健啖家のおとこ(2)
地下室の、閉じ込められた獣臭、なまぬるい臭気のかたまりが顔にぶつかり吐息をすり替える。外のことをすっかり汚れで覆い隠して、代わりに暴かれる、欲望、獣欲、劣情の果ての果ての、空腹を。
いつ、どうやって、どこに――ここに来たのか。
わからない、なにもわからない。ただ戸惑うこともない。なにも不思議ではなかった。考える必要はなかった。なにも必要ではなかった。ただ肉体だけがある。ジュリアンという名のついた、うつくしく不吉なものを蹂躙し、磁翠はようやく満たされるのだ。気がつかされる。自分の空腹の因果を、この少年を、どうして思いつきもしなかったのだろうという気づきだ。ぽっかりと虚ろな空白が頭に生じていた、と感じるのはほんの一瞬で、すぐに掻き消された。いま、この場に、ジュリアンと自分が在り、部屋の隅には白い狼が座っている……部屋は狭く、息苦しく、獣くさい……ただそういったことが重なり合って地下室に押し込まれ、それだけだった。ほんとうにそれだけだった。それだけであることが重要で、そのほかのことはひとつも重要ではない。のだろうか。果たして。
「ジュリアン」
「………」
心許ないランプの灯りが橙色にひとつ、揺れる。朦朧としたその光に照らされない磁翠は唇をぺろりと舐めた。乾燥している。ざらつく唇の感触が、他人事のようだった。乾いて剥がれかけた薄皮を指先でむしって捨てる。一瞬だけの傷みがはしり、もう一度ぺろりと舐めれば、鉄錆の味がした……あの雨のように。
螺旋の捲がきれてしまったおもちゃは、ぐったりと寝台にうつ伏せて、呼吸の音も聞こえない。薄い躰は目を凝らせばかすかに上下しているが、ぱっと見れば死んでいるかと思うような有り様だった。飛び散ってあたりになすりつけられた液体の様々の生々しい香りが不快で、磁翠は煙草に火を点ける。味を感じない。裸のジュリアンに対して、磁翠はせいぜいシャツが肌蹴ている程度だった。そのかわりに汗をかいたせいで不快だ。気怠い躰の満足を、紫煙が巻く。
「変な病気が流行ってるよ、外では。赤い雨が止んだと思ったら、虫食いの奇病だ……。おまえはホーンについてどう思う?」
「…………」
「俺はね、この街がほんとうに嫌いだ。気味が悪いね」
「奇病?」
「ああ、喋れたっけ、おまえ」
「どんな病だ」
気怠い声は高い。裸の少年はうつぶせのまま、ひどくゆっくりと喋った。半分だけ持ち上げられた目蓋の隙間から、限りなく透明に近い銀色の眸が、金属じみた無機質さで磁翠ではないものを見ている。少女と見紛う繊細な造作の顔貌によらず、粗野な口調だ。磁翠は虫食いの呪いについて聞きかじったことを適当に話すと、少年のほうも一切の興味がないことが理解できた。ふうん、という返事、そして薄い呼吸の音が耳に障る。喫って吐く煙、言葉のほうがしかしなお軽い。
「なあ……ジュリアン。おまえ、いつも誰に話しかけてるの?」
「……」
「俺に抱かれてどんな気分がする?」
「気持ちいいと言ってほしいのか。あんたの性器の大きさについてとか?」
ジュリアンはホーンのどんな人間にもない素直さで、磁翠を嘲った。それがどことなく愉快で、口の端に自ずと笑みが浮かぶ。この汚らしい地下室で、白い狼とともに死んだように在るものが、口をきいたと思ったら子どものように清らな言葉を吐き出す。抱けば乱れて泣くというのに、この少年はまったく見た目の通りの子どもなのだった。いとけなく、頑是なく、愚かな、まったく愚かな無垢を抱きしめてどこかがねじれてしまった子どもなのだ。
弟のように愛らしく、そして同時に疎ましい。決定的にものである少年の、鼻につく人間らしさを認めれば引きずり込まれる。磁翠の頭のどこかが、微かに痛む。喫って、吐いて、喫って、じりじりと短くなる煙草を、手放す。靴底で踏み躙る。
「誰を待ってるんだよ」
少年は答えず、蒼白い膚で息をする。
磁翠は彼の肩に手を伸ばす。翅の生えていそうな背中だ、ざらつき沈んだ白であると同時に透きとおりかかっていて、冷たく、触れたら破けてしまいそうであり、言い知れぬ気味の悪さと、触れ難い嫌悪を抱かせる、人というよりは虫や――やはりもののような存在だった。(そうだ)。この見た目の恐ろしいほどの聖性にもかかわらず。それはあらゆる神の不可触とも異なった、爛れさせる毒を示す花の鮮やかな色合いに似ていた。派手やかで、虚栄まみれの、平静と無垢だった。
成長の途中にある未発達な痩せた躰は、ぎこちない骨の継ぎ目が痛々しく飛び出ている。肩を、肘を、骨のとがりをなぞってゆけば、少年の翅は繊細に震えた。喉は未だ突出しておらず、声は高く細い。それもやはり震えだった。彼のあげる声の戦慄が、磁翠を駆り立てるのだ。
「……抱きたいか? 俺を?」
うつぶせたまま、顔だけをこちらに向ける。ゆっくりと、ほとんど眠りへの落下の最中に遅れて届くような声……。
銀色の眸にはどんな感情も浮かんではいなかった。磁翠を映してはいないのだ。どんな瞬間にも。幾たびこの交わりを繰り返そうとも決して見ない。そんなことは磁翠には明らかだった。ホーンのもっともよい娼婦がそうであるように、決しておとこを立ち入らせない。娼婦と少年が違うのは、なにかを守っているかどうかだった。娼婦はそうして立ち入らせない己までが空ろであると感ずるが、少年はそうではない。彼はなにかを抱いている。抱かれている。古風なおんなのように、磁翠に誰かを重ねている。抱かれているのだ。なにかを守っていると、少年自身が思っている。その箱に果たしてなにものかでも入っているのか……少年は知らないまま。
「おまえのことも嫌いだよ、ジュリアン。ほんとうに、何もかも気味の悪い場所だ……」
手が伸びる。少年の薄い尻を掴む。
ランプの橙色の光が地下室を圧迫する書架を焼く。息苦しいほどの獣臭を嗅ぐ。白い狼がこちらを見ている。豊かな尾で、なにかを待つように床を打っている。その、はたり、はたりというゆるやかで不規則な音と、少年の背に、腰に、尻に、唾液を落としている己の滑稽なすがたが重なる。
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