其は異貌の(2)
赤い雨が降っている。
鬱陶しい髪を掻き上げて、近くの軒下に身を寄せた。女はいなかった。欲しいとも思わなかった。
見れば、空き屋のようだ。店舗募集の張り紙が、ほとんど黄色く崩れかけて、なんとか硝子に張りついていた。ふと誘われたような気がして、ショーウィンドウの横の細い通路を進んだ。程なく通路は階段へと切り替わり、地階へと続いている。先は暗く見えなかったが、磁翠は構わず進んだ。
小さな蠅が耳元で唸った。
突然、雨のにおいが消えた。
階段を下りきったところには、素っ気ない扉がある。木製で、真鍮のノブがついていた。握ればひんやりとしている。ノッカーはどこにもなく、どんな表札も出ていなかった。ぎい、と軽い軋みをあげて、扉はごく平凡に開いた。その途端、扉の隙間から、なにか熱のかたまりのようなものが漂い、磁翠の顏にぶつかり、地上へと消えていった。吐き気のするような獣臭。だが霧散した。
地階の部屋へと踏み出して、思わず磁翠は、後ろ手に扉を閉めていた。とても静かに、音を立てないように。
奇妙な部屋だった。ごく狭い正方形、いま磁翠が入ってきた扉を除く、すべての壁面が書架だった。あらゆる大きさの書物が収まり、視界を圧迫している。(息苦しい……)。そしてそのほかすべての場所には、闇が鎮座していた。だというのに、磁翠の眸はこの部屋を暴き立てる。闇を見通す黒い眼が、興奮のために冴えていた。
扉に背を向けて真直ぐに前を見ると、なにかとらえがたいものが宙に浮いていた。否、浮いているのかはわからない。それは黒い、闇よりもなお濃い、純黒とあらわすべき、あらゆる景色から遊離した黒の、亀裂だった。あれには近づいてはならないと直感し、視線を横に向ける。左手はすぐ書架の壁、右手奥には巨大な寝台があった。寝乱れた敷布を目にしたとき、なにか禍々しい欲望が頭をもたげるのを感じた。
扉の、対角線上。
そこにそれはいた。
机に向かって、一心不乱に何かを記していた。
足元の狼が、真白い毛皮をした巨きな狼が、磁翠を見つめている――。
闇はしたたるようだった。磁翠がもたらした揺らぎによって掻き乱された、その濃密な闇のもとで、痩せた少年の真白い髪は、あわい光を放っていた。ゆっくりと、引きのばされた時間が飴のように糸引くなかで、少年は振り向き、磁翠を見た。銀色の眸が、頭蓋の裏まで見通せそうに透きとおった眸が、洞を湛えて磁翠を見た。
――汚らわしい。
と。直感した。
精妙な造作のかんばせは、この世のものとは思えないほどうつくしいというのに、汚らわしいと。少年の、痩せ細った躰の隅々までが、汚れている。白い髪、白い膚、汚れを厭うて与えられたかのような色彩。青白い膚はのっぺりとしていて、薄い皮膚のしたの血管には青い血が流れているのではないかと思えるほどだった。睫も眉も白く、顔貌は、曖昧だ……。どんな、造作も関係がなかった。目で見るものより確かな感覚が、ぞわりと膚を粟立たせた。背をはしる怖気を生々しく感じた。恐怖と感嘆のうつろな余韻のうちで、磁翠は奇妙な思いに囚われた。
(この少年は、ものだ)
銀色の眸は、盲目のひとのよう。
だが確かに、少年は磁翠をとらえていた。
「こんにちは」
と、彼は、どんな抑揚も持たない、言葉の脱殻を、色の薄いくちびるから吐き出した。
「こんにちは。外は雨が降っていてね。ちょっと宿ってもいいかな」
磁翠は微笑し、首を傾げた。
「ええ」
