胎
黄昏時のホーン、猫の眼通りを師を抱いて歩けば、大抵のものは大きく退いて道をあけたものだった。交わされる囁き声、嫌われ者の師がそれを聞き、誇らしそうに顎をあげて、卑小な人物たちを見下ろす。そうはいってもジュリアンの腕ではさしたる高さもなかったのだが。本当に、彼女を抱くのは大仕事だった。自分はとても小さいつもりでいた師は、なにかあればすぐに「抱き上げろ」「抱いて歩け」とうるさかった。ジュリアンは渋々ながら彼女を抱き上げ、その重さに苦労していたのだ。
「軟弱な」
「だったらヴィオラにでも頼めばいいだろ。あんた、重いんだよ」
「わたしは誰にも頼むつもりなどない。命じているんだ。選ばれたことを喜ぶべきところだろう? ジュリアン」
「落とすぞ」
「落とすわけがない。それがわからぬほどわたしは馬鹿じゃない。なにせおまえの尊敬する師匠だからな」
「………」
ひとひとり抱き上げるのは大変なことだ。ちいさなすがたの彼女にはわからないだろう。
と、そのときは思っていた。だが当時の自分はまったく、愚かとしか言いようがない。師が、ひとひとりの重さを知らぬわけがなかった。他でもないこのジュリアンを、最初に抱き上げたのは彼女だ。雪原で、泣いていた、赤ん坊だったジュリアンを抱き上げた。痩せぎすの十四歳のジュリアンが、五歳の彼女を抱くことと、五歳の彼女が赤ん坊のジュリアンを抱くこと、いったいどちらが大変だったろう。
抱き上げていると、いつも師の顏は間近にあった。真鍮色の渦巻く眸は、間近に見ても不可思議で、おそろしかった。なめらかすぎる白い膚も、濃灰色の髪も、どれも現実味が薄かった。幼い顔立ちに不似合いなほどのうつくしさを備えているということがどれほどの気味悪さか、彼女を見なければきっと想像もつかないだろう。だが彼女ほど表情が人間臭いひとを知らない。顔立ちに相応しからぬ悪どく腥い笑みや、高笑い、顎を上げてひとに命令するすがた。どれもこれもあまりにも俗っぽくて、ジュリアンはしばしば彼女に失望したものだった。彼女のうつくしさは、威厳と神秘とで彩られるべきものだったからだ。
だが、顎までぴったりと黒い服で膚を隠した彼女の裸を、ジュリアンは知っていた。彼女の肉体が暴れ出すような夜、そばで見守るのはジュリアンの役目だった。お気に入りの魔物のヴィオラも、親友のレジャンスタも、優秀な弟子のオギノも、みな一歩も近寄らせず、どころかそんな夜があることを誰にも悟らせもしなかった。ただジュリアンを除いては。
彼女の裸ほど、失望と遠いものはなかった。ただしそれは絶望ではあった。
幼い裸を縦に真っ二つに裂いたような――否、実際彼女は引き裂いた――無残な傷痕があるのだ。
傷口は引き攣れ、ぎざぎざで、乱雑に縫い合わされていた。糸は茶色く変色し、周囲の皮膚も果実を潰したような、紫と褐色の斑に染まっていた。おぞましい傷痕は、どんな魔術でも塞ぐことのできなかったのだ、と師は語った。
「魂をふたつに裂いて、それぞれ違う器に移したんだ」
つまりひとつは、魔術師喰らいの黒い獣、ダナチェロに。もうひとつはこの幼子のトウラン、彼女自身の肉体の器に。傷が開くと、失った魂の半分の代わりに詰め込んだ、あらゆる魔物がこぼれだす。彼女の魔術の源泉にして、力の証でもある魔物たち。彼女の胎は、悪趣味極まりない蒐集癖の、誰にも自慢することのない飾り棚だった。
やがて分割された魂は徐々に再生・成長し、真円の魂はふたつになった。トウランという完全な存在はまるで奇妙な生物のように分裂して増殖したのだ。いま考えても、頭のおかしいひとだ。自分の肉体をおもちゃにして遊んでいるかのようだった。ふたりになったトウランは、争っていたのではなかったか。互いの存在をかけて、嗤いながら……。
抱き上げた彼女が重いのは、その腹の中身のせいだ。
いつもそう思うのだ。無数に蠢く腸が、怨嗟を吐きながらも彼女に跪き、悶えさせようと賤しくも考えているに違いないと。
「おいジュリアン。ぼんやりするな」
「ああ」
幼子の腹が、ぼこぼこと蠢く様は、不気味といって済ませられるものでもなかった。裸の彼女を膝に抱き、ひたすら集中して呪を唱え続けた。その夜が明けた朝は、だいたいジュリアンは窶れきって、そのままトウランの寝台で熟睡した。彼女の獣くさい寝台で、躰を丸めて眠るのだ。
