必要なだけの覚醒

 白い尾が、はたと揺れて床を打つ。不機嫌な猫のような仕草だ。はた、はた、一定の調子で、眠りを誘う。だが磁翠は、この場所で眠るつもりはなかった。懐から煙草入れを取りだす。木製の小粋な品は、故国の伝統工芸で数少ない気に入りのものだった。貝が貼られた板を組み合わせて模様を作り、不思議な風合いの美を醸す。煙草のかおりを吸い込んだ木が、果てなく甘い故郷を呼ぶ。

(戻りたい? そんなことはない……)

 燐寸を擦って、細い煙草に火を寄せる。ホーンの煙草屋に、贔屓の銘柄はなかった。

 苦い煙が地下室の天井へと昇る。くゆらとたなびいて、行き場を失くして渦を巻き、落ちる。煙草のにおいを覚えれば、鼻は現実を思い出し、同時にこの地下室の、いつも慣れない獣臭をもう一度嗅ぐ羽目になった。情事のあとの煙草は、磁翠にとっては欠かせない習慣だった。無性に喫いたくなるというわけでもなくただ、覚醒を求めて。そうしなければ正気が保てないと無意識が囁くためだろう、と思っていた。ゆっくりとくちびるに運び、下ろす腕。床に灰を落とし、寝台の下へと裸足で掃いた。見えても見えなくても、部屋の主は気に留めもしないだろうが。ざらりとした床板の感触、細かな塵が踏み分ける足で気まぐれに散らされているだけで、浄められることはない。

 白狼は、肢をそろえて座り、白い尾は床を打つ。

 腰かけた寝台の奥に、身を投げ出した少年が眠っている。狭い寝台だった。

 力なく敷布を乱す手肢は、まるで骨のようだ。か細く、生白く、ちいさな爪も青みがかっている。生気がない。交わっている最中、磁翠の背なにその青い爪をたて、縋りついた手とは思えなかった。躰も、なにもかも。肋骨が浮き上がっている。胸は静かだった。未だ喉仏の目立たない首は、自ら掻きむしったのか、薄らと赤い痕が這っていた。

 赤錆びた雨、あの赤い条のような痕だ――。

 手を伸ばそうとは思えなかった。いまの少年には触れ難く冒し難い、純潔と汚穢とが、重なっていた。狂乱の情交を終え、死んだように眠る少年を見るたびに、磁翠はそう思った。この少年の、決して抱き心地のいいとは言えない躰を掻き抱くとき、欲望は底を失くし、磁翠は愚かしい獣と成り果ててただ、転げまわるのに。だが、終わりがあるのも確かだった。ふと現実に引き戻される瞬間がある。それは少年が半ば気絶するように眠りに落ち、白狼が存在感を増すときだった。そうして磁翠は煙草を喫い、獣臭を嗅ぎ、靴を履くことになる。

「なあ、おまえとこいつは、なんか関係があるんだろう」

 獣は答えない。

 いまは閉じられている少年の眸と同じ銀色の双眸が、どこか計り知れない深さで磁翠を見ていた。

 じりじりと短くなる煙草を咥えて、立ち上がる。最中、少年は素裸だが、自分は最低限しか着衣を乱すことがなかった。襟を整え、煙草を床に捨てる。脱いでいた靴に足を突っ込み、吸殻を踏みにじった。先ほどと同じように、その塵を寝台の下へと押し込む。暗い空間、見えないところへ。他人の棲み処の汚れなど、磁翠には関係がない。

「雨、止んだかな……」

 ドアノブに手をかけ、回す。



「あら、磁翠」

「おお、こっちに座りたまえ!」

 すっかり馴染んだ酒場に入れば、すぐに呼ばれる。血の滲んだローストビーフがどんと卓に置かれ、磁翠はそれを我が物顔で口に入れた。さして美味しくもない酒場の飯だが、腹におさまれば何でもいい。心地よい倦怠をより味わい深くしてくれるのなら、どんな食物でもいいのだ。

「ねえ、今度ロザモンドの家で夜会があるの。来ない?」

「行くよ」

「伝えておくわ。その時は正装で来てよね」

「これが俺の正装」

「門前払いよ」

「それは困ったな。誰かが誂えてくれれば話は別だけど」

「それ、わたしに言ってる?」

 ぱちりと片目を瞑ると、彼女はわざとらしくため息をついた。

「いいわよ。ねえ、イザ?」

 しなだれかかってくるおんなからは、香水のかおりがしていた。重たく甘ったるいかおりに、かすかに獣のにおいが混じっている。そのような調香なのだろう。嫌いではない。向かいに座ったひげ面の男は、いかにも粗野な装いだが、彼は彼女の夫だ。いかにも上流階級らしいドレスを着たおんなと、毛むくじゃらで樽のような躰をした粗野なおとこ、似合わぬ夫婦だが、顔が広く、仲もいい。いつもこの酒場で、知り合いを囲って気前よく振舞うのだ。

「いいとも。磁翠は見目がいい。夫人がきっと離さないぞ」

「やあ、嬉しいな。サキの見立てに期待しよう」

「もうっ。貴方ってほんと、甘え上手だわ。きっと末っ子でしょ」

「ご名答。兄貴が六人、姉貴が三人。一番下が俺なんだ」

「すごいな。大家族だ」

「そう。俺の国じゃ一族郎党で何百人って村を作って暮らすんだよ。全住民の弟ってわけでね」

 ははあ、とイザが感心する。

 ローストビーフを平らげると、すかさず新たな皿が置かれ、なにか細かく切られた野菜の酢漬けが山盛りになっている。新たな麦酒が厚いジョッキに注がれ、半分ほどを飲み干した。与えられるままに口にしていれば、おとこが己の髭に触れる。