やはり抑揚のない返事は、ことりと音を立てて暗い床に転げた。変声期を迎えるまえの、稚く性別を感じさせない声だった。目を凝らすと、机と寝台の間に、ランプが落ちていた。懐から取り出したマッチを擦って、火をいれる。ランプを机に置いた。間近に、少年がある。
灯りのもとで見た彼は、不吉な美貌に陰翳を得て、死の仮面をつけていた。銀色の双眸は、ただ静かに澄み渡りこちらを見つめるばかりで、いかなる感情をも見出すことができない。磁翠はしかし、なにか強烈な引力を感じていた。腕を伸ばし、机に手をつく。椅子に座った少年を見下ろす。空いた手の甲で、紙のように白い頬を撫ぜた。
触れた瞬間、全身の鳥肌がたった。衝動に貫かれた。手が爛れたように感じた。耐え難いむず痒さと痛み。瘧のように震えて。少年の腕を握る。立ち上がらせ、寝台へと投げ棄てた。自身も乗り上げれば、材木の哀れっぽい悲鳴が上がる。少年の首に触れた。膚は滑らかだった。どんな汚れもなかった。まるで俑のようなのに、体温ばかりがやたらと高い。獣のように熱かった。磁翠は彼のシャツを破った。ゆったりとして、どこか時代がかったシャツが、ただの布切れとなって地下室の床に落下する。
そばかすも吹き出物もない、滑らかすぎる膚に手のひらで触れた。見た目の冷たさとは裏腹の熱が、手を通してじくじくと感じられる。生きている、死んでいる、生きている、これはもの、この少年はもの、だ。生きている屍、ぬくもりを得た奇妙な肉――。目が醒めた心地がした。一瞬だけだった。少年の裸の胸の白が、ふっと視界に広がり、気が遠くなる。白、白、ひと筋の汚れにも不寛容な厳めしい白の純潔が、目を焼く。
「……おまえを抱く」
なぜそんなことを口走ったのかはわからない。言った途端、階段ですれ違ったあの獣臭が、なまぬるく鼻先に触れた。吐き気を堪えて目を閉じ、再び開いたとき、少年の表情が一変していることに気がつく。はっきりと、少年は高い声で言う。そこには確かな欲が滲んでいた。
いま彼は息を吹き返す。ぜんまいを捲かれた。磁翠の汚れの詰まったつま先によって。
「抱けよ」
少年が、赤い舌を伸ばす。
真珠粒のような白い歯を割って、赤い舌が伸ばされる。
獣のにおいが充満していた。耐え難いほどの臭気だった。
そう手と、舌を伸ばして、華奢な躰を掻き抱く。後頭部に回した手で、やわらかな髪を探りながら引き寄せる。くちびるとくちびるが合わさる前に、伸ばされた舌が、赤い舌が蛇のように磁翠を捕らえた。少年は獣のにおいがした。もうそこからは、なにもかもが欲の底だった。渦だった。
裸の熱が溶け合って、雪花石膏の膚に象牙色が交差するそして、溶けて滴る白濁が散る、汚される、磁翠、己、不在の相手、もの、少年の美貌は淫靡に咲き、狂わせる――。いったいどんな交接ならば、獣淫ならば、これだけの快楽をもたらすことができるのだろう。聖域の顏をした少年の、言いしれぬ穢れが磁翠に、触れろ、暴け、犯せと囁くのだ。許すのだ。少年の足が腰に回され、嵌はきつく磁翠を食い締める。犯しているのか、犯されているのか。上になり下になり、噛んで唸っていつの間にか、獣臭をとらえることはできなくなった。
あやまった、とはっきりと理解した。だが、捕らえた躰を離すことはできない。痩せ細った躰、浮き上がった肋骨に歯を立てる。下腹部に手を伸ばし、少年の性器を確かめた。
「あ、ああぁ、ぅん」
それは甘い声だった。少年の白い腕が敷布に投げ出されている。
磁翠は深く身を沈め、法悦の息を吐いた。
「ああ、いい……」
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