「ジュリアン」
「師匠……」
「薬を飲め。そのままじゃ死ぬぞ。聞いているのか?」
くちびるを、短い指がこじ開けて、錠剤をばらばらと放り込まれる。せき込みそうになると水差しが突っ込まれ、容赦なく注がれて鼻を摘ままれた。それすら懐かしい。苦しかった。いつも苦しかった。咳きこんで吐き出すことを彼女は許さなかった。どんな薬でもジュリアンに呑ませた。選択権はもちろんなかった。ひどい副作用に苦しむときなどは、彼女のことを呪った。屋敷で血や反吐を吐いては彼女を怒らせた。はやく片付けろと怒鳴り散らし、どすどすと床を踏みしめて彼女はジュリアンを置き去りにした。そして戻ってくるときに、そのもみじのような手にはやはり様々な薬が握られていた……。
「欲しい」
トウラン。ジュリアンの暴君。
「欲しい」
誰にも等しく残酷な師の、やさしさと愛情を享けた。そして誰にも見せない凶悪を教え込まれ、まるでもののように扱われるかと思ったら、おまえは特別だ愛していると囁く、その声を言葉を、幾度でも信じた。かわいいといわれるたび舞い上がる心地だった。たとえ次の瞬間、彼女の実験台にされようとも構わなかった。反抗する仕草を見せれば彼女は喜んだ。ぶっきらぼうになれば彼女はおもしろがってジュリアンを構う。まるで追いかけるような振る舞いをする。愛している、愛していない、おまえだけがわたしの弟子。おまえこそがわたしの継承者だ、と。
「欲しい……」
なにもない雪原で、白い髪をして、白い膚をして、銀色の眸をした赤子のジュリアンは、白いおくるみに包まれていた。とても冷たいのに、生きており、師が抱き上げれば笑い声をたてたと。生きたいかと問えば、蚕のような指でわたしの指を握り、とても愛らしかったのだと、彼女は語った。ジュリアンはこのひとに抱かれるために生まれたのだと、生きているのだと、思った。そしてそれは現在も同じだ。
「欲しい」
渇いていた。餓えていた。
耐え難い空腹を、獣の首を抱いてしのぐ。
白狼はジュリアンと目を合わせたがらず、尾は落ち着きなく振れている。まるで彼から逃れたがっているかのようだ。「おまえも俺だろう」、なあ、と声をかけ、もっと強く抱きしめる。くうん、と珍しく獣は鳴いた。激しく首を振って、ジュリアンから離れる。黒い亀裂の横、定位置に座ると、警戒する目でこちらを見ている。
「欲しい。欲しい。欲しい欲しい欲しい」
欲しい。
「あんたが欲しい」
ああ、どうして。腹が減る。
「欲しい。もっと欲しい。抱けよもっと。もっと」
師匠。
トウラン。
ちいさな女王。
抱き上げた躰を離さなければよかったか。腕が痺れて落としかけても下ろさなければよかったか。死ぬまで抱いていれば。彼女はどこへも行かなかったはずだ。彼女より先に死ねばよかったのだ。そうすれば、待つだけのおそろしく永く苦しい時間など、知らずに済んだ。どこにいるとも知れないひとを、便りのひとつも寄越さぬひとを、同じ場所で待ちつづけている犬だ。己は犬だった。そしてこの部屋は彼方の地獄だ。
「足りない。欲しい。欲しいんだ。抱いて、抱け、つよく抱けよ……」
「うるさいな。喋るな」
「欲しい、ん、だ」
満たされるために必要なものはたったひとつだ。その狭さが憎らしい。妥協する余地がない。欲しいものはただひとつ、自ら手に入れることのできないものがただひとつ、ジュリアンの身を焦がす。待つのだ。地獄の時間が永いほど、きっとそのときが悦ばしい。そうだろう、と自らに言い聞かせねばならない。
「欲し、い」
「おまえ名は」
「ジュリアン」
「俺は磁翠だ。ジスイ」
「もっと」
「んっ……」
ああ、俺は、何に抱きついて、何に縋りついて、鳴いて、欲しがって、欲しがって、欲しがって欲しがって欲しがって、いる、のだ、ろう。
「もっと、寄越せよ……もっと、酷くして、酷くしろ、つよく、なあ、欲しい、ん、だ、……足りない、っ」
狼はどこか、犬はどこか、己は、そしてトウラン、師匠、貴方はどこか。
与えられない悲しみを、仮にも満たす方法は何だろう、と考えた、記憶が、ある。
そうまずは魂を割いた。気がする。
