宛無き手紙


私の愛のすべてである師匠 トウランさま


 待っております。

 息災でしょうか。私は待っております。先日貴方を夢に見ました。いにしえ(といっても、私と貴方とのあいだではどんなときをいにしえと呼ぶべきか、私にはわかりません)、夢とは眠りの主に「逢いたい」と願っている人物が現れるのだと申します。その逆に、眠りの主が「逢いたい」と願っている人物が現れるのだとも。私の夢に登場した貴方は、むかしと変わらないすがたでした。むかしと変わらぬ残酷を、無垢の血斑に染まった毛皮で包んだ、まるで汚れた大地を覆う新雪のようにうつくしく、屍を沈めた湖を封じる冴えた氷のように気高いおすがたでした。私は貴方の汚れた大地であり、貴方の沈めた屍です。思い出してくださいますか? いいえ、きっとそんなことはないのでしょう。貴方は浄い雪を踏みにじり歩いていらっしゃるのでしょうね。ちいさな御足が冷えぬよう、貴方に跪き縋るものはいまも数え切れぬほどあるのでしょう。

 私は貴方に逢いたいと切望しております。貴方はどうなのでしょう。私に逢いたいなどと、おっしゃる貴方でないことは十分承知しておりますが、長い孤独にもの狂いの私です。貴方が私に「逢いたい」と、そう願っていると、思うことくらいはお許しください。そうは言いましても矢張り、真実の貴方に逢えないことが、どれほどの傷みを私にもたらすことか、きっとおわかりにならないでしょうね。ささやかな願いや、夢、そんな朧なものに縋ってしまうあさましい私を、貴方は嗤いましょう。貴方のような傲慢なおひとを、ほかには知りませんからね。私はそれでも、貴方を愛しております。貴方にそんなことを申すものは、ほかにはいないでしょう。ほら、貴方はそんなところで、ひとつの愛を喪おうとしているのですよ。(否、そんなはずがありませんね。私が貴方を愛することをやめる日が来るとしたら、それはきっと避けがたい死のその先だけです。死とともに私というものが消えるとすれば、矢張り私は私の限り、貴方を愛し続け、それが途絶える日は来ないと断言してもいいと愚考します。)私のほかに貴方に真実の愛を囁くものがいるはずがありません。貴方の愚かさを、貴方の汚さを、貴方の羞じの隅々までを知り貴方に虐げられた私だけが、貴方を愛し、貴方に愛されることが出来るのです。恍惚に目をうるませ、法悦に身を戦慄かせるうさぎのようなものどもなど、貴方の餌にもなりますまい。

 貴方はいったいどこにいるのでしょう。私はいつまででも待ちます。貴方が私を迎えに来てくださる日を、いつまででも待ちます。夢でしか逢えない貴方に焦がれております。遠くにいらっしゃるのか、それとも近くにいらっしゃるのか、それさえもわからない貴方。いつでもそうでしたね。貴方は、意地悪な子どものように私を、責めましたね。でもかならず、私を愛しているとそうおっしゃいました。私はそれを、愚かだと貴方がお思いになろうとも、信じております。かつても、いまも、これからも、ずっと。私の獣の息が続く限りの永遠、貴方を信じております。夢のなかの貴方は、私に向かって、「わたしの愛のすべて」とおっしゃいました。(私は決して、夢で貴方を穢したわけではありません。)

 それを聞いた私は、まぼろしだと理解してなお、天にも昇る心地でした。貴女の声が聞きたい。貴方の愛が聞きたい。あさましい身と罵るでしょうね。貴方はそういうおひとだもの。けれど構わないのです。私は貴方に焦がれるあまり、きっとどこかをおかしくしたに相違ありません。ねえ、どこにいらっしゃるのです。私が古びてまったく朽ちてしまうまえに、貴方は私を抱きしめなければなりません。魂を抱きしめて、捨て去るくらいならば喰らってください。貴方の傷に封じられた、無数の血肉のひと欠片と成り果てようと、捨てられることに較べれば、いったいどれほどの幸福か、計ることはきっとかないません。けれどそんな不幸を、貴方はきっと私にお与えにはならないでしょう。貴方は私を愛しているのですから、そんな仕打ちはできないでしょう。たといいますぐに来られずとも、貴方は私を捨てない。けして。私はそう、信じております。夢をみました。「逢いたい」と、私と貴方は互いに思っているはずです。