「いつ見ても思うんだが、君は相当な健啖家だなあ」

「そう? 腹が減るんだ、寝たあとは」

「あらあら、まあ。あっちこっちでお相手を聞くわよ、磁翠。貴方ってほんとうにおかしなひとよね。まったくこだわりがないんだから」

「それを言うならこの街の人間みんなそうだと思うよ。あんたらみたいな人間だって、こんな薄汚れた酒場に入り浸ってる」

「うふ、失礼よ、磁翠。確かにこの蠅は、鬱陶しいけれど」

「まったくだ。蠅がどうにもうるさい」

「まあでもこの通り、蠅も食えないことはない」

 不幸にも酢漬けに漂着した、まるまると肥った青い蠅を、野菜と一緒に口に放り込む。サキはまあと眉を顰め、イザはまた腕を組み、ははあ、と唸った。

「ああいま潰したよ、奥の歯でね。痩せて乾いた硬い葡萄を噛んだような気がする、汁が出て」

「嫌よ、もう。悪趣味ね!」

「虫を食べるくらいなんてことないよ。サキもどう? その赤い酒に合うんじゃない。青い蠅だもの」

「やあやあ磁翠、それくらいにしてやれ。さすがの私も蠅は食わんぞ」

 にこっと笑うと、仕方がないというふうに夫婦はそろって首を振る。

「ところで話は変わるけど、この街には図書館なんてものはないかな」

「図書館? そうね」

「いったいどんな分野の本をお探しかな」

「魔術だ。魔術史」

「じゃあ魔術師を紹介してあげよう。図書館なんてものはないが、魔術師連中の蔵書といったら尋常じゃない。気難しいのが玉に瑕だが、なに、君ならきっと大丈夫だろうな」

「そうねえ。なんなら協会でもいいかしらね」

「ありがとう、イザ。サキ」

 つぎに皿を押しやると、やはりすかさず新たな皿が出される。燻製の鱈を麦酒で流し込み、次いでやってきた大皿に詰まったパイをひとり悠々と取り分ける。イザとサキはその様子をじっと見ては面白がり、食べたり食べなかったりで、結局お喋りは夜明けまで続く。

 十分に酒が回ったサキが、「で、今日はいったいどこの娘と寝てきたの?」とはすっぱな口調で聞き始めるころには、磁翠の腹も満たされていた。故郷の酒に較べれば、麦酒など水のようなものだ。いくら流し込んだところで、酔いやしない。イザもざるで、常と変わらない顔色のまま、サキの質問をたしなめている。

 磁翠ははじめて、すでに幾度か躰を重ねた少年の、名まえすら知らないことに思い至った。

「なによそれえ」

「しかし、同じ相手と会っているのも珍しいじゃないか」

「そうだねえ……」

 そんな彼らの言葉をぼんやりと聞き流し、磁翠は席を立った。夫妻への挨拶もそこそこに、考え込んで歩き出す。夜明けの汚いホーンの路地、がたがたの石畳を踏んで、辿り着いたのは《お砂糖三杯》。アネモネの店だった。

 飴色の扉を押し開けると、ころころとかわいい音のベルが鳴る。緑色の清楚なドレスに生成りのエプロンをつけたアネモネは、あたたかな店内の空気に寄り添って、ひとを安心させる。店内には、静かな客が数人座っていた。

「あれ、磁翠じゃない」

「ああ。熱いコーヒーが欲しくてね」

「そう? 座って」

「ありがとう」

 アネモネは、家にいるときほど口うるさくなかった。磁翠のもの思いを案じてか、コーヒーの横には愛らしい包装紙に飴玉のように包まれたチョコレートが添えてあった。彼女を見ると、くちびるに人差し指をあてて、微笑む。いいおんなだ、と思うと、先ほどまでなにを考えていたか忘れた。誰かの朧な白い影だけは、いつまでも頭をちらついていた。

 チョコレートを口に入れれば、とろりと溶けて甘さが舌にまとわりつく。苦味で押し流すこともできた。だがあえて口内の粘つきをゆっくりと考えた。甘い、ひたすらに甘い。なめらかな感触、アネモネもきっと、この菓子のように甘いのだろう。やさしく気のいい女給、先ほど青い蠅を食べた舌はいま、チョコレートにまみれてぬるく粘つく官能に辟易している。

 赤と青の縞模様の包装を、ぴっと伸ばしてソーサーの端に乗せた。

「アネモネ」

「はーい」

「愛しているよ」

「ありがとう。ご注文はチョコレートケーキ?」

「是的」

 アネモネの小さなお尻を見つめて、ようやく人心地つく。コーヒーをくちびるに運ぶと、少しも冷めておらず、舌を火傷した。思わず戻したカップがソーサーにぶつかり、かちゃりと跳ねるとアネモネが、壁にもたれて笑っていた。懐から取り出した煙草に火をつけて、カウンターに肘をつく。寡黙なマスターと目が合ったので、磁翠は火傷した舌をちろっと出した。そういえばここも酒場だったとようやく思い出して、熱いコーヒーにブランデーを入れてもらった。火傷するほどの熱さを失ったかわりに、好いかおりが立ちのぼり、磁翠はひとり満足して笑った。

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