなものも失えない。ひとつたりとて忘れることは出来ない。師が帰るときまでは決して増えない記憶の堅守、そして醜くおどろしい頭のなかの溶鉱炉に放ったそれを、幻の鋳型に流し込むのだ……欲しいかたちを幾度でも孕む。生む。失望するだろう。ああ、異様な臭いがしていた。おとこのにおいだ。生きているおとこの、生きているというただそれだけで果てまで遠ざけたくなるように悪臭がたちこめる。ジュリアンを包む獣の世界を押しのけようとする。悪臭を放つおとこが、悪臭をはなつ食べ物を咀嚼している。耳に障る音、が、音が、くちゃ、くちゃ、と耳に捩じ込まれる。誰がここにいるのか。誰が、どんなおとこが。
「ん、うまい。アネモネの店は《お砂糖三杯》って酒場だ。言っておいてやるから、おまえも腹が減ったら行けよ。それか《青いぶどう》っていう酒場に来い。俺の友だちがいるんだ。ホーンは食い物がことごとく不味いが、《お砂糖三杯》はべつだね。アネモネがあそこで働くのがわかる気がする。あそこは酒場だけど、料理が美味いんだ。まあ俺はどうせ何を食っても一緒だけど……すぐ腹が減るんだよ。食っても食っても足りない。けど、ふしぎと肥らないから便利だよ。あんまり醜くなるのはごめんだ。そういえばおまえは肥ったか? はじめに会ったときより、心もち頬がふっくらしていないか? まあ、蒼白いことには変わりはないが」
「おまえ……誰だ」
「磁翠だよ。范磁翠。もう幾度もおまえのところに来てるだろう」
「誰?」
「東から来た異邦人だよ。抱かせろ、ジュリアン」
殖えない。
「ジュリアン、私を抱け」
「はあ? 嫌だ。重い。俺が荷物を持っているのが見えないのか?」
「師の言うことが聞けないか」
「ヴィオラを呼べよ」
「嫌だ」
「知らない」
「ジュリアン」
「……何で俺なんだよ。もっとがっちり抱っこしてくれるやつがいるだろ。ヴィオラでもオギノでもいいだろうが」
「選ばれたことを悦ぶべきだろう? 嬉しいだろう。犬のように尾を振ってそこらじゅうを駆け回りたいのだろう? だが不満足な顔をしてみせる……おまえは私を喜ばせることを忘れない、よい犬だよ、ジュリアン」
抱いた。抱かれた。ホーンの瓦礫を歩くのに、どうして幼子をしっかり抱いていられよう。そう、ぐらぐらと揺れて幾度も倒れかけた。そのたび師の鋭い叱咤が飛び、理不尽な罵倒が飛び、疲れ果てて顔を土気色にしてなんとか邸まで帰り着いたのだ。いまジュリアンは、不在のトウランを、ほんものの彼女よりも遥かに重たい彼女を抱いて、果てなく広がる瓦礫の、道なき道を標なき夜闇の荒野を、迷子の面持ちで、もうわずかにも残されていないちからをしぼって、歩いていた……。
「なあジュリアン、疲れたか?」
「いいえ。少しも。疲れていません、師匠。俺はもう、ここらすべての瓦礫のかたちを覚えたんです。ですから、ふらつくこともありません。俺は貴方を抱いているんです。俺のいのちよりもはるかに大切な貴方を。ずっと貴方の言いつけを守って……ねえ、師匠、おねがいですから。おねがいですから、もう二度とどんなねがいも叶えてくれなくていい、助けも守りもしなくていいから、ねえ、おねがい。帰ってきて。おねがいです。おねがいですから。貴方を悦ばせます。どんなことでもします。俺が満足したいなんてもう、髪のさきほども思わないから。おねがいです。抱いてください。帰ってきて、貴方の腕に、抱いてください……師匠……」
「ジュリアン」
「おまえは本当に気持ち悪いよ、俺が見てきたどんな人間よりも、ものよりも」
レシピをつけるように、その日の怪物の材料を記すのだ。あれは旧暦何年のことだった、あれはあの季節、あの騒動のあとだった、あれは、これは、それは。紐づけた小さな小さな紙切れたち、或は干からびかけた肉片を無数にぶらさげて、ジュリアンのあたまのなかに、我執と渇望でぶよぶよと肥満した、醜悪な怪物がまた一体殖える。また一体、また一体。どれもがジュリアンだった。どれも不在のトウランだった。変わり得ぬ存在だった。蝶になれぬ蛹の液状の中身であり、それは、花咲くことのない蕾だった。腐れ萎れているという点で、どの比喩も意味を成さなかった。
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