健啖家のおとこ(1)


「ねえ磁翠、聞いた?」

 アネモネが、眉を寄せて窓際に立っている。これから店へゆくのだろう、エプロンこそしていないが、ドレスは清楚で愛らしいものを身に着けていた。《お砂糖三杯》の気のいい女給、彼女は磁翠を求めないが、一体どんなおとこと寝るのだろう。おんなかもしれない。子どもかもしれない。それとも老人だろうか……。

「ん……」

 寝てるの、とアネモネが不満そうにする。長椅子に怠惰に横たわったまま、磁翠は片目を開いた。

「寝てないよ。……なんのこと?」

「病気、変な病気が流行ってるんだって」

「どんな」

「躰に変な模様が浮かんで、それから一週間くらいで、ぱたっと死んじゃうんだって。でね、死体は腐らないの。ただ模様のあったところが虫食いになって、その死体、すっごく不気味なんだって。誰も買ったりしないって」

 こわいよね、せっかく赤い雨が止んだのに。

 赤錆びの雨が止んでしばらく。磁翠も奇病のことは聞き及んでいた。アネモネは不安がっているが、《時計地区》に知己を得た今では、その心配はない。

「その病気、魔術師しかならないんだって」

「なあに、知ってたの?」

「友だちが言ってた。あんたは心配しなくていいはずだよ、アネモネ」

「そうなんだ……なんかありがと、磁翠」

「どーいたしまして、大家さん。そう言えば、のうのうと居座ってたけど、あんた家賃取らないの?」

「払いたいならどうぞ払ってくださいな」

「金ができたら払う」

「うん。じゃああたし行くね、ばいばい」

「行ってらっしゃい」

 ばたんと扉が閉まって、すこしあと、階段を下りる音がした。

 ひたすらにだるく、さっそく目を閉じる。赤い雨のつぎは、魔術師だけが罹る奇病、ではつぎはなにが起こるのだろうか。想像力には乏しい自覚があった。だからこそ、向こう見ずな出奔や、考えなしの行動で、ふらりふらりと生きてゆけるのだ……。何が起ころうとも、どうせいまの磁翠に出来ることなどないだろう。だってわからないのだから。未来が見えるなら話は違うだろうが、そんなことは不可能だった。躰が重かった。熱でもあるのか、ひどく喉が渇く。無視して眠りに落ちようとしたが、渇きは耐え難くなり、磁翠は身を起こした。棚から水の壜をとり、呷る。喉が潤えば腹が空き、大きくため息を吐いた。

 窓の外を見ればもう陽は落ちている。

 イザとサキに会いに行こうか、と思いかけて、壁にかけられた無闇に立派なスーツが目に入る。イザとサキからの贈り物だ、今夜はそう、ロザモンド夫妻の家で夜会があると言っていた……。もっと深い時間からだろうか、と思いつつも磁翠はけだるいまま袖を通した。鏡を見れば、うっすらと生えた髭がみっともない。手早く剃って、顔を洗うと、気分は幾分かさっぱりとした。故郷にいたときには、立派な服を身に着ける機会など毎晩のようにあったが、ここ最近ではずいぶんと久しぶりだ。薄汚れたぺらぺらのシャツと、誰かの古着のズボンを適当に着るだけだった。孔雀色のクラヴァットの位置を整えた。髪はこのままでいいだろう。童顔の自分が、撫でつけたところで似合いはしない。鏡にうつった自分は、澄ました皮肉な笑いをくちびるに刷いて、奇妙なほどそれが様になっていた。

「ああ……うん、范磁翠、范の坊ちゃん……久しぶりだねえ……」

 とにかく夜会の前にイザとサキのところへゆこう。なにか食べさせてもらわねば、倒れてしまいそうだ。

(ああ、腹が減った)

(そうだね)


「イザ、サキ」

「こんばんは、磁翠。ちゃんと覚えていたのね?」

「サキ、信じていなかったみたいに言うんじゃないよ」

「いや、さっき思い出したんだ。どう、似合う?」

「当たり前でしょ。わたしが選んだのよ、もう。貴方って、まともな恰好をしていると本当に素敵よ」

「まったくだな。見違える。そこらの偉ぶり屋にも引けを取らないだろうな」

 もっともらしく真面目な顔で頷くふたりに、肩を竦めてみせる。

「そう言っても、金持ちの道楽息子って感じなんでしょ?」

 イザとサキが顔を見合わせて、にやにやと笑った。自分がどういう風体の人間なのかはよくわかっている。いかにも恵まれた家に生まれて、甘え放題やりたい放題に育ったボンボンだ。イザとサキこそ、今日は見違えるようだった。と言っても、サ