 いつほど、私を迎えに来てくださいますか。

 あわれな私の犬の役目に、終止符を打ってくださいますか。


貴方の愚かな弟子 ジュリアン





 書きあげた手紙を封筒にいれ、蠟を垂らして封じた。宛は書かない。椅子を引き、重い躰を引きずる。日に日に小さくなる亀裂のなかに、手紙を放った。真白い上質な紙の封筒は、黒い闇に侵されるようにすがたを消した。「どこにいるんだ」、亀裂の向こうの世界にいるのなら、届けと、いつも祈った。しばらく、亀裂の前でぼうっと佇んでいた。光を呑み込む純黒に、いたずらに手を触れる。なにも感じやしない。熱も冷気も、物質の感触もない。

 ぱさりと音がして、現実に引き戻される。現実、つまり、待ちつづける彼に。白狼が、太く豊かな尾で、床を打った音だった。獣は爪を鳴らしてジュリアンに近寄り、腰のあたりに鼻づらを擦りつけた。まるで慰めるような動作だ。トウラン、あのひとの獣は黒かった。そしてこの白狼の何倍も巨きかった。馬よりも大きかった。ダナチェロという名だった。この白狼には名がない。しゃがみこみ、膝をつく。

「師匠。どこにいるんだ」

 俺は待っている。ここでずっと待っている。あんたが待てと言ったとおりに。

「師匠……俺はあんたをずっと、待ってるのに……」

 咳がこみあげて、獣の横にしゃがみこむ。発作だ。しばらく止まらない。いつも師は、ジュリアンの薬を処方していた。魔術師として肉体を改造するためのものだけでなかった。ジュリアンの病のために、彼女は手を尽くした。わざわざ嫌いな呪術医のもとへ行っていたことも知っている。不治の病。だがジュリアンは、師も薬も失くしてなお永らえている。

 あらゆる肉体の負の側面を切り離したというのに、この病だけが、しつこくジュリアンにしがみついて離れないのだ。不治の病とはなるほどよく言ったものだ。死に至るとは未だ証明できてはいないが、治る様子も同じく見られない。しばらく荒い息をつき、獣とともに床に丸くなった。寝台まで歩く気力がなかった。今すぐに夢をみたかった。欲しかった。手紙に籠めた思いは亀裂に呑み込まれたというのに、幾度でも新たに湧き出でて痩せ細った身を削る。肥大する欲のぶんだけやつれる思いだった。腹が空いてたまらない。ひもじかった。欲しかった。餓えていた。渇いていた。どうあっても、誰であっても、ただひとりをのぞいては満たすことが出来ない。誰でもいいはずがなかった。

「師匠、あんたがいないと、だめなんだ」

「俺が死ぬのはあんたのせいだ」

「あんたが俺を呪ったんだ……」

 獣の息遣いが、ぬるく頬にかかる。獣のにおい。獣の生気を吸い込んで咳きこんだ。止まない。

「っあんただって、俺がそばにいなくて、どうしようもなくなってしまえばいいのに……」

 獣を抱きしめれば、鼓動を感じた。同じ温度の熱が、境界を失くす。時折溶け合っては、離れ、ジュリアンは自分自身と慰め合った。ランプの茶色の硝子の内側で、閉じ込められた炎が揺れる。揺れて、壁に投げかけられた影は、死体のように動かないまま、境界をうつろう。此方と彼方、生と死の境界を。

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