そしてジュリアンは殖えた。のではなかったか。
殖えてもなお餓えた。から、ジュリアンは。
「あっ、うっぅ、い、い、も……っと、欲し、い、抱けよ……、殺して、くれ、よ」
「おまえ、ろくでもない人間だろ。わかるよ。生きてても仕方ない屑だろ。身も世もなく俺に縋りつくようなやつはみんな、生きてる価値のない屑ばっかりだよ。おとこも、おんなも、それ以外もみんな、屑だ」
「うぅう、い、たい、痛い、もっと、痛く、して」
暗い笑い声が、くつくつと地下室、そう地下室に響く。
呼吸、呼吸をする。ひどく淀んで腥い、汚臭と言ってもおかしくないにおいがする。生きている人間のにおいがする。逃げ場のないこの部屋を満たそうとしている。いや、逃げ場は本当になかったか? 黒い亀裂の横には、白い狼が座っている。餓えた獣の目をしてジュリアンを見ている、まだだ、まだだと言いながら、狼は唾液をぼたぼたと落とす。トウランの肉体が、五歳のときのものだと聞いた時、どうして五歳の彼女に出会ったのは自分でなくて、師匠の師匠だったのだろうと思わずにはおられなかった。師匠の師匠と出会った師匠は、肉体の時をその日に留め置きたいと願うほど、師匠の師匠を愛したのだろうか。そう、そう思うと胸が痛む。痛むだけではなかった。掻き毟りたくなる。心臓から血を流すほど苦しんだと、師匠に見せたくなる。ジュリアンが、トウランを愛したほどに、トウランはトウランの師を、愛したのだとしたら。
「んっ、あ、あ、うンッ……」
そんな苦しみは、この世に存在しなくていい。
そんな苦しみを知ってしまえばもうどんな苦しみも価値を失い無刺激の空しい穴の底で膝を抱えるしかできなくなるただトウラン、師匠、トウラン、ジュリアンのかみさま、彼女以外からはどんな、種類の、快楽も痛苦も、感じない、感じないのだ、少しだって、感じないなにも感じない、感じることができない。餓えるのも渇くのも彼女のため、こんなに腹が空いている、どうしてこんなに腹が空くのか、そう師匠がいないから、ジュリアンは誰にも踏み荒らされないままの新雪、お綺麗な永久の凍土になってしまう。生まれる前のように、拾われる前のように、遠い記憶の雪原、物心つく前に知った温度はつめたさではなかった、かつては何も感じなかった、それが当たり前だった、それがジュリアンの、もっとも静かな死の記憶だった。
痛みを苦しみを快楽を、仮初でない快楽を、あらゆる刺激を与えて欲しい、貴方の小さな手で、小さな躰で。
「うっ、ううぅ、う、うあ、ぁ……あ、ししょお、し、しょ……」
「うるさい、ジュリアン」
「うるさくない。俺は間違ってない」
「いや間違っている。その配合は毒になる。死にたいか?」
「間違わない。……いつも口を挟まないくせに、何なんだよ」
「かわいい弟子の躰を案じているが? 私の言うことを聞け。聞けぬなら死ぬがいい」
「知るか」
「……ふん」
臓物を焼き尽くす痛みに悶えた、死ななかった、なぜならジュリアンはいま生きているから、師匠はその時、ジュリアンを助けた。ほかに誰がジュリアンを助ける? 他の誰もジュリアンを助けることはない。ジュリアンが許さない。死ななかったのだから許されたのだ、きっとそうだ、いつもそうだった。強情なジュリアンを師は許し続け愛し続けそして消えた。
消えてしまった。
でも戻る。
絶対に戻る。
ジュリアンが待っていれば戻るはずだ。
彼女は死なない。
死ぬはずはない。
死んだのならばもうジュリアンは生きていない。
彼女が死ぬ時は、このホーンも死ぬ時だろう。
躰が跳ねる、揺れる、何かが動いている、何か、人間、誰か、おとこ。
白い狼が部屋中をうろうろと落ち着きなく歩き回りはじめた、唾液をぼたぼたと落としながら歩き回る、へこんだ腹で歩き回る、おとこを見ている、きっと、見ているジュリアンを見ている餓えている、餌を探している自らを律している、獣が自らを律している、いや、待っている、時を待っている、師匠を待っている。
貫かれている。交合っている。交合っているか?
否。
貴方を待っている。
貴方だけを待っている永遠。
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