キはいつも盛装だが。イザの樽のような胴体は、上品な背広に包まれると途端、粗野なおとこからどこかの恰幅の良い紳士といった風になる。不思議なものだ。しかし、衣一枚に覆われたところで、ホーンの住人に染みついた汚臭が拭い去れるはずもない……。

「ローストビーフがなきゃ始まらないと思ってね」

「これから夜会なのに、お腹が出るわよ」

「誰に言ってるの、サキ。夜会でばくばく食べるよりいいでしょ」

「それもそうさ、さあ、どんどん料理をくれ!」

 イザが豪快に笑って手を叩く。場末の酒場の薄汚れた卓につく、盛装の三人組。違った風に見えてもここはホーン、景色から浮くことはないのだ。早速運ばれてきた血の滲むローストビーフ、大盛の酢漬けと、鰊の欠片が浮いたスープ、そして麦酒が三つ、それぞれ手にして杯をぶつけた。

「ところでロザモンド夫妻はどんなひと?」

「そうねえ、《槌地区》の仕切り役のひとりかしら?」

「《指輪地区》にも娼館をいくつか持ってるな」

「それに《螺旋地区》にも工房を抱えてるわよ」

「猫の眼広場の壁店も、確か二つ三つはあったはず」

「ふうん」

 ローストビーフを淡々と口に運び、黒っぽくばさついたパンを齧る。磁翠は汚く食べる輩が嫌いだ。どんなにひどい食事でも、作法には気を遣うべきだと思っている。その点イザとサキは見事なもので、酔いっぷりがまずかろうとも、彼らは無作法をすることがない。アネモネもそうだ。あの少年は……ものを食べているところを見たことがない。白い影。鰊のスープは特に不味かった。さして食材が使われてるわけでもなく、黄色っぽい汁に細切れの鰊がぷかぷか浮いているだけのはずなのに、生臭くて異物感がある。だが飲み干して、酢漬けを齧る。今日は蠅がいなかった。ローストビーフとスープの皿が片付けられ、籠には減ったぶん以上のパンが山盛りされる。少年とは誰だ? 今日のパイは肉のパイで、おそろしいほど味付けが濃く、かつぱさぱさに乾燥していた。麦酒を干してパイを食べ、空になった酢漬けの皿が運ばれ、鰻か鯰か知らないが、細長い魚のゼリー寄せと、二皿目のローストビーフ、それからやわらかいソーセージとたっぷりのマスタード、自信作だと給仕が得意げに胸を張ったレバーかなにかのペーストは稀に見るひどい味だった。

 手巾で口元をそっと拭い、ようやくひと息つく。懐から取り出した時計では、そろそろ夜会にいい時間だ。そう告げようとすると、イザがうかがうような目で磁翠を見ていることに気がついた。

「どうかした?」

「……いや、前からよく食うやつだとは思っていたが、今晩はよっぽど腹を減らしていたみたいだな」

「うん……? ああ、うん、そうかもしれないな。目が覚めたときはだるいくらいだったけど、あれは空腹のせいだったみたいだ」

「それにしたって食べ過ぎよ、見ているほうが気持ち悪くなるわ」

「まあ、磁翠は若いからな」

「イザみたいになったら嫌よ、磁翠」

「おや、どういう意味だ、サキ?」

 イザとサキはやり合いはじめるが、磁翠は未だぼんやりとした空腹を感じていた。不思議に思って首を傾げるが、特に覚えがない。昨晩もきちんと食事をしたはずだ。何を食べたかは思い出すことが出来なかったが。そっと手をあてがった腹は、静かに平らかなままだった。ここに詰め込まれたあらゆる食べ物の不在を感じさせるほどに。

「そろそろ時間じゃない?」

「そうね、もう、イザのせいよ」

「む……」

「ま、行こうよ。ごちそうさま」

 三人で店を出て、ロザモンド夫妻の邸宅へと向かう。《槌地区》のはずれにあるという邸宅はさして遠くもなく、すぐに到着した。混沌とした《槌地区》において、これだけの大きさの邸宅を所有しているのは大したものだ。そう思いながら見上げる、ホーン風、とでもいうべき奇妙な建築物。故郷のものとはまったく違う、暗い色調の建物だ。異様の塔ほどの不気味さはないが、どことなく腑に落ちないような、おかしな感じのする様式だ。完ぺきな左右対称に似せた非対称で、ほんの少しのずれが、注意すれば目についてしまう、そんな風な……。なによりも、異様の塔のものとよく似た、黒い石がそこここに使われているのが、どうも居心地が悪い。きっと、なかに入ってしまえば違うのだろう。

 磁翠がぽつりと邸宅を見上げていると、サキがそういえばと声を上げた。

「ロザモンド邸にも、立派な図書館があったはずだわ」

「そうだな。ロザモンド氏は大の読書好きだと聞いた。魔術師とはまた違う蔵書だろう」

「へえ……」

 サキを真ん中に、三人で腕を組んでロザモンド邸へと踏み入れる。巨大な玄関ホールを抜けて、夜会の会場となっている大ホールへと進むと、イザとサキはさっそく多数の友だちに囲まれる。磁翠も数え切れないほどの人間に紹介されたが、途中から覚えるのを諦めた。庭園へ出て、噴水の縁に腰を下ろす。植え込みの影からはみだらな息が漏れ聞こえていたが、どちらも意に介さなかった。

 煙草を咥えて火を点ける。庭はそれなりに手を入れてあるが、所詮は塀に囲まれた狭い庭だ。周りを見ればホーンの雑然とした街並みが汚らしく広がるだけで、情緒や風情といった言葉とは無縁だった。それに、塔が。遠近感を狂わせる黒い塔が、磁翠を見下ろしている。異様の、異貌の、異邦の塔。磁翠から見れば彼こそが異人だった。

(腹が減った……)

 夜会へ煙草の煙を空しく吸い込み、首を傾げる。ずいぶん髪が伸びてきていた。鬱陶しい黒髪を耳にかけて、磁翠は唇に触れた。腹が減った、と感じる。が、確かにサキが訝しんだように、近ごろの自分は食べても食べても足りない。思い当る節がなかった。特にいつもと異なる行動をしているわけでもない。魔術師の蔵書を漁り、女と遊んでイザとサキと食事をし、アネモネの喫茶店で煙草を喫って、アパートで眠るだけ――。

 噴水のなかへと煙草を捨てた。二本目に火を点けたところで、茂みから男が去っていった。磁翠は腰を上げ、いましがた男が出てきた茂みへと踏み込む。肌も露わな娘が、ぐったりと力を脱いて横たわっている。コルセットからは乳房が溢れかけ、ドレスの骨は外されている、滑稽なのに扇情的なすがた。彼女は磁翠を見上げると、驚くほど屈託なく微笑み、両腕を伸ばす。

「…………」

(腹が減った)

 丸い胸に手を伸ばして掴んだ。娘の唇からあえかな息が漏れる。絶頂の余韻に浸っていたのであろう娘は、頬を火照らせて悩ましく躰をくねらせた。前の男で汚れた躰であろうとも、彼には関わりがなかった。磁翠は上着も脱がず、煙草も捨てないまま、身を沈める。

「磁翠、どこに行ってたんだ」

「ちょっとね」

「もう! 厭らしいひとね」

「なにか用があった?」

「ロザモンド氏が、自由に書庫に入っていいと」

「本当? ありがとう、イザ」

「ああ。彼はもう下がるようだ、あとで夫人に挨拶するといい」

「磁翠、何か食べたの? あっちのテーブルに、まだたくさん料理があったわよ」

「うん。行ってみる、帰るときは俺を待たなくていいから」

「はいはい。自分勝手なんだから!」

「サキ」

「いいのよ、べつに。じゃあね、磁翠」

 ひらひらと手を振る。サキのドレスの濃紺から薄青への見事な変調を褒め忘れたことに気がついたが、足はすでに書庫へと向いていた。使用人がひとり案内に立ってくれる。書架からは離れた場所で暖炉が焚かれていた。思ったよりも暑く、上着を脱ぐ。すぐに、ここ最近降りしきりの赤い雨のせいだと気がついた。本が湿気るのだろう。

 ロザモンド氏の蔵書は多岐にわたっていたが、魔術師たちの書架とまったく違うのは、娯楽本が多いことだ。それから、どう呼ぶのが適切からはわからないが、ホーンの郷土史のようなもの、ホーンを対象に外部の人間が面白おかしく書きたてた怪談話……。実際にホーンにやってくる前に、磁翠が手にしたことのある本もかなり含まれていた。見るべきものはあまりなかったが、とても居心地がいい。壁面の天井までを埋める書架と、意匠を凝らした文机、梯子に書見台、どれも趣味が良い。深緑のびろうど張の椅子に深く腰掛けて、息を吐いた。

 帰りたくないと思った。

 この書庫からではない。この街から。ホーンという街から。

 あの部屋から。

「やあ、君が磁翠か」

 知らぬ声に肩を揺らして振り返る。白髪に蠟で固めた白い髭が立派な、やたらと背の高い老紳士――ロザモンド氏だろう。磁翠は立ち上がり、浅く会釈した。

「はじめまして。磁翠です。とても居心地の良いしつらえに、ついゆっくりとし過ぎてしまったようです」

「なに。まだ夜は浅い。好きなだけここに居たまえ。イザとサキが君をいたく気に入っていると聞いて、私も気になっていたのだよ」

「彼らは僕の親友です」

「そのようだ。……何か調べ事をしているのかね」

「ええ。貴方も多く集めておられる……この街と魔術について」

 そういうと、ロザモンド氏はなぜか軽く頭を振った。仕方のない子どもをみるように磁翠を目して、硝子の杯と飴色のかぐわしい酒を掲げる。磁翠は素直に杯を受け取り、苦く感じるそれを舐める。磁翠の向かいに腰かけて、ロザモンド氏は口を開いた。

「酔狂な青年だ。外ではもう、魔術は枯れかけなのだろう」

「ご存知でしたか。ホーンはまるで異界です。ここの人間は、誰も、何も、知らないのかと思っておりました」

「私は商売のことで外とやり取りをすることが多いのだ。……知らぬもののが多いだろうがね。私も不思議で、このように書物を求めたが、何もわかりはしない。この街には彼方へと通ずる道があり、それが魔術の媒体となる燐の濃度を非現実的なまでに高めているとはいうが、実際のところ、魔術師たちは濃度はわかっても由来まではわからないのだ」

「彼方へと通ずる道ですか」

「ああ。あながち伝説でもなくてね、かつてホーンは幾度か巨大な危機を迎えていた。そのたび時代の大魔術師がこの街を守ってきたが、その危機というのは彼方の逆流なのだよ」

「彼方が此方へ雪崩れると?」

「その通り。だが、ある時代から道……というよりは穴だろうな、穴が塞がれ、今では漏れ出る燐だけを享受しているというわけだ」

「お詳しいですね」

「なに、魔術師とも親しいのだ」

「ですが、それ以外のことは何もわからないということですか」

「塔のことも、猫の眼時計のことも、《釘地区》とは何なのかも、まったくわからない」

「異邦人の感覚も?」

「それはわかるよ。私は外とかかわりを持つせいだろう、この街に嫌われていてね」

「では貴方も、塔や時計を気味悪く感じることがおありで?」

「同じだよ、君と。だがおかしいね、私の目には、君はまるで街の愛し児のように見えるのだが」

「まさか。僕は異邦人ですよ。いずれこの街も出るつもりです」

「そのときはきっと力添えできるだろう。……私はそろそろ失礼する、ゆっくりしていきたまえ、磁翠」

「ありがとうございます、ロザモンドさん」

 ロザモンド氏が去ってゆき、磁翠もなんとなく興を削がれて立ち上がった。このまま眠ってしまいたいような、重い倦怠が躰の底に沈んでいる。ホーンという街、穴、黒い穴、深く、暗く、すでに蓋われてしまった嵌、異邦人は、落ちてゆく? 否、おそらく違うだろう。異邦人は逆に、落ちることができないはずだ。ホーンの穴で、最奥のやわらかくあたたかい場所で抱かれることはきっとない、路地で腐れてなにかの材料にでもなるか、壕へと投げ棄てられるがせいぜい。

 ――愛し児。

 その人間は、このホーンで生きていくことを、きっと疑問になど思わないのだろう。

 この狭い街の歪みにも気がつくまい。そうでなければ、どうして生きてゆけるだろうか。

(ああ……腹が減ったな)

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