其は異貌の(1)

 赤い雨が降っている。

 こんな雨は見たことがなかった。このような汚い街も。無数に聳える奇妙な黒い石造りの塔、おおん、おおん、と不気味な鳴き声を上げる猫の眼塔の大時計……ホーンのどこにいても聞こえてくるこの音を、ひとりで聞くときには、背筋が震えた。おまえを見ている、と、そう言われている気がするのだ。

 だがこの街を、出る気にはなれなかった。どうして、と問われても、答えることはできない。

 ただ、そうなのだ。

 故国の戦火を逃れて彷徨いこんだホーンで、磁翠は自らが異国できちんと生活していけることを確認した。もとより旅の多い生活を送っていたからかもしれない。環境に鈍感だということは、いつも良いほうへと作用してきた。とはいえ、この街では大陸の帝国語を話すことができれば言葉に困ることもなかったし、異邦人が金を稼ぐ手段は数え切れぬほどあった。というよりも、ホーンの住人らは異邦人を異邦人として認識することがあまりないように思える。それだけ雑多とした街だ。混沌と呼ぶに相応しい。あらゆる人種が観察できる。磁翠のような、象牙色の膚をしたものも、褐色の膚のものもいる。

 鬱陶しい髪を掻き上げて、近くの軒下に身を寄せる。

 同じように宿っていた女が、感じよく笑った。ぎざぎざの黄色い歯がのぞいていた。胸もとが大きく開いた服、薄汚れたペチコートと泥まみれのブーツのつま先、手にはジンの壜を持っていた。「飲む?」と聞かれて、差し出されるがまま受け取り、口をつけた。ひどい味がした。だが酒は酒だ。「どこだ?」「すぐそこ」、汚い身形だが、卵型の輪郭を縁取る赤い巻き毛は魅力的だ。

 女のあとについて赤錆びの雨のもと再び身をさらす。血のにおいのする異様の雨は、くたびれたシャツをあっという間に染め上げる。もとより汚れていた。新しくうつくしいものではなかった。先を行く女も同じだ。暗がりの掘っ立て小屋も、布で仕切っただけの、魚籠のような狭い娼窟も。何もかもが薄汚れている。生きているために排泄されるあらゆる汚物を纏って、かわいい笑顔を浮かべる。

 汚れるほどに自由になれる。

 欲は歓びだ。

 目の前の女は、それをよくわかっている。だから服を脱いだりしない。狭苦しい窟の壁に手をつき、「さあ」と楽しげに腰を振る。

「あんたはいい女だ」

 そう言って尻を叩く。女ははしゃいだ声を上げ、自らペチコートをめくり上げた。



「アネモネ」

 なあにい、と部屋の奥から間延びした声が響いた。仮の住まいであるこの部屋の持ち主は、このホーンでは比較的のんびりとした普通の生活を送っている。夜に営業する、喫茶店のような酒場の女給だ。磁翠がここに転がり込んでから一週間が経とうとしていた。男物も女物も、他人の衣服がたくさん用意されているこの部屋は、どうもいろいろな人間が出入りしているようだ。

 アネモネはやはり感じのいい女で、決して磁翠に躰を開かない。綺麗好きだが、たくさんの人間が行き交うこの部屋には、常に知らぬにおいが満ちていた。おもしろいのは、アネモネは好きでもない人間までここに受け入れることだった。一週間で、彼女の愛想笑いとそうでない笑いを見分けられるようになった。

「散歩してくる」

「べつにあたしに断らなくたっていいわよ」

「ん」

「あんたってけっこう律儀よね。ふしぎ。いかにもだらしがないですって顏と見た目なのにね」

「そう?」

「そう。目立つから、あちこちで見かけたって噂を聞くの」

「はあ。本命はあたしよって言っておいてくれた?」

「言うわけないでしょ。もう。あたしに色目をつかわないで」

「ごめんね、大家さん」

「そうよ。ほら、出るんでしょ? 行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 《槌地区》のはずれの、少しだけ静かなアパートメント。はずれ、とはいっても、ホーン自体がごく狭い街だ。繁華街に出るにはそう歩く必要もない。にぎわうのはだいたい夕暮れからだが、磁翠は午前中に出歩くのも好きだった。精も根も尽き果てたような男女が、片足を引きずりながら歩いているのを見るのが好きだ。あるいは、夜の終わりに泣くひとを探すのが。

 空を見上げれば陰鬱な曇り。いまにも雨が降りだしそうだった。《時計地区》に行ってみようか。瀟洒な屋敷が多い《時計地区》は、高級住宅街といった雰囲気で、魔術師やホーンの有力者が多く住まっているのだと聞いた。幾度か足を運んでいたが、滅多にひとに出会うことはなかった。そう言うと、アネモネは「魔術師はそう出歩くものじゃないのよ」と何故だか自慢げにしていた。

 おもしろいのは、この地区を歩くとき、時折断末魔としか呼びようのない叫びが聞こえてくることだ。それぞれ趣味はまったく異なりながらも、こだわりの見られる屋敷のなかで、いったいなにが起きているのか。魔術師という存在がここまで身近なのは、ホーンの異様のひとつだろう。少なくとも磁翠の故国に、本物の魔術師はいないはずだ。どころか、大陸にだっているかどうか。

(赤い雨も、魔術師たちの争いのせいだってうわさだ)

 魔術。

 それを探し求めて、方々まで旅をした。結局見つけることができず、出会うことができず、戦争が起きたのをいい機会に(戦火を厭い、とはよく言ったものだ)ホーンへとやってきた。堕落の都、廃された街、大陸の、魔術師たちの、最後の楽園。

 だが――この街の住人は、それをわかっているのだか、わかっていないのだか。

 魔術師ではないものたちも、あまりにも魔術に馴染みすぎていた。関わることはなくとも、存在して当たり前のものだと思っている。ホーンを一歩出た途端、魔術はほとんど息絶えかけているというのに。深すぎる壕と、高すぎる城壁を潜った先。逆に言えばたったそれだけの遮蔽物で、人間の意識に、そこまで溝ができるというのもおかしな話だった。

 ホーンは食糧を自給することができない。そのすべてを外部からの輸送に頼っている。だというのに、だ。ホーンを知るにはなかに入ってみるしか手段はない。気味が悪いほど、外ではホーンの詳細を知ることが出来ない。なにかが分厚い手のひらで、野菜の欠片を受け入れるためにそっと門を開けて、それ以外の何物をも出ることは許されない。そんな風だった。いわば磁翠は野菜の欠片のようなものだ。紛れ込んだ、一時産品。野菜や肉や魚や小麦といったもの。

 一度踏み入れば、二度と出られない、などというのはくだらない妄言だ。魔術を研究したいならば、ホーンに踏み入れるしか手段はないと言える。断片的な情報は書籍の燃えかす程度には残っているが、魔術自体はいわば虫の息だ。ここホーンだけが、一度踏み入れば二度と出られないと称されるホーンだけが、最後の魔術の所在地なのだ。

(大法螺だ。二度と出られないなんて。俺はいつでも出てゆける)

 だが、と考えることもあった。

 刺激的すぎるほどのこの街は、どこかおかしい。その汚れが、自分を惹きつけてやまないということを、磁翠はよく承知していた。呑み込まれるも一興、或は。

 《槌地区》から《時計地区》へとゆくには、猫の眼塔のある猫の眼広場を通り抜けるのがいちばんはやい。早朝でも人出の多い猫の眼通りの露店で、朝食を吟味する。磁翠はゆったりと歩いた。時折声をかけられ、挨拶を交わす。

「ひとつくれ」

「熱いよ、気をつけな」

 肉餡の入った蒸し饅頭を買って、頬張った。饅頭の中から湯気が立ちのぼり、餡がとろける。火傷しそうに熱いそれを、口を開けて息を逃しながら飲み下す。熱量が胃腑へと落ちこみ、躰が軽くなる。濃い味付けだ。なにか食べ慣れない香草が入っているようで、独特の風味を感じた。やわらかく煮込まれた何かの肉が入っていて、脂の甘さが香草の刺激的な風味とよく合う。最後のひと口を飲み下し、ぺろりと指を舐めた。

 ホーンのほぼ中央に猫の眼塔・猫の眼広場があり、そこから時計の文字盤のように、四つの地区が順番に存在している。十二時は《時計地区》、三時が《螺旋地区》、六時が《槌地区》で、九時が《指輪地区》だ。そして文字盤の周縁は廃墟の《釘地区》、さらにその外枠が、城壁と壕だ。

 そんなふうに思い浮かべることはできるのに、この街には地図がない。正確な広さもわからない。

 いま、いったい、自分はどこにいるのか?

 常に変化し続けるホーンという街は、まるで生きているかのようだ。

 実際のところ、磁翠がこの街にやってきてからのたった一週間のあいだにも、たとえば猫の眼通りの露店や、《指輪地区》の娼館、そして不気味な黒い塔は、変わっている。記録をとっているわけではないが、記憶は確かに変化を認識している。

 そして極めつけに、ホーンには暦がないのだ。

 《時計地区》というくらいだから、時計も時間も存在しているのに、それは猫の眼塔の大時計に拠っている。誰の時計も猫の眼時計の子どもといった風で、おおん、おおんというあの気味の悪い泣き声がホーンの標準時だった。いま磁翠の懐でこつこつと時を刻む銀の時計も同じだ。合わせた覚えもないのに、猫の眼時計の血を汲んだ。

 一週間、というのは、磁翠の膚の感覚だ。

 ほんとうは、もっと長い時を、この街で過ごしているのかもしれない。そんな気もしていた。

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