病める白百合

跳世ひつじ

使古しの幻想


「おい、ジュリアン。なんだこれは」

「…………」

「吐くなら自分の部屋にしろ! わたしの部屋を汚すな。おまえってやつは、まったく……なにを笑っている」

「べつ、に……。師匠、うるさい……」

「薬を飲まないからだ。反抗的な態度もいいがな、それで死んだらどうするつもりだ。おまえはその程度の魔術師なのか? わたしに恥をかかせるなよ、ジュリアン」

「弟子なんか、たくさんいるだろ」

「……ああ、なるほどな。わたしに甘えたかったということか。いいだろう、こっちを向けよ、かわいい顔を見せろ、ジュリアン。そうだ、確かにこのわたしには弟子がたくさんいるがな、おまえは特別な弟子なんだ。おまえに死んでもらっては困る。そもそも、すきに死ぬ権利があると驕るな。おまえの命はわたしのものだ。わたしが拾ったものだ。おまえのものではない」

「師匠」

「なんだ、満足しただろう。はやく片付けろ。不愉快だ」

「俺の命はあんたのものだ」

「おまえが言葉を知る前から、そうだ」

 不満足な眸、ドアノブのような真鍮色の眸を細めて、彼女は頷く。

 いつもは見下す低身長の師だが、こうして情けなく蹲っていれば、目線は同じだ。恐ろしいほど整っていて、どこか人間らしくない幼子の顏は、不気味なばかりだ。だが、表情の豊かさがそう思わせない。腥く笑い、大いに怒り、彼女はジュリアンをかわいがった。ほかのどの弟子よりも、自分は特別だと、ジュリアンが思えるほどには。

「なあ師匠」

「なんだ、しつこいぞ」

「俺のこと、捨てないで」

 目が醒めた。橙色の灯りが静かに揺れていた。室内は狭いが、あまりにも闇は濃かった。灯りの周囲のものだけが、かろうじて照らされている。茫洋とした橙色は、垂れるほど濃い黒になじみ、境界は夜のかげろうのようだった。不必要な睡眠に敢えて身をゆだねるのは、ひとえに師のため。彼女の幻影でもいい、ほんのひとかけらでいい、すがたを見たくて。

 目醒めてしまえばすべては元あるままに戻るだけだ。小さな寝台に半身を起こして、ジュリアンはぼんやりと部屋の淀んだ空気を見つめていた。ちょうど寝台の対角線上にある亀裂は、今日も変わらないまま、闇とは異なる黒でもって、そこに在った。常に大きさは変化し続けているが、場所を移動することはない。彼方と此方の揺らぎ、このホーンという街に、よくあるものだ。

「師匠……トウラン」

 大切で、大切で、大切で。彼女の前で名前を呼ぶことはできない。決して。

「おい、ひとの名まえをなんだと思っている」

 心臓が止まるかと思った。

 勢いよく振り向けば、ちいさな躰がジュリアンに向かって飛び込んでくるところだった。どす、とちいさくとも決して軽いとは言えない幼子の体重を受け止め、寝台に倒れる。

「ええ……?」

 ジュリアンに馬乗りになった師――トウランは、くちびるをぐにゃりと曲げてとても嫌なふうに笑った。

「やあジュリアン、どうした、石でも飲みこんだような顔をして。綺麗な面が尚更あどけなく見えるぞ」

「誰が……女の子みたいな顔だよ!」

「言ってないが」

「し、しょ……」

 吐息が掠れて、声はかたちを失う。

 どうして。

 いつ、彼女は帰ってきたのだ。疑問を押し流し、溢れだしたのは呪いでも愛でもなく、安堵だった。ああ彼女は、師は自分を裏切らなかった。ジュリアンは信じていた。疑っていなかった。けれど安堵した。とてつもなく重かった、時間が、待つだけの時間が、肩から落ちて凄まじい音を立てる。幻。

「私のかわいいジュリアン。いい子で留守番していたか?」

 歯を剥いて嗤う。ぞっとするほど赤い歯茎と、真珠粒のような白い歯の鮮烈なコントラストが目を焼く。赤と白、そして黒い洞のような喉奥からは、蟲が這う音がする。サディラスマイラス、彼も健在だ、きっと。

「師匠……サディ……お、俺、は、ずっと」

「ああ。待たせたな。だがこの程度の時間を永い、と表しはしない。そうだろう、ジュリアン? 永遠へと近づけば、魔術師としての矜持があれば、誰だってそうは言うことはできまいよ。だが、」

 肩を竦めて、小首を傾げる。

 馬乗りになったままの彼女は、ジュリアンの躰のうえで動き、半身を起こさせた。そして、短い腕をいっぱいに広げる。見下ろす恰好になったのに、ジュリアンには、師がなによりも強靭で、慈愛に満ちた、巨大な人物に見えた。円い頬をくっと持ち上げて、やはり師は、ジュリアンに笑いかける。だが、という言葉の続きは、果てなく甘美なものだった。そうであることを知っていた。

「だが、抱き締めてやろう。おまえは私の、愛のすべてだ」

 なぜならこれは夢だから。

 すべて、幾百回も見た夢。幾百重の箱の底、深く空しい入れ子の夢の、終わり、目覚めの間際の残酷だ。



「……っ、はあ、ぁ、うぅぅ」

 汗をかかないにしても、汗をぬぐう仕草が抜けきることはなかった。汚れていないシャツを去った。脱ぎ捨てた衣服には、あとでアイロンをかける。裸になって、寝台に座り、項垂れた。目覚めは苦痛だ。それでも、眠ることをやめるという選択肢は、ジュリアンにはない。

「師匠」

 幼いすがたをした大魔術師。

 この夢のように残酷なひとを、待ちつづけて、いる。幾年経ったかわからない。幾十年、幾百年かもわからない。ただ、この狭い地下室で、入口も出口もない部屋で、ジュリアンは彼女を待ちつづけている。いまも。夢をみている間でさえも。

 風がないのに炎は揺れて、壁に投げかけられたランプシェードの橙色がぐらりめらりと蠢いた。淀んだ空気を掻き乱すのはジュリアンではなく、むっとした獣臭だ。部屋を見渡すと、仄かに輝く白い毛皮をした狼が、片隅に座っていた。肢を折り、行儀よく。黒い亀裂の横で、きちんと居住まいを正していた。

「おいで」

 ゆったりと立ち上がる。巨大な狼は、流れる毛並みに光と翳を享けて斑に染まり、ジュリアンの寝台の下で座った。鼻づらを伸ばすので、触れてやると湿っていた。生ぬるい息を、静かに吐き出している。撫でてやっても、鋭い顔つきに変化は見られない。だが、少しだけ、銀色の眸がゆるんだ気がした。

「ああ、腹が、空いたね……」

 だが、亀裂はとても小さい。

 いつからか、この獣は、亀裂を通り抜けることができなくなった。質量に縛られない性質であるはずの亀裂は、目に見えないほどゆるやかに縮小しつづけ、どれほど歳を重ねたか、いまこうして這入りこめないほどまで小さくなってしまった。

 狼は切なそうに鼻を鳴らして、目をつむり、開く。自らと同じ銀色の双眸は、なにかを訴えかけていた。頷き、ふうと息を吐く。

 生理的欲求を感じることのない肉体だが、魂の飢餓は敏感すぎるほどに知覚していた。

 だがそれは、待ちつづけているひとのための餓えなのか、生への希求なのか、ジュリアン自身でもわからなかった。ふたつは分かち難く絡まり合って、混然一体となりジュリアンの肉を成した。

 待っていればいい。待つだけでいい。ほかになにもせずともいい。

 獣の首を抱きしめて、深く息を吸った。臭う。生きているもののにおいがする。自分の身を離れた生の、耐え難い悪臭で肺を満たす。獣は痩せていた。毛皮は輝きを放っているのに、その下の肉は細り、骨のかたちがありありと手に伝わる。

「誰か、……来ないかな」

 誰か。

 ジュリアンは生きていなければならない。師が来る日まで。彼女の望むだけの長さを。永遠でも。生きて、生きて、待っていなければ。彼女を孤独にしてはならない。弟子として、この世界の誰よりも、彼女を愛するものとして。

 誰か。

「助けてください……」

 師匠。トウラン。ちいさな大魔術師。

(俺の愛のすべて)

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