日光と氷と僕のおもいで

宮 都

日光と氷と僕のおもいで

 東京から車で二時間。

 大きな杉と桜の古木の並ぶ街道は、天井の高いトンネルのようだ。徳川家康をまつ東照宮とうしょうぐうへと続くこの道は日光街道と呼ばれ、江戸時代に整備された五街道の一つである。

 前にこの道を通ったのはもう二十年近くも昔だ。それでもこの景色は当時と何も変わらなかった。大きな胴回りの杉の木の貫禄。後ろの座席から窓の外を見上げていた子どもの頃を思い出していた。


 先日、祖父の遺品を整理した母が、僕の映っている写真を送ってくれた。

 子どもの頃、よく祖父達と一緒に過ごした日光のホテルでの写真。あまりの懐かしさに、そうだ、来年の初詣は東照宮に行こうと思い立った。母には忙しいから帰れないと言っていたのだけれど、本当は面倒なだけで正月にはちゃんと休みがもらえていた。


 日光に近づくにつれ、僕の中では懐かしさより心が躍るような気分の方が大きくなっていた。

 子どもの頃、僕は毎年正月の休みを家族とそのホテルで過ごした。建物の裏には小さなスケートリンクがあり、そこで日がな一日遊ぶのが年に一度の楽しみだった。

 あの頃は気づかなかったが、あの氷は今ではあまり見かけない天然のものだったらしい。昔、スケートは日光のように寒い地域で天然の氷で楽しむのが一般的だったようだ。


 祖父の体が弱くなり遠出があまりできなくなったころから、すっかり訪れることもなくなっていたあのホテルは、今どうなっているだろう。


 並木のトンネルを抜け、街に入った。道沿いには昔ながらの瓦屋根の建物が並んでいる。屋根の上に猿が数匹座っていて、運転中だというのに思わず目を奪われてしまった。


 東照宮の少し手前の左手の山際にそのホテルはあった。国道から急な坂を上がると、自然に囲まれた白くて古い洋館が現れる。ここも昔と何も変わっていなかった。

 木製の回転扉を通りチェックインを済ませる。木造の和のテイストに、西洋風のインテリアが趣深い。開国して間もない明治に開業したそのホテルは、日本で最も歴史の長いホテルなのだそうだ。


 僕は階段を上がると部屋の前を通過して、そのままスケートリンクへと続く廊下の方へと向かった。きしむ床の音が歴史を感じさせる。

 リンクは本館の建物からいくつかの建物を通り、山に近い小高いところに作られていた。

 外回廊のような階段を上がっていくと、そこに美しい人影が見えた。

 腰あたりまで伸びたまっすぐな黒髪とコートの裾からのぞくチェックのスカートが、外の風にかすかに揺れている。きれいな横顔。高校生か、中学生くらいだろうか。くっきりとした目が何かに向けられていた。

 スケートリンクだろう。

 僕も階段を最後まで上り、彼女の隣まで行くと同じ方向へと目を向けた。


「あれ?」


 そこには誰の姿もなかった。家族連れや子供でにぎわっていると思っていたそこには、薄い氷の張ったただの荒れた水たまりがあるだけだった。


 困惑して隣を見ると、少女と目が合った。白い息を吐いている彼女の桃色の唇が動いた。

「最近氷が張らない年が多いらしいんです。温暖化って言うんですよね」

 透き通るような声。

「今年は、無理だったみたいですね」

「ああ、そうなんだ」

 こんなに震えるほど寒いのに。

 誰もいないリンクの跡は思ったよりも小さく見えた。


「君もここのスケートを楽しみにして来たの?」

「いいえ。私は、見に来ただけです。見れるといいなとは思っていたのですが」


 彼女はアイスダンスをやっているのだそうで、近くのスケートリンクに合宿に来たのだと言った。付き添いの親御さんはここに泊まる予定らしく、その親御さんが僕と同じようにこのリンクに思い出を持っていたらしい。

「アイスダンスかあ。懐かしいな」

 彼女の話で、忘れていたリンクの思い出がよみがえってきた。


 このリンクではなぜか流れる音楽に合わせて、突然お客さん同士がアイスダンスを始める時があった。その場にいたおじさんおばさん達が、社交ダンスのように手をとって滑り始めたことをおぼろげながら覚えている。

 どうして即興でそんなことができる人が何人もいたのか。よく考えてみると不思議だ。


 僕がそんな話をすると、彼女はほほえみながら相槌あいづちを打ってくれた。たまに「そうみたいですね」と、あたかも自分は昔からその話を知っていたと言わんばかりの返事をした。でもどんな態度を取られても、年の離れたこんな美しい少女に嫌な気になどならなかった。


 話をしているうちに、僕はかつての楽しかったという気持ちだけでなく、色々なことを思い出していった。


 どんなことがあって、

 どんな風に感じて、

 その時、誰がそばにいたのか――


 彼女は、滑りたければこの近くにリンクはありますよ、と合宿に行くリンクの名前を教えてくれた。僕はただ彼女にありがとうと言った。大人になった僕はどうやらスケートをするためにここに来たのではないようだった。


氷華ひょうかさん」

 しばらくすると階段の下から彼女の母親らしき人の声がした。

「寒くなるし、もう帰っていらっしゃいな」

 はい、と澄んだ声で返事をすると、彼女は僕に「最近でも滑れる年もあるみたいですよ」と言ってその場を去った。彼女の後ろ姿の向こうに、うっすらと雪をいただいた日光の山々が眩しかった。


 その日はスケートをする予定がなくなった分、長い時間をかけて東照宮を見物して回った。

 翌朝、両親へのお土産にと思い、ホテルの前の店で揚げ湯葉を買った。僕も祖父もすき焼きに入ったこれに目がなかった。


 一番楽しみにしていたものを見ることはできなかったけれど、なかなか良い一日だったと昨日の彼女とのことを思い出しながら思う。


 それにしてもアイスダンスというのは大人が楽しむものだと思っていたのだが。

 あんなきれいな子がアイスダンスか。どんな風に滑るんだろう……。


 気がつくと僕はカーナビで付近の地図を見ていた。そして車は自宅とも実家とも違う反対の山の方へと走り出した